ドイツ時代ーその6
旅ドイツを含め、ヨーロッパは中世の時代から、学生が各地の大学へ師を訪ねて遊学するという歴史があります。このような教養を身につけた放浪の旅人を市民が敬い、喜んで自宅に招いて、各地の情報を口伝えで知ったのだそうです。出版物を気軽に市民が手にする以前は、彼らから貴重は情報を得ることが、喜びや娯楽のひとつでもあったとも言われます。そういう話しを幾度か耳にしたり、本で読んだ覚えがあります。
私自身も、どこへ行っても大変親切にして頂きました。いまでもそのご恩を忘れることはありません。
例えばバーゼルの美術館では、ウルス・カウフマンさんという警備員の人が、親しく声を掛けて下さり、休憩時間に美術館のレストランで食事をご馳走になりました。大きな身体で、どこかルーカス・クラナッハに似ている雰囲気の人でした。食後にデミタスコーヒーを飲んだのは、それがはじめてで、沢山砂糖を入れる飲み方を教わりました。美術の勉強をしていて、美術館巡りをしていると言うと、「世界に誇れる美術館に勤められて、私はとても幸せなんだ」とおっしゃっていました。
聞けば、奥さんを早くに亡くされて、娘さんが一人と軍隊に入っている息子さんが一人いるということでした。でも犬の調教をしていて、犬と生活しているから寂しくはない、ということでした。調教師さんたちが集まる協会のクラブレストランに誘われて見学し、ワインを頂いたり、美味しいデザートまでご馳走になりました。挙げ句の果ては、ユースホステルまで車で送って下さいました。いたりつくせりで、本当に私は調子がいいったらありません。
こういうことは、これまであまり人に滅多に話しませんでしたのは、「女性が一人でふらふらして、誘拐でもされたらどうするんだ」とか「そういう甘い話しをして他人に返って悪影響を与えるから、そんな話しは若い女性にしない方がいい」と言われかねないからです。
しかし人というのは、自分の気持ち次第です。そして他人は自分の鏡だと昔から思っています。ですから自分にとって最も大切にしている美術の勉強を心がけている限りは、間違いが起こるはずがない、そう私は昔から信じて疑いません。それは私にとって,ある種の信仰のようなものとなっています。
そういうことですから、カウフマンさんからは、別れ際にとても素晴らしい話しが聞けました。私のドイツ語力も不確かなところがありますから、この話が事実かどうか、まだ確認した事はありません。しかし私が聞いた所によると、バーゼル美術館の裏手にはピカソ公園という名前の小さな公園があるのですが、これはピカソに対するバーゼル市民の敬意から、名づけられた記念公園だそうで、その由来にとても心を動かされました。
ある年、バーゼルに住む人のプライベート飛行機が墜落した事件が起き、その時に乗っていた人たちが全員亡くなり、飛行機の持ち主が遺族に膨大な慰謝料を支払うことになったそうです。しかし持ち主は、その資金繰りに大変苦慮していました。そこへ助け舟を出したのが、ピカソでした。彼は以前からバーゼル美術館から作品の所蔵の依頼を受けていたことを思い出し、充分な慰謝料になるだけの分の作品数を美術館に売り、その報酬全額を遺族たちに寄付したというのです。飛行機の持ち主だけでなく、美術館も、市民も、その遺族の人たち誰もがその話しを歓迎し、大変感謝したそうです。そこで、あの記念公園とともに、ピカソ作品のための特別展示室がバーゼル美術館に設置されたのだ、ということでした。
私はこの話しを聞いた時、美術にそのような人助けをする力があることをはじめて知り、大変驚きました。それまで美術は、自分の中でとても小さな個人的な楽しみとしてあったからです。社会的な役割とか人の役に立つ美術があることを知る機会もありませんでした。私はその話しをいつまでも忘れないために、ノートにカウフマンさんの名前とともに、私が聞き取った話しをメモして、今でも大切にしています。
あれから繰り返しこの話を思い返します。それにしても、未だに私の作品からそのような力は発揮出来ないままでいます。しかし、いつの日にかそのような精神で、作品を人のために役立てることができたら...、そういう気持ちをずっと心に秘めて制作しているのです。
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