こんな秋晴れの日に、懐かしい歌謡曲の話し、芸術の話し
わたしのこと最近、ネットサーフィンをしていて、少しハマっていたことがあります(笑)。あの懐かしい歌謡曲が、YOU TUBEでいつでも楽しめるのです。当時はテレビで流し見をしていたような場面も、繰り返し好きな時に自分で選んで聞いたり、見ることができます。最初はただただ懐かしいと喜んでいただけでしたが、次第に懐かしのアイドルがブログを書いて、いまでもコンサートをしていることを発見したり、はたまた現役中学生女子が、なんと70年代アイドル歌謡を紹介しているサイトもあったりと、ネットの中だけでもかなりの情報を得ることができました。
当時、実は私はかなりひねくれていて、「歌謡曲?ふ~ん。。。私はブリティッシュ・ハードロックが好きだから。。。」とか言って恰好付けていました(苦笑)。でも、そんな私であっても「ザ・ベストテン」とか「ヤング・オーオー」というような番組は妹と見ていました。そのくらい、当時のテレビの歌謡番組には絶大なパワーがありました。
西城秀樹、野口五郎、郷ひろみ、麻丘めぐみ、アグネスチャン、桜田純子、山口百恵、沢田研二、フィンガー5。。。。どの曲も、歌うなと言われても曲が流れれば、カラオケで歌えます。意外ですか?本当は演歌も、かなり歌えます(これについてはまた別の機会に)。。。画家はここまで暴露してはまずいでしょうか?(爆)さすがにここ数年はカラオケに行くこともなくなりましたけど。。。ね。
そんなことをしている内に、次第に「歌謡曲」って一体何だったんだろう?あの誰もが熱狂した音楽は、その後どうなったのだろうか?と気になり始めました。
すると、一人の作詞家の名前が浮上して来たのです。その名も「阿久悠」聞き慣れた曲のほとんどが、この人の作詞によるものでした。
ピンクレディの「ペッパー警部」「サウスポー」フィンガー5の「個人授業」「恋のダイヤル6700」などなどをはじめとして、5000曲あまりの偉業。。。ただただ驚くばかりです。そして、その詞の内容を改めて文字で読んでみると、何といいますか(汗)。。今の私には何だかくすぐったいような、恥ずかしいような感じもするのがまた新鮮です。
例えば、「あの嫌な悪党番長も~♪」(フィンガー5「個人授業」より)今はもう「番長」って死語かも。。。と、つい思いました。でもどうしてあんなに皆夢中になったかと言えば、その当時の時代の息吹たる時代の言葉が詞に盛り込まれ、憧れのアイドルがテレビの中で歌うことに、新しさや自由さを感じたに違いありません。
しかし、この歌謡曲全盛時代にしてもシンガーソングライター、ニューミュージックの台頭を迎え、時代とともに力を失って行ったそうです。これについては、阿久悠氏の追悼特別番組で秋元康氏が解説していますので、ご興味のある人はYOU TUBEで探してみて下さい。
秋元康氏によると、阿久悠氏の仕事は単に作詞家にとどまらず、トータルに歌謡界を創り上げて行ったことに、その偉業たる所以があるということです。例えば自分の作詞の歌をどのような歌手に歌わせたらよいか?そこから「スター誕生」という番組の企画をつくり、自ら審査し、そこで多くのアイドルを発掘したのです。その熱はおそらく聞く側にも多くの夢や希望を与えたに違いありません。つまり、アイドルを創ること、それをテレビ番組にすること、大衆を夢中にさせること、全てをトータルにコーディネートする仕事になっているのです。
ここまで来ると、マクルーハンのメディア論をつい読み返したくなるような、深い内容ですね。
とても興味深いことは、それだけではありません。阿久氏の理論では、歌謡曲は、大衆に夢や希望、明日への活力を与えるためにつくられ、歌われるものであるのに対し、その後のシンガーソングライターの詩やブロガーたちの文章を「極めて個人的な体験を誰のためでもなく開示する時代にあって、そこにあるのは単なる共感にすぎない」というような批判めいた見解で、その時代の到来と共に、人々の関心は歌謡曲から離れて行ったのだと分析されています。これについて秋元氏が同番組で、「ヘッドホンで一人一人が孤独に音楽を楽しめるようになって、求める音楽が変わって行った」のだと解説されていることもなるほどと思いました。
メディアそのもの自体が、人々の意識を変える、見る世界を変える。そうかもしれませんね。そして、ひとつ前の古くなったメディアこそが、実は芸術に昇格するというようなことも、マクルーハン理論に書かれていたことを思い出しました。
舞台俳優が、映画俳優になる時に多くの軋轢にさえなまれた時代があったこと、やがては、映画俳優がテレビ番組に登場することへのプッシング等々。。。新しいものは常に古くなった殻を破らなくてはならない瞬間があります。そしてその前の古い世界が、一段敷居が高くなり、芸術として秀でることになぜかなります(苦笑)。
例えば教会の装飾としての壁画にしても、絵画にしても版画等の版画・印刷技術が発明されると、なぜかとてもありがたい希少なものにの昇格しました。しかしその版画・印刷技術にしても、写真が発明されると、より希少な手技が評価されて芸術として貴重なものになって行きます。おそらく写真はそろそろデジタルの台頭により、その芸術性がより拡大評価されて再考が行われるはずです。マクルーハンは、テレビでさえも芸術になる時が必ず来ると指摘していますから。
と、このように芸術とは摩訶不思議なものであります。芸術は固定されてはいないのです。時代とともに変化し拡大し、変容を遂げます。芸術とは何かを語ることは、すなわち私たちがどのような世界を見ようとしているかということと関係があるからです。
ところで、出版、本の世界もインターネットの台頭で存在の危機や意味が論じられる時代にあって、本もやがて芸術品になるということは自然の摂理と言えましょう。私の友人の足立涼子さんからフランクフルトの工芸美術館での作品出品のご案内がメールで届きました。彼女は本というメデイアを芸術作品の域に高める仕事で、今最も輝いている作家です。
これは余談ですが、彼女との出会いは、実はずっと昔に遡り工作舎の雑誌『脳がつくる形』に、私のエッセイが掲載された時に、彼女の文章も掲載されていたことから始まるらしいのですが、(その時はまるで面識がありませんでした)、ずっと後になってから、偶然バッタリ銀座の某ホテルで何の脈絡も無く知り合いました。きっと縁が繋がっているのでしょう。
足立涼子さんのサイトはこちらから
今日のような、少し冷えた朝の気候は、ドイツの空気を思い出させます。またドイツに行くような機会はあるのでしょうか?たまにはぶらっと、海外に出掛けてみるのもいいかもしれませんね。
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