Month: 12月 2011

ハイデガー芸術論の「ピュシス(=自然)」

今回は、ハイデガー芸術論の「ピュシス(=自然)」について私なりに考えていることを書いてみたいと思います。

カント哲学の「芸術美」と「自然美」

ちょっと遠回りのようですが、渡邊二郎著の『芸術の哲学』の第13章「カントの判断力批判」を読んでいて、とても触発されましたので、ここから文章をはじめたくなりました。

カント哲学については、これまでカント先生は誰からも慕われていた希有な哲学者であった、くらいの知識と、父の書斎にあったカント全集を実家の引っ越しの際に、手放してしまったことをたまに悔やむくらいでしょうか。原典を読んでみようという気は、これまで全くありませんでした。

渡邊氏の著作のような、芸術哲学のダイジェスト版のような著作があると、さまざまな角度から芸術を考えるきっかけとなり、とても啓発されます。そして、是非とも原典に目を通して、自分なりにもう少し思索を深めたいと思わせてもらえます。

昨晩寝床の中で、触発された言葉は「自然美は芸術美に勝る」と「芸術は自然のように見えるとき美しく、自然は芸術のように見えるとき美しい」というカントの思想です。

結構この何気ない言葉は、日本人にかなりわかりやすいというか、どの人も大なり小なり、この価値観を持っているように思われてしかたありません。

例えば絵画作品を飾るよりは、「眺めの良い窓のある家に住みたい」という気持ちがあるでしょうし、美術館を建てようとした時に、「自然環境が損なわれるという理由で反対運動が起きた」というようなことも、そういう価値判断が根底にあると思うのです。

一方で素晴らしい景色を見た時に、「わぁ、まるで◯◯の絵のようだ」と思うこともありますね。

だから、カントの言っていることは、すごくわかりやすいと感じてしまいます。

でもこの感覚のおかげで、切り落とされてしまう吟味というものがあるとも感じ、ちょっともの足りなさも感じてしまいます。おそらくカントの原典を紐解くと、もっと詳細に吟味されているでしょうし、そういうところを勉強しなければならないのかもしれませんけどね。

美術における「自然」としての「ピュリスム(純粋主義)」

これは私なりの経験を通して考えることなのですが、「神」「宇宙の原理」「自然」「無意識」「共通感覚」「天才」というような言葉は、実はあるひとつのことを視点を変えて違う言葉で言い当てているだけなんじゃないか、と漠然に感じています。

例えば「神」という言葉を「人間を超越した力」と置き換えると、それが「宇宙の原理」というものなのではないか、と思ったり、人間が自然のような存在である時に、「無作為」に事物を作り出し、それが自然と一体化した状態、すなわち「無意識」を使うことであり、その「無意識」部分は多くの人と繋がることのできる「共通感覚」であって、そのようにして生まれた作品が、時代や場所を問わない、普遍的に芸術と看做されるものなのではないかと思うからです。

そういうものを作れる人が「天から与えられた才能」「天才」とされるわけで、これは特殊な才能を持つごく限られた人間とする時代もあったのですが、近年は原始的な人々や子供の美術が着目されるようになって、純真無垢な存在こそに「自然」と同じような力強い美の発露があるのだという見方があると思います。

「美」とは何か?という問題になって来ますね。そのことでひとつ思い出す経験があります。美大生の時に母校の高校で教育実習をしたのですが、その時に鑑賞教育として「ヴィーナスの変遷」というテーマでスライドを70枚程用意して授業をしました。ヨーロッパの美術史に連なるヴィーナス表現の脈々たる流れ。それはそれは面白いのです。

う~ん。。。でもですね、担当の恩師が指導案の段階で「こんなに裸の作品ばかり見せちゃうと、思春期の特に女生徒にはどういう反応があるか、ちょっと心配(汗)僕は男だから、女生徒のデリケートな部分はわからないから」って、言われました(苦笑)。

「大丈夫です。私は女ですし、先生がされると抵抗があっても、私がやるなら平気っていうことあるんです。」と、妙に説き伏せてしまいましたが。若いときは今よりもっと強引でした(苦笑)。

この授業の主眼は、「ヴィーナスの主題はヨーロッパの美術表現における『美』という観念のアレゴリーである、ということを鑑賞を通して知り、美について洞察し、考えを深める」というものだったと記憶しています。

授業の最後に、アンケートをとりました。

「あなたにとってのヴィーナスつまり『美』とはどういうものですか?もしそれを絵画に表現するとしたらどのような作品になりますか?」

かなり熱心に生徒たちは優秀な意見を書いていましたが、中にひとつだけ今でも忘れられないものがありました。(実際、あとの大量のアンケートの答えは全く忘れてしまっています。余程、この答が印象的だったのでしょう。)

それは「私のヴィーナスは赤ちゃんです」という女生徒の意見でした。「姪がつい最近生まれて、こんなに素晴らしく、感動的な存在は他にはないと思ったからです」と理由が続きました。後は細かいことは忘れてしまったのですが。「純真無垢」という言葉が書かれていました(笑顔)。

確かに「赤ちゃん」は「神様からの授かりもの」とよく言われます。でもそういえば、ヴィーナスは赤ちゃんの姿で表現された例を私は知らないかもしれない。その時そのように感じて、強く印象が残っているのでしょう。

このようなピュリスムの影響が見られる芸術というのが、例えば1940年代のフランスの「アンフォルメル」の画家の一人、デュビュッフェのアール・ブリュット(Art Brut 生の芸術)と言えるでしょう。彼は、子供の純真無垢さから美術制作の原動力を引き出そうとしたわけです。

但しアンフォルメルですから、ヴィーナスの姿形は消えてしまうわけですけど。

あ、この部分は、教育実習当時の私には、まだ見えていなかった部分ですから、四半世紀も経ってから、この場を借りまして補足となります(苦笑)。

ハイデガー芸術論におけるキーワード「ピュシス(=自然)」

このピュリスムの根底には、ヨーロッパのギリシャ哲学の「ピュシス」という言葉があることを最近ハイデガーの著書から私が知ったことは、前にも書きましたが、それが「自然」という意味であったことに驚いています。そしてハイデガーは芸術におけるテクネーというのは、このピュシスによって、単なる職人のテクニックと一線を画すと見做しているのです。

これはおそらく、技術に振り回されるのではなく、それを我がものとした時に、無心に制作することとなり、そこから「自然」との経路が結ばれる、あるいは「自然」と一体化して作品が生まれることを意味しているのではないかと、私は勝手に解釈しています。

技術が自分の手足同様になる時、その時こそ「自然」が舞い降り、カントの言う「自然美は芸術美に勝る」を超越してしまう。ハイデガーの芸術は、カントの言うところの芸術をはるかに越えてしまっている概念のように思われてなりません。2つの区別がないと言っているようなものなんですから。

というか、ハイデガーはその区別のない概念がすでにギリシャ語の中にあるじゃないか、と言っているわけです。そこにハイデガー芸術論の力強さがあるんですねぇ!この部分が、芸術家にとってとても心強い。だからやっぱり私はハイデガーに戻って来ます。

ハイデガーはあまりわかりやすくカント流に芸術を断言しません。全ては繋がっているから、切り離せないのよ、と言うかのごとく。それをわかりやすいように説明すると、その時はすっきりした気になりますが、実は大切なことが抜け落ちてしまう。。。で、全貌がよくわからなくなってしまう。そこで、ふわふわとした言い方にならざるを得ないのでしょう。それだけにハイデガーの語り口は、私にはとても心地よいものになります。

というように、何だ、つまりぐにゃぐにゃ漠然とした感覚のようなものは、皆わかっているけど、それを格好良く言葉にしてしまうと、いろいろな言葉に惑わされて、本質がわからなくなってしまうのだから、黙って絵を描きましょうよ、ということもあるでしょうね。

そうそう、でも上手く言い表すことができたら、確かに素晴らしいし、感動するから、やっぱり哲学は面白いし、芸術ということを作品にするだけでなく、少しは言葉にして芸術を多くの人と共有する努力をしたい、と私は思っているところなのです(笑顔)。

追伸1:『芸術の哲学』と平行してリチャード・E.ルーベンスタイン著の『中世の覚醒』を読み始めました。これがめちゃくちゃ面白いです。これを機にアリストテレスの『形而上学』を読まないと、と思い始めました。そして、そう言えば、ハイデガーが『アリストテレス「形而上学」』を残しているではありませんか!全集の33巻です。早速、注文することにしました。そのうちジョルジョ・モランディの「形而上学絵画」について書いてみたいものです。

追伸2:ハイデガー・フォーラムの2012年の統一テーマは「自然と技術への問い」だそうです。今から楽しみです。

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