私と音楽
好きなこと私と音楽とを結びつける最初の記憶は、都はるみの『好きになった人』を大勢の親戚が集まる場所で、歌っている幼児体験から始まります。よく歌わされました。私も図に乗って率先して歌っていたかもしれません。今でも大勢の人の前で物怖じしないのは、このおかげです。なぜか、叔母たちは私が宝塚歌劇団に入るものと思い込んでいたそうです。
小学生低学年ころまで、流行歌以外に特異な習慣をもっていました。トイレで、即興の歌を歌うのです。それを私は自分で「でたらめのうた」と名付けていました。詞も曲も、口からつぎつぎと流れて来ました。誰かに聞かせるつもりで歌っていたいたのではなく、そうすることがとても楽しいからできることでした。自分の日常のできごとや気持ちを、その気持ちにあったメロディにのせて歌うことが出来ました。でもある日、それを聞いた父が、「今日のは今までで一番いい歌だった。」と言ったころから、歌えなくなりました。聞いている人がいることを意識すると何を歌ったらいいのかわからなくなってしまったのです。そういうことを意識しないから、歌えていたのかもしれません。
家にはピアノがありました。妹が3歳から毎日ピアノの練習を2時間くらいしていました。最初に家に来たピアノは、不思議な色をしていました。湖の底に沈んでいる古木から作られたという、木目の見えるピアノで、深い緑色をしていました。毎日毎日ピアノの音を聞いて育ちました。でも私は一度も弾こうとしたことはありません。その緑色のピアノが、妹が高校生になってグランドピアノが必要になり、処分されてしまったのは残念でした。
はじめてレコードを買ったのは、中学2年生の時で、荒井由美(松任谷由実)の「あの日に帰りたい」が収録されているアルバムでした。当時、一人で鎌倉に遊びに行き、「私の部屋」の店内で聞いたのがきっかけで、買いました。当時「しらけている」という言葉が流行し、この曲を聴きくと「しらけムード」にどっぷり浸ることができました。でもそのアルバムはしばらくすると、別のレコードと交換してしまいました。
私の中に新しい音楽の波がやってきたのです。当時川崎、横浜や都内から、公害に病んだ子供を持つ親たちが、三浦半島の北下浦地区の野比やハイランドに引っ越してきました。クラスが2倍に増え、グランドに臨時のプレハブ校舎ができました。その転校生たちが、これまで読んだこともない本や、聞いたことのない音楽を一緒に持って来たのです。寺山修司の本はすべて借りて読みました。友達同士で貸し借りを頻繁にするようになったからです。それから交換日記が流行りました。借りて読んだ本の感想や、気に入った文章を書き込んで、それも交換して読み合ったのです。借りたレコードを録音するテープレコーダーもそういうタイミングで販売され始めました。
グランドが使えないということは、体育系の部活動が出来ないことになり、若いエネルギーを持て余していました。そこで、皆が共通してロックに夢中になりました。同じ学年にコピーバンドが5つくらいでき、体育館でコンサートをするようになりました。ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、キッス、フリー、ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベック等の曲をコーピーとはいえ、生で聞くことができるようになりました。当時思い起こせば、よく楽器がそろっていたものだと思います。とくにドラム担当者は、それをどこで手に入れ、どう運んでいたのかと不思議に思います。エレキギターやアンプ、マイク、皆親に買ってもらっていたのでしょうか?それはともかく、演奏している姿は、たとえ学生服でも素敵に見えたものでした。女の子たちはきゃーきゃー言って騒いでいました。私はすこしシラケながらも、ポスターとチケットのデザインを担当していました。
この中からプロになる人が出るのかもしれない、と思うほど皆夢中になって、毎日放課後に練習をしていました。電気代かかっていたでしょうね。(その中からアメリカに留学した人もいたようです。今彼はどうしているのでしょうか...。)毎日学校でロックが聞けるというのは画期的でした。心ははるかアメリカやイギリスにあるような感じなのです。もっぱら読む本もそれに関する本や雑誌になりました。『MUSIC LIFE』はそういう気持ちを十分満たしてくれるバイブルのようなアイテムでした。ページをめくるたびに、ロックミュージシャンの熱い言葉が目に飛び込んで来ます。「音楽のない生活なんて考えられない。ロックは生活そのものなんだ!」インタビュー記事の一言一言から、ミュージシャンの哲学を学びたいと熟読しました。ザ・フーのファンクラブにも入会し、評論を書いて賞を頂いた記憶もあります。
今でも当時聞いていた曲をiPodに入れていて、あきもせず繰り返し聞いています。ジェフ・ベックの『Blow By Blow』のレコード・アルバムは、今でも大切にしていて、ずっと聞いています。O君はこのような、「人を酔わせるような曲をつくりたいんだ」と言って音大に進学しました。私は、その言葉をそのままずっと心に持ち続け、作品をつくっている時によく思い出します。そして必ず「人を酔わせるような絵画」について考えるのです。ジミ・ヘンドリックスやジェフ・ベックの歌のないインストゥルメンタルな曲を聴きながら、そのようなものを絵画に置き換えた絵画作品を考えたりもします。そして、私の作品が即興的なのは、多分にこの時代のロックの強い影響があると思います。
幻想音楽夜話というサイトで沢原馨氏が、このジェフ・ベックの『Blow By Blow』を「この音楽は映像的なイメージを喚起したり、物語性を秘めた展開を見せるわけではない。むしろそうした音楽とは対極にあり、音像のもたらす附加的なイメージを削ぎ落としたところに存在する。」として、それを「体感的な音楽」と分析して紹介されています。私はこのインストゥルメンタルな表現を、絵画における抽象表現と解釈し、これを出発点にして制作してきたといえます。私の場合、絵画が先にあるのではなく、音楽から抽象に入って行ったのです。
私が絵画制作をするようになったきっかけは、さまざまな事象が絡みあっていると思うのですが、このロック音楽から出発していると言っても過言ではありません。そしてそれらの事象は、個々にバラバラにあるのでなく、納豆のように糸をひいて、互いに関連し合っています。私の中では、例えば仏教への関心は、このロックの扉から入っていったとも言えるし、その扉はすでに父に用意されていたが、その扉は見えるようになっていなかったのを、このロックが見えるようにしてくれたというべきでしょうか。
このロック文化には、当時のヒッピーたちの宗教観が色濃く反影されていて、そういうものを私は受け継いだという自覚があります。ザ・フーのピート・タウンゼントが、曲作りのためにヒマラヤへ修行にこもったことがあり、そこからソロアルバム『現人神』をつくりました。『トミー』や『四重人格』にしても、仏教の華厳思想の唯識論や曼荼羅の世界観をもとにつくっているのではないでしょうか。こういうものが、私の基盤にあることは間違いありません。
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