ユベール・ダミッシュ『雲の理論 絵画史への試論』
未分類先日長野県立図書館の閲覧室から『雲の理論 絵画史への試論』という本を借りて来ましたので、制作の合間に、たまに開いて見るようにしています。すると開いたところに、思いがけない魅力的な文章がみつかりました。それは本文の原註の項なので、普通は余程興味がなければ読まれることがない場所かもしれません。
かくも大きく、広がった世界、
かくも高く、遠い空、
それらすべてを私の目はとらえることができる。
しかし私の思考は及ばない。
無限に道を見出すべく、
君は最初に分類し、それから物を一堂に集める。
それこそ私の舞い立つような詩が、
雲を識別した人に感謝する訳だ。
(ゲーテ「大気圏」より)
どういう意味なのか、この詩だけからははっきりしたことが掴めません。
そこが「雲をつかむような」感じがして(苦笑)いいなと思いました。
そこで、もう少しそのページを眺めていたら、下の方の行に、またまた面白い文章。
「そして事実。これらの無定形の形式は、或る一つの可能性としてしか記憶に残らない...、ちょうど、気ままにピアノを打ったので生じた幾つかの音が一つの旋律をなさないのと同じように、水溜りとか、岩とか、雲とか或はまた海辺の一部とかは何らそれ以外のものによって要約されるものがないものなのである。」
(邦訳、ヴァレリー、「ドガ・ダンス・デッサン」吉田健一訳....)
面白いことが書いてあります。ピアノの発明は、絵画ではチューブ入りの絵具が開発された時期や、点描表現が生まれた由来と重なりますから、「ピアノ」が喩えに使われているこの文章にとても興味をそそられます。このような発明は、人類の美意識がその時期から「無限美の中から限界というものをあえて設定して、その範囲内で美を作る試みに切り換えようとした」そういう衝動のあらわれのように思われますし、それをあえて旋律をなさいように打った場合に、記憶に残らないという指摘も面白く、一人密かに楽しめます。
そのようなことで増々興味が高まり、どの部分の注釈なのか、本文も読んでみることにしました。
...19世紀絵画において/雲/は、15世紀フランドル絵画における襞と同様の位置を占めていた。この指摘はヴァレリーがドガに認め、極めて『ダ・ヴィンチ的』と考えていた『無定形の練習』を予告している。無定形はここで、形式を有さないことではなく、『ただそれらの形式をわれわれは明確に描写するとか認識するとかいう行為によって置換することができないということを意味している』」雲は決して単純化できる形態ではない。そしてそれゆえにこそ、ゲーテは雲を自然哲学の対象に他ならない不朽のもの、無限の宇宙にあってあらゆる事物....とみなしたのではないか。(p.254〜255)
今手がけている30号は、かなり難儀しながらもようやく作品として成立し始めて来ました。この難儀の理由は、まさにこのぺらっと開いたこの部分に由来するので、正直驚きました。
曇そのものは、とても普遍的なもので、どこでも誰でも見ることのできるものなのですが、しかし「いかにも雲らしい、雲そのものの表現」をしようとするとなかなか難しいものなのです。具象的な風景画を描くとすれば、美しい景色を探して、そこで出会った雲を捉えて写生すれば、それなりに雲らしい表現は可能です。ところが私のように、「誰もが記憶にあるようなその雲を思い起こすべく、画面から立ち上がるようにして生み出そう」とするために、複雑で曖昧で混沌とした、まさにアンフォルメルのまるで典型的な自然現象としてあるような雲を描き出す事は、本当にやりがいがあり、面白く、しかしとても難しいことでもあります。
そして、さらに雲とは自分にとって何か?と問うと、「曖昧さ」「不定形」「混沌」「漠然」のシンボルであり、抽象と具象の狭間を考える好材料と言えます。
私の目からは、相模原の空は、かなり抽象的なものです。しかし長野の空は具象として迫って来ます。そこがスリリングです。観光の記念写真の1枚のようになってはならないし、かと言って、幻想的なロマン派の空とも違う。相模原という土地は無個性の塊であったので、ミニマルな表現が生まれやすい土壌がありました。しかし長野は、日本アルプスの山々のどれ一つを見ても複雑で、そのもの自体が美しく、そういうものに囲まれた人間が敢えて抽象表現に立ち向かうには、それなりの信念が必要とされます。
この制作を通していろいろなことを考えさせられています。そして、そういうものに取り組めるようになって来たことに、喜びと感謝とが入り交じって、ますます制作にのめりこみます。
長野に来て空の様子が、やはり相模原とはかなり違うのです。それはまた自分自身の空を見つめる目や捉え方に変化が起きたことでもありますから、外の自然景観だけの問題ではなく、自分の内なる自然との対話も重要です。
次回の個展のDMに印刷する作品は、100号の新作「cloud (クラウド)」です。まさしく「雲」がテーマで、青い空、白い雲を彷彿とさせる新展開です。この作品がほぼ完成しようとした時に、同じような空をみつけて、「オスカー・ワイルドの『自然が藝術を模倣する』とはまさにこのこと」と実感したものですから、DMのコメントをすぐにこう書き出すことができました。
山並に囲まれ、空低く雲が浮かぶ。空を写したのではない、作品のように空が見え「自然が絵画を模倣する」。
内なる自然に従って辿り着いた地、長野。....
画廊から「今回の展覧会の題名は『内なる自然に従って』はどうだろう?」とメールがあり、「それはいいですね!」と二つ返事で副題が決まりました。送られて来たDM版下を見たら、『内なる自然に従って2012』となっていました。「2013とか2014もあるということなのかしら?」と一期一会の精神からするとどうかなとも思いましたが、そういう希望があることが汲み取れて、何も言わずにそっとしておきました。
DM版下をいち早くここにご紹介しておきます。次回は2年半ぶりの久々の個展となります。
追伸:
ちなみに、この『雲の理論 絵画史への試論』という本に出会ったのは、このDMの版下が出来上がった後でした。
とても良い本なので、買おうと思ってお値段を調べたら、4300円。手が届きそうにありません(苦笑)。
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