自然の制作とエマソンの「自己信頼」
わたしのこと . 読書一つの制作が形となったので、しばらく読書を楽しんでいます。制作の間でも、グレン・グールド、バッハに関する本を読んでいましたが、それを経由して、芥川也寸著の『音楽の基礎』を読みました。音楽の世界については、妹の領分であったので、これまであまり立ち入らないようにしていたところがありましたが、彼女の蔵書を実はこっそり覗いていたこともあって、音楽の仕組みへの興味は尽きません。
一方で、長い間少しずつ読んでいる本があります。『世界の歴史23 アメリカ合衆国の膨張』です。この中央公論社の全集を、実は子供の頃から蔵書していたのですが、もったいないことに一度全冊手放してしまいました。子どもの頃は1巻から読んでいましたから、今度は読み残した後ろの番号から買って読むようにしています。この全集はどの巻も著者の力のようなものを感じて、とても感動します。今回もこの本を読む事で、これまで漠然としたイメージでとらえていたアメリカというものを、歴史的に捉えることが少しだけできるようになった気がしています。特に後半部分の「アメリカ文化の展開」をとても興味深く読みました。ふと、例えばスティーブ・ジョブズという人の仕事が生まれた理由を自分なりに考えてみました。一人の天才が生まれるには、その国がその人を生み出す理由が必ずあり、その人の個という存在の渇望というよりも、その存在を共有する人々全体の渇望が個と一致している、という見方も出来るのかもしれません。
この「アメリカ文化の展開」の中にラルフ・ウォルド・エマソンの名前が出て来ます。アメリカの文化をヨーロッパから独立させ、独自の特徴を確立すべく努力した人々。彼らの思想基盤になった第一人者がエマソンであると紹介されています。その思想の中心となるキーワードが「自己信頼」です。改めて、エマソンの説く「自己信頼」について、言葉をたどってみました。著作は岩波文庫の『エマソン論文集』の上巻に治められているようですが、残念ながら現在古本でしか入手出来ません。そのかわりにいろいろな人が訳してサイト等で紹介しています。
例えばエマソンは、「自己信頼」で次のような言葉を残しています。
『自分の思いを信じること、自分の心のなかの自分にとっての真実はすべての人にとっての真実だと信じること、それが才能なのです。』(「自己信頼」)
その自己とは、世界中の賛同を得られるような神聖な高潔さが求められています。だから天命であったり天職という言葉になるわけです。これが「宿命」とか「とりあえずの仕事」という場合には、どこか天から見放された感がありますものね。それは高潔な精神にふさわしくない生き方ということでしょう。
『人にはそれぞれ天職があります。才能は天賦のものです。人には、限りない努力を傾けるよう暗黙のうちにいざなう能力が備わっています。この才能とこの天命は、人の本質、すなわちその内部に具現化された普遍的な魂のあり方に依拠するのです。人は、その人には簡単で立派にこなせるけれども、他人にはできないという仕事をするのです。そこに競合者はいません。なぜなら、自分の力を真摯に頼るほど、その仕事が、ほかの人の仕事とは大きく異なってくるからです。ーー略ーー 人は自分の仕事を果たすことで、自分が貢献できる事柄を他人に実感してもらい、自ら味わう楽しみを得ることになります。自分の仕事を果たすことで、自分を解放するのです。全身でほかの人々に自分のことを伝えられるようになるまでは、その人が天職を見つけたとは言えません。人はそこに自己の内面を表現する手段を見出すべきであり、それによって自分の仕事の正当性を人々に示すことができるのです。』(「精神の法則」)
自分自身を振り返り、そもそも自己をどのように信頼して来たかを思い出してみました。ターニングポイントになった出来事がいくつかありました。何度も違う道にそれて行きそうになったのですが、その度に自分の中に理由の分からない違和感が沸々と湧いて来るのでした。その直感のようなものは、決して一般的な理性的な判断、例えば経済的な事とか、家族の意見、「普通の人は」というような固定概念と全く相反するものでした。ですから、必ず葛藤や焦燥感があり、社会から孤立したような気持ちになる時期がありました。ですから何度も失敗して、一見居心地の良さそうな理性的な判断に流れそうになりました。
私の場合、そうするとろくなことが起きませんでした。不愉快な問題に巻き込まれたり、理不尽な扱いをされたり、居心地の悪い空気が用意されていました。あまり我慢し過ぎて病気になったり、どこに隠れていたのだろうと思うような自分の弱い部分が出てしまい、惨めな思いをすることにもなりました。それでも自己が萎縮せずに、進路を修正し、むしろその弱さを自覚する事で、少しずつ自分の許容範囲を大きくする事が出来たかもしれません。少々の失敗や自分の不甲斐なさも、自分のものと愛おしむことができたのだと思います。それは、おそらく子どもの頃あまり背伸びせずに、のんびりとした環境で育ったおかげでしょう。そしてそういう経験すらも今となっては全て、画家としての制作の活力や糧になってしまっています。
しかし、画家への道のりに軌道が乗るまでには、かなり時間を要しました。それでもおそらく「ここが画家になると決意した出発点」と自覚した地点があります。それは私にとってとても衝撃的な1日になりました。でも、これを文章にしてもあまり人には何が衝撃的なのか伝わらないかもしれません。ですから自分の自覚のために書くことにします。
それは1995年の3月16日か17日だったのではないかと思います。私は知り合いの作家のDMを持って東京の神谷町の小さな画廊に行きました。地下鉄の神谷町の駅を地上に上がると、なぜかあたりはものものしい状況でした。車両から大音量のマイクで何かに反対する抗議放送をしていました。とにかく煩くて、落ち着かない空気に包まれていました。それは画廊に入っても聞こえていたのです。その人の個展を見ている内に、私は言い知れぬ強い気持ちが込み上げて来て、それは外の騒々しさが相乗しているのか、やがて身体全体がバクバクと脈打つかのような異常事態にまで変化したのです。そういう経験は初めてでした。長い人生上には、頭が真っ白になって気が遠くなった経験が1度あり、それも一つのターニングポイントとなるような事件でしたが、この二つ目はまた全然違う衝撃でした。
その原因はその個展の作品にあるのでもなく、騒音によるものではなく、むしろそれらは、バクバクすることの心象風景として外に現われているかのように思われました。私自身の内側に、その原因がありました。この瞬間が私が明確に「私は画家になろう」という言葉になった地点になったからです。このニュアンスをもっと細かく説明すると「そうか、これまでいろいろなことに煩わされて自分が見えなくなっていたけれど、それは自分がこの瞬間に至るためにあったのかもしれない...。私は画家になると決意するためにそうなっていたのだ。」というようなニュアンスです。そしてそれは「自分でも信じられない、まさか自分がそのような大それた気持ちになるなんて...。」という驚きによるものだったのです。
私は立っていられなくなって、画廊に用意されていた椅子にしばらく呆然と座り、ほとんど作品は見えていなくて、ひたすら自分がこれからどのような行動に移るべきかを考えていました。結論として次の日に、「とりあえずしていた仕事」の「辞職願」を出す決意をしたのでした。
その3日か4日後の20日に、あの「地下鉄サリン事件」が起きました。六本木と神谷町の駅の間でサリンの異臭が起きたということでした。私はこのニュースを耳にした時に、私の中にも何かが終わったことを自覚したのです。それは私にとっての狂信的な思い込み、つまり「美術を研究する」役割という大きな勘違いの終焉と読み解きました。私は何かに向かって広く美術を学ぶ時期ではあったのですが、それが仕事になるのではなく、それを糧にして「美術をする」側の能力を持っていたことにようやく気づいたのです。しかし、その道程はとても険しく、常識では無謀な判断のようにしか思えませんでした。しかし、私にはもうこの道しかないと思う程に、自分の存在を持って行く場所が他になくなっていたのです。
その地点で、それまで少しずつ作品を描きためてはいたものの、周囲の人を説得するような理由や立証できるような成果は何もありませんでした。そしてまず「個展をしながら生きてみよう」と決意し、これまでの生活が全く変わってしまう事の大きな不安がある一方で、それでもその強い衝撃と不確かな直感に身をゆだねることにしたのです。ゆだねるというよりも、自分をためしてみよう、という気持ちの方が正確かもしれません。それがエマソンの「自己信頼」に値するものであったのかどうか,今もってはっきりとは判断出来ません。しかし、エマソンによると、その人の確固とした意志というよりも、もっと自然の成り行きに身を任せるような本能的な選択というもののようですから、やはりこれにあてはまるのかもしれません。
『実際の生活においては自然が意志に優越します。歴史においては、私たちが考えるほど意志は働いていません。私たちはカエサルやナポレオンの深遠で洞察に満ちた構想があったと思っていますが、彼らの力の真髄は自然にこそ備わっていたのであり、彼ら自身に備わっていたのではありません。彼らが成功したのは思いの進み行くままにその身をまかせたからであり、その思いもまた彼らのなかに障害のない道を見出したからなのです。そして、彼らが目に見える案内役となったゆえに実現した驚くべき成果が、彼ら自身の行いであったかのように見えるということなのです。』(「精神の法則」)
私が制作をすることに関して言えば、それをする分には何ら支障が起きることがありません。1995年から発表活動をして来ましたが、その間に起きた問題というのは常に制作以外のことに手を伸ばした場合のみです。その度に「余計な雑念を捨てて、制作に集中しなさい」と叱られているような気になります(苦笑)。思えばいろいろなことがありました。そしてもう制作はできないのではないかと事態にいたっても、何もせずにはいられなくて、やはりキャンバスに向かっている自分があります。
制作をして、一つまた二つと作品が完成してしまうと、それはもう手から離れてしまい、自分のものではないという感じになります。もちろん出来上がると嬉しいし、しばらくは「こういうものを制作出来る力がまだ自分の中に眠っているのか」とつくづく思いますが、もう次の制作の事に気持ちが移ってしまうのです。うまく出来ているなと思います。だいたい完成のちょっと手前で、その作品では出来なかったことが見えて来ます。それをその作品に入れてしまうと、また一から作り直すことになるので、それは次の作品にすることにします。それが消えないうちに、次のキャンバスの下地作りを始めることになります。
今は10号のキャンバスに向かっています。130号の作品で起きたアイデアを試しているのです。これがだいたい思うように行っているので、もっと内容を膨らませて100号の作品にしたいと思い、昨日木枠を組み立てました。10号キャンバスの隣では、30号キャンバスの地塗りが始まっています。これは来月KANEKO ART TOKYOに送るつもりで用意しているものです。130号の新作では、最初から構図をある程度決めておくといかに制作がはかどるかを今更ながら実感しましたので、そこでは使わなかった別の構図をこの30号で試してみようと思っています。
構図はいつも買い物がてら、空を見上げて教えてもらいます。空にいつもヒントが用意されているのです。昨日も素晴らしく気持ちの良い空でした。シンプルなのに複雑で、必ずはっとするような恵みがあります。それをスケッチすることはなく、身体の中に記憶させます。何かを見ながら写して描くという事を私はしません。目はいつも制作するキャンバスを見ていたいからです。記憶したものがスクラッチの時に手の動きになって流れ出て来ます。空の雲の形状と配置は、目に見えない大気の動き、風の成せる技だからです。この風を自分の中に持つのです。そして目にははっきり見えなくなる下地のスクラッチに入れるのです。
自然と共に生き、制作する事が今の私の幸せです。
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