Month: 7月 2011

ジャパンエキスポ・漫画文化・小田ひで次

たまには、立て続けにブログを書いてみることにしました。最近は、肝心なことは書かなくて、それ以外の内容になっていると思いますが。。。夏休み企画ということでお許し下さい。

つい最近、フランスとアメリカで、ジャパンエキスポが開催されたことが、サイト等で騒がれていました。日本のアニメや文化が海外でとても注目されているのです。

昔の記憶を辿ると、ちょうど20年以上前にドイツに留学した時に、語学学校のクラスメイト、ベルギーの人から真面目な顔で「日本の漫画は素晴らしい。ベルギーでは子供の教育に、とても重要視されてきています。」とドイツ語で言われて、何だか恥ずかしいような信じられないような気持ちになった経験があります。

日本では長らく、子供の教育に良からぬ影響があるものとして、漫画が大人達から批判されていることを知っていたからだと思います。私自身子供の時に、漫画を読むのも描くのも禁止されたことがあるくらいです。それでもこっそり読んだり、真似して描いたりしたものですが(苦笑)。

その後ずっと後になって、2006年にドイツのフランクフルトのブックメッセを見に行った時に、漫画の特設コーナーを見かけまして、その時から日本の漫画が日本の文化としてかなり重要視されて来ているという実感を持ちました。そして、その周辺に中国や台湾、韓国の漫画もちらほら置かれていて、日本の漫画の影響力が周辺のアジア諸国に広がりつつあることも、知りました。

中国は中国風の筆のタッチなどが面白く、絵も上手いなぁと思ったものです。韓国の漫画はほとんど日本と区別がつかない程になっていて、韓国のアイデンティティとはどのあたりにあるのだろう?と感じた程でした。

現代アートでも、アメリカのロイ・リキテンシュタイン(1923-1997)が、コミック漫画の1ページをそのまま拡大してキャンバスに描くというような表現が、既に1960年代初頭に発表されていまして、ファインアートが漫画表現を取り入れてから半世紀も経っています。当時は眉をひそめる類いの画期的な表現でしたが、今では教科書にも掲載されている程、極有名な表現のひとつです。

今では日本の漫画・アニメは世界に誇れる文化のひとつという意識が確立されつつありますが、これにしてもよく考えてみると、アメリカの「バッドマン」や「スーパーマン」のようなコミック、あるいはデズニー映画がなかったら、またこれほどには発展しなかったかもしれないと私などは思います。

よい意味で、漫画文化がアジアの諸国や世界を結びつける架け橋のようになったらと思います。グローバリズムと各国のアイデンティティの尊重は、なかなか両立するのが難しい課題ではありますが、自分の文化のルーツをしっかり認識した上で、世界に向けてプローチできるような漫画が、今後増々重要視されて行くに違いありません。模倣が進み、様式化した時点で、ひとつの表現形式は使い古され、魅力のないものに陥るからです。

さて、このようにジャパンエキスポという言葉が、なぜか最近シンクロしていまして、図書館の特設コーナーで何気なく手にした本『なぜ今どきの男子は眉を整えるのか』に、なぜかジャパンエキスポのことが書かれていて、びっくりでした。かなり詳しく、フランスでのタタミゼ(若い日本文化愛好家のこと)のことが紹介されていました。この文章を読みますと、漫画やアニメを越えて、母系社会に育った日本人の若者のセンスがいかにフランス人をはじめとする世界の多くの若者達の心を鷲掴みし、痺れさせているかを知って、驚くばかりです。日本人はおそらく、まったくもってそのことを知らないのではないでしょうか?まぁ、それが日本独特のクールジャパンの様相そのものなのかもしれませんが(苦笑)。まだまだ日本人には世界に誇れる固有のセンスが隠れ潜んでいます。それらは磨き輝く時を、じっと待っている国の宝と言えましょう。

そうそう、久しぶりの宣伝もしておきましょうね。漫画家小田ひで次さんの『夢の空地』には、私の作品と作家活動がちらりちらりと紹介されています。この本は2005年10月31日に、日、仏、英、西、伊、蘭6カ国語同時刊行されました。もうかれこれ6年になりますが、そろそろ日本現代画家の存在も漫画とともに広く世界に知られても良い頃でしょうか(笑)?いやいや、リキテンシュタインの絵が日本の美術の教科書に載るくらいですから、後50年もすると、フランスの教科書に掲載されることがないとも限りませんよ(大笑)。

小田さんは『拡散』という漫画で、フランスで高く評価された希有な漫画家です。この漫画は、哲学的な虚無の世界観を、美しい繊細なタッチで抽象性を損なうことなく表現することを可能にしました。小田さんは、この作品に全人生を全て注ぎ込んでしまったために、自分自身がしばらくは真っ白な状態が続いたようでした。そういう苦労話をぽろぽろ話してくれます。私は世界のどの漫画よりも、この作品が好きです。おそらく50年もすれば、歴史的な珠玉の漫画作品として、もっと広く知られるようになる違いありません。フランスの若者達が、これに痺れてしまう理由がとてもよくわかります。これはすでに娯楽の域を超えた、視覚的な哲学表現なのです。漫画の最大の特徴である物語性を最小限に抑えて、しかしながら停止した絵画表現とはどこまでも平行線を辿りながら、漫画と哲学という大きな課題に挑戦した珠玉の作品なのです。漫画にはそのようなハイソな内容がすでに織り込まれて来ているのです。

小田さんは、私が1998年ころに銀座の暗い地下で個展をした時に、人のうわさでぶらっと見に来られて、それから交友を持つようになりました。偶然同い年で、お互いに考え方や、感じ方が手に取るようにわかるところがあります。いつの日にか、私の作品に囲まれて仕事するのだと、会う度に言って、励ましてくれます。

小田さんの今後のご活躍が期待されます。哲学シリーズの漫画作品、是非また拝読させて頂きたいです。未発表のあの作品、是非刊行して欲しいなぁ~(微笑)。

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育った家、父のこと

今日は父の11年目の命日でした。この11年を振り返ると、胸が一杯になります。亡くなった父のことを思い出して、淋 Read More

ロランバルトの『明るい部屋 写真についての覚書』

昨日ロランバルトの『明るい部屋―写真についての覚書』がAmazonマーケットプレイスで売れましたので、早朝から梱包していました。ふと見ると、本のカバー裏表紙にこのような言葉が印刷されていました。

「マルバが息子の死によっていたく心を動かされていると、弟子たちの一人が言った。《師は常々、すべては幻影にすぎないとおっしゃっていたではありませんか?》と。マルバはこれに答えて言った。《しかり、されどわが息子の死は超幻影なり》と」(『チベットの道の実践』)

しまった、そんなこと本文に書いてあったんだろうか?としばし読み返してみました。この本は、「覚書」とあるように、とてもコンパクトなエッセイ・テイストの文章が集められていて、とても読みやすい本です。

あちこちに珠玉のはっ!とするようなバルトの言葉が散りばめられていまして、「写真ってどうして芸術なの?」とか、「写真と絵画って、どう違うの?どちらが優れているの?」というような素朴な疑問を持つ人に、なかなか含蓄深い「諭し」となるような内容になっています。

例えば、写真は俳句のようなところがあると指摘されていて、「なるほど」と深くうなずいてしまいました。私の頭には「古池や蛙飛び込む池音」の一句がよぎり。まさしく写真とはそういうものかもしれないと感じ入ります。

写真に残されているものは、誰でも見ようと思えば同じような状況は見慣れているし、古い写真が貴重だと言っても、それが印刷されて複製されて行くと、写真は絵画よりも唯一性の部分が脆弱です。

しかし、写真は、それをよく見つめる者に、現実よりもより客観的に注意深くその事象に注意を傾けさせ、より多くの情報や深い内容を読み取る場を提供してくれる力があります。

そして絵画特有の作家のキャラの強さが見る者にとって鼻につく場合があるとして、写真はその弊害を極力抑えてくれていて、そこはかとなく慎ましいからこそ、それがクールな良さとなっているのだ、と私などは個人的に思うのです。

松尾芭蕉の俳句にしても、何気ない自然のある一部分の現象を切り取って、簡素な言葉を残しているだけですが、そのことにより、無限の可能性を読む者に与え続けてくれています。

言わば読み手、鑑賞する側の創造する余地をたくさん残してくれる媒体が俳句であり、写真である、と言っても過言ではありません。

絵画もそういう部分を志向する仕事がありますね。ミニマルアートや抽象画の世界はかなりそこに接近している仕事なのです。

絵画よりも、より現実そのものの表皮を剥ぎ取るようなことのできる写真。しかしそれは現実そのものではありません。どれもすでに過去の記憶にすぎません。それでもそれに感動し、翻弄される人間。それは愚かと言えば愚かなことかもしれません。しかし、それをあたかも深刻な現実として人間は読み取りたいし、感じたいものなのです。

バルトが指摘するように、人間の信仰への衝動はこういうところから発するものかもしれません。人は信じてみたいものなのです。現実にしろ写真にしろ、これを幻影だと悟ることばかりが幸せとは限らないのです。そんな冷めた目で絵画や演劇、映画や写真、小説や漫画を見る人は、かえって不幸ですね(苦笑)。幻影だとはわかっているけど、それにびっくりしたり、感動することを人は喜び、そのように味わえる自分の能力を楽しんでいるものなのです。

これは人生そのものについてもよく言われることです。人生は舞台そのものかもしれません。ドラマチックに脚色して生きることが可能なのです。自分の人生を自分が描いているのです。誰かに操作されているわけではありません。自分なりの絵を自分が見ようと描いているものです。

さて結局上記の文章は、本文にみつけることができませんでした。しかし、写真ということを考えるとき、この文章はなかなか深い内容を考えさえてくれます。

さて、マルバって誰なんでしょうね?マルバは悲劇の主人公の象徴でしょうか。その文章の中で、自らが息子の死に悲しみ、それを幻影とは思えずに「超現実」があるのだと弟子に言い訳します。滑稽と言えば滑稽。しかし、人間の情というのは、まさしくこういうものを言うのでしょう。喜怒哀楽というものを豊かに味わう肉体から離脱したとして、それは豊かで幸せな人生と言えるでしょうか?泣きたい時に泣き、笑いたい時に大いに笑う。それでもどこか達観しているところがあるから恥ずかし気もなくケロッとして、明日を迎えられるのかもしれません。

芸術はどれも超現実をつくる人間の美しく豊かな営みです。

現実に翻弄され、自分を見失いそうになっている人にこそ、それを深く味わう一時が必要です。写真でも絵画でも演劇でも映画でも、お好きなものを是非。。。。

もちろん、写真についてもっと考えてみたい方は、ロランバルトの『明るい部屋―写真についての覚書』がお勧めです。

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