母への手紙
家族私の母は、自分の身の丈に合ったわずかながらのお弟子さんに、ほそぼそとお茶を教えて、それを心の支えに生活しています。母がお茶の世界に出会ったのは、曾祖母の影響だと聞きます。曾祖母は岩崎弥太郎家のご子息達のご養育係として勤め上げた人で、当時の女性のたしなみを全て心得ていた人だったと聞きます。
しかしながら母は次女ということもあるのか、その曾祖母の直弟子とは言い難い、どこか抜けたところのある人です。ましてや母が真剣にお茶の世界に入ったのは60才手前のことで、その前と後では人が変わったようになったものの、それにしても、母の抜け方は底なしで、このような人が人様にお茶の道を示せるのだろうかと思うのです。しかし、世の中はそういうものではないと、つくづく教えられます。母には、母のような人を必要とするお弟子さんが集まるのです。
それに気付いたのは、母のこんなたわいもない話しからでした。母のお弟子さんに海外旅行を頻繁にする人があって、母からすると大変羨ましく、その度にどこに行かれたのですか?と聞くようなのですが、毎回同じ答えが返って来るというのです。
母:今度は、どこに行かれたんですか?
その人:家族が連れて行ってくれるので、私は付いて行くだけです。今回行ったところは、何という国だったか...、さて、名前が覚えられませんので...。
母:じゃあ、どんな国でしたか?何を見て来ましたか?
その人:さあ...、どこの国も似たりよったりで、私などは区別もできません。
母:(唖然)。
私に、そのような人はつまらない人だと母は言いましたが、その話を聞いた私は、なるほどと思ったのです。母は身の丈に合ったお茶をしているのだと知り、安心したのです。いやいやそれどころか、何だか禅問答のようで、可笑しくて、これこそが母のお茶の境地なのだとむしろ感服した程です。そのお弟子さんも、なかなかの底抜けでいらっしゃいます。こんなささいな話しにも深い味わいがあって、考えさせられます。
母は、どこも悟りなど微塵もなく、親らしいりっぱなことも言わず、いわゆる普通の人として生きていますが、その生き方が、全て、私に反転させた人格を与えることになるのです。
昨日久しぶりに母に手紙を書きました。そしてこのような手紙の内容になるのです。
「拝啓
一昨日、昨日と一箱ずつ届きました。パン、冷凍の魚、靴下、そして手紙、確かに受け取りました。とても助かります。ありがとうございます。
ー中略ー
世の中不景気だとか、美術品はなかなか売れないと言われることが多いのですが、しかしそういう中でも着実に仕事をしている人が、本物です。私もその中の一人だと自負します。私よりも若くして人気が出た作家を沢山見て来ましたが、制作を続けて行くことのできる人は、本当にごくごくわずかです。ほとんどが、結婚や就職などさまざまな誘惑や妨害により、制作を中断してしまいます。私はたまたま、育ちが良く、周りの理解に恵まれ、それにも関わらず世渡りが不器用なので、それらが作家としてとても幸いしています。
ー中略ー
お茶の修行は進んでいますか?無事に80才を迎え、きっとこれからが本当のお茶の世界を示せる年齢に達したと言えるのではないでしょうか。余分なものを削ぎ落して、本当に大切なものだけに専念することができることでしょう。
絵もお茶もその人となりを示して、相手を喜ばせるという意味では全く同じ内容です。その人が毎日どのようなことを心がけて生活しているかが、そのまま絵に、作法に表われます。ですから、まずは自分が生活を楽しみ、かつ深い世界を持たなくてはなりません。
深い世界とは、一つの物事を、いくつもの解釈でとらえることが出来るということです。例えば人が不幸だと言っていることの内容をよく吟味し、そうはいうものの、実はその中に沢山の幸福の種を見出せるというような見方です。物事を一つの判断でしか見られないのは、そういう意味で大変不幸なことなのです。答が一つしか用意されていないような絵は、すぐにあきてしまいます。いつ見ても新鮮で、分かり尽くせることがない。人間もそのようにつかみ所がない人こそが、良いお茶を立てられるのではないでしょうか。そんな気がしています。
どうぞ、お身体充分にご自愛の程。」
知らず知らず、私は親に向かって教え導くようなことを書かされます。それが母の教え導きの達人たる所以なのです(苦笑)。
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