ベルクソン読書録−3
気づき . 読書まだ読書は途中ですし、単なる夢想程度しか私には書けないのですが、例えば、人々が「労働をしてお金を稼がなければ生きていけない」のだと考えていることは、もしかしたら長い歴史の中で、そう思い込まされている一種の催眠状態であると考えてみたらどうなるでしょうか?
本当はそういう資本主義という名の電車に乗車させられているだけかもしれないのです。その電車が動くためには、動いているように見せる仕掛けが窓から見えていて、あたかも電車は走っているような振動を足元に送って来るだけ。
そして、外から電車が見られるような場所や権利を与えられている人から、「電車は確実に上り方向に動いています」と聞かされているだけで、本当は車内の誰もがそれを確認できるようなポジションに移ろうともしない状態。
その催眠状態からふと、本当の自分に気がつくことができる瞬間はたくさん用意されているはずです。しかし、残念ながらそのようなことに興味を持っていなければ、それに気づく瞬間をキャッチすることができないのも事実なのです。
あるいは、もしそのことに上手く気づいたとしても、全く正反対の「働いても無駄だ、すべては幻なのだ」と思い込んだら、ずっと幻影の人生の中で生きてしまいます。
そこで、不動の自己に気づいて「もしかしたら、本当は労働をしなくても、お金がなくても、生きられるようになっている仕組みが存在するのではないか?だって、空を飛ぶ鳥や、家に飼われている猫や犬というのは、何の労働もせず、生産性もなく、行き当たりばったりでも生きているように見えるよね」と考えてみるわけです。
もちろんこのような考え方は、これまでの普通並みの教育を受けていると、どこか後ろめたいし、退廃的で体たらくな人間と非難されるに違いありません。でもしかし、もし人と人との関係が家族であっても疎遠になるとか、人々の多様な価値観を持つことが肯定的されるようになるとか、多様な生き方が許されるようになっていくと、自由な発想が価値観の逆転をいとも簡単に誰もが罪悪感なく持てるようになるのかもしれないのです。
でもこの考えは、今まで人に言っても反発されたり非難されるだけだから滅多に人に話すことはしません。あくまでも、ここだけの話です。
でもふと魔が差して思ってしまうのは、そうした価値観の逆転は、これまでの学校教育のような場所では矛盾があってし難いことだけれど、もしかしたら唯一アートの世界ならば、そういうことを上手く人々に伝えたり、受容したり、啓発する土台があると私は期待しているのです。
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