複製芸術と資本主義ー国立国際美術館コレクション展

前回、国立国際美術館で開催中の草間弥生展とコレクション展について書き込みましたが、書き残しがあったせいか、制作中に文章が頭の中を駆け巡ってしまい、邪魔で仕方ありません。今日は日曜日でもあるので、しばしキーを打ち込むことにしました。遠慮なく、自分の立場など考えずに、自由に書いてみようと思います。ですから、多少未熟でもご容赦願います。

国立国際美術館のコレクション展は、女性の作品を集めたから重要な展覧会なのだ、という評価もあるかと思いますが、それをさらに深めて、それらの表現の何が美術表現として重要なのかを書き残しておきたいと思います。

コレクション展の作品リストの表紙には、下記のような文章が掲載されています。

「今回のコレクション展は、女性作家による作品を中心に展示します。西洋美術史上、女性の身体はそのほとんどが男性芸術家によって客体化されましたが、時に女性芸術家はこれに抗い、また時にそれにならって創造しました。やがて、パラダイムシフトが進む現代社会において、既成の価値観にとらわれることなく多様な表現を行う女性作家が数多く登場しました。当館では6,500余点の作品を所蔵していますが、その中から女性作家によって制作された作品群に注目し、彼女達がいかなるアティテュード(=態度)により困難な生を越え、より広範な可能性を提示しているかを展覧します。」

「既成の価値観にとらわれることなく多様な表現を行う女性作家」そして「困難な生を越え、より広範な可能性を提示している」この部分は、作品のどこに表わされているでしょうか?

それぞれ個々に表現は違うのですが、私は一つの見方を提示したいと思います。
それは「複製芸術」あるいは「複製技法」という切り口です。

ブリジット・ライリー

例えば、イギリスのオプ・アートの作家ブリジット・ライリーの「カラード・グレー」(1931-)シルクスクリーン版画。この作品は、彼女特有のストライプがゆるやかに蛇行し、彼女らしい作品であるとともに、近くで見ると、そのストライプに2色の色味を感じるのに、少し離れ始めると、その2色が目の中で混合されて、グレーのストライプとして立ち現われる、色の錯視・錯覚(=オプティカル)の作用を利用した作品なのです。

彼女は、このようなストライプ作品をさまざまなバリエーションで制作していますが、キャンバス作品にしても、シルクスクリーン版画にしても、徹底して自分のハンドメイドでは敢えて制作せずに、カラー指定と下絵を職人やアシスタントに渡して、制作させました。これは彼女が出来ないからとか、やりたくないというような単純な話しではなく、美術の一つの革新的な手法として、彼女は挑んだことなのです。「選ばれた一人の天才のみが芸術を創造する」という価値観や世界観から脱皮して、「誰もが芸術の制作に関われる」そういう世界、仕組みをつくろうとしたからです。しかしそれは、当時のイギリスのファインアート界には全く理解されませんでした。むしろデザインの世界に一大センセーショナルを巻き起こし、衝撃を与えたとも言えますが、美術界の軋轢と批判と無理解に、彼女は勇気をもって立ち向かい、生涯その姿勢を崩すことなく貫き通しました。日本ではまだまだ、紹介が遅れている作家であり、オプ・アート自体が広く伝わっていないと感じてなりません。

カンディーダ・ヘーファー

この展示室には、また複製芸術として写真作品も数多く展示されていました。はじめて知った作家ですが、カンディーダ・ヘーファーのロダン彫刻作品のシリーズは、本当に目からウロコです。世界のあちこちの美術館にロダンの有名な「カレーの市民」という作品が、設置されているのですが、その展示風景を見せる作品です。

彫刻というのは、作家は粘土で原型を制作しますが、ブロンズ製造する時に、必ず鋳型をつくりますから、いくつか複製を作れるものなのです。また。静岡県立美術館のように原型からではなく、作家没後にパブリックの公共機関が認可して鋳造作品からさらに鋳型をつくって複製した作品も存在するのです。

コペンハーゲンのカールスバーグ彫刻美術館、パリのロダン美術館、上野の国立西洋美術館、ソウルのロダンギャラリーこれらの美術館で展示されている「カレーの市民」。その展示空間に佇んでしまうと、客観的にその事実を知る事はできませんが、このように写真で比較する事で、私たちが単純に美術作品を美術館で見ている行為には、このそれぞれに固有な空間が作品に大きな影響を与えていることに気づかず見過ごしている、そういうことをまじまじと考えさせられます。

またそれとは別に、一方で複製芸術作品の存在力が世界を駆け巡り征服して行くようなロダン芸術の力強さもひしひしと感じさせられます。彫刻の複製可能性については、まだ多くの人が実感として感知出来ない部分かもしれませんが、このように同じ「カレーの市民」が複数存在することをロダンを通してというよりも、彼女の写真によって初めて認知することができる点が重要なのです。また彼女の視線あるいは写真技術が、グローバルに世界を駆け巡る事を可能にする柔軟な制作手法であること、それが女性の活動をいかに自由にし、支えているか、ということまで伝えています。

草間弥生

さて、草間弥生の作品は、この複製という問題にどう取り組んでいるでしょう。彼女の作品には常に「増殖」というテーマが仕組まれています。それは女性特有の生命の維持とか継続、生殖本能のようなものが、ある時は不気味に執拗に制作のエネルギーの源泉として存在するからに違いありません。その増殖の手法として、例えば初期には油画のネットのシリーズや、また近年の鏡をつかった万華鏡の部屋によるインスタレーションが思いつくかもしれません。

しかし実は、人があまり取りあげていない秘密?(少なくとも私はそうなのかと思っていたのです。もしかしたら暗黙の了解なのかもしれません)の部分があります。それは、キャンバスにシルクスクリーン版画で原画を複製する手法です。これまでに国際的なアートフェアで何度か彼女のキャンバス作品が販売されている風景を見て来ましたが、これらはどれも、手法についてはあまり触れられていなくて、単にアクリル、キャンバス作品とキャプションに明示されているだけでした。これを「版画です」とは言わないことになっているのです。なぜなら、現在ではキャンバス作品の中にも、このシルクスクリーンの技法をうまく忍ばせて、油画作品あるいはアクリル作品として発表している作家が数多くいるからです。つまり、版画技法が、絵画技法のひとつの手法になって来ていることを、この草間弥生の作品からも読み取れるのです。

版画という手法は、ある意味「プロトタイプ」というイメージを払拭する事がなかなか難しいものです。しかしモノタイプなどの複雑になる仕組みを取り入れて、それを実現している成功例もあるわけで、おそらくここの吟味が今回の特別展の草間作品に、まだ可能性として残されているのだと思います。本人がそれを解決しようとはしないかもしれませんが、後に続く者がそこを足がかりに制作出来るということです(ここは、わかる人にしかわからない内容です)。

資本主義社会における複製手法の意味

シルクスクリーン可能な支持体は、紙だけではないのです。さまざまな工業製品・材質がかつてこの手法で、カラーリングされ、印刷されたのです。そしてキャンバスにも印刷が可能というわけなのです。また現在では、インクジェットプリントの台頭で、シルクスクリーンの技術者が減り、技法そのもが希少価値として芸術への格上げが始まっているとも言えます。また、版画技法そして職人を取り込む事それ自体が、技法と見なされる世界が現実にあるということも、多くの人に知ってもらいたいと思います。それは日本の社会では、まだタブー視されているかもしれませんが、もうそろそろ、それをあたりまえのこととして、認識してもいいように思うのです。

それは写真芸術が資料としてではなく、芸術作品として美術館の収蔵になって来ていることからも理解出来る事だからです(まだ材質の強固さとか保管の永久生について、疑問の残る問題があるにしてもです)。

このシルクスクリーンの手法の利点は、原作をコピー機で縮小拡大すれば、小さな原作から自由に縮小拡大した制作が可能である事。また、明確でフラットな表現が得意であるということです。広い面積を平坦に均一に絵具で塗る事は、とても時間がかかり技術を必要としますが、熟練のシルクスクリーンの職人にとっては、それはスキージーという道具の機械的な操作が可能とする、得意表現のひとつなのです。

さて、このシルクスクリーンという武器は、油画だけでなく日本画というジャンルも、積極的に取り込まれて来ています。ご存知でしたか?例えば、桜の花が無数に咲き乱れ散り行く表現、あるいは複雑に草が生い茂る風景に、このシルクスクリーンの技法が活用されていたりします。そう言うと、日本画の大家の幾人かの名前に気づく方もいることでしょう。

もともと日本画というのは建築の中の障壁画や屏風という装飾から独立したもので、その源に大型制作のノウハウが蓄積されながら発展して来ました。従って、ファインアートということよりも職人的な技術の世界を根強く維持していて、それを今日では、芸術の資本主義への挑戦、あるいはむしろ挑発的な表現にまで高めようとしているかもしれないのです。例えば村上隆という人にしても、そもそも日本画を学んだ人である事を挙げれば、その意味するところがお分かりになるでしょう。日本画はよい意味での伝統的な装飾としてのアプローチを、現在の芸術と資本主義の葛藤に、一つのテーゼとして着々と突き進んでいるかもしれないのです。

そして、この「芸術と資本主義」というテーマの一つの答えとして、この複製芸術・技法による表現があると言えるでしょう。

この時代において、作家は世界市場に向けた作品の量産、制作のスピード、グローバルな活動、あるいは大きな空間に対応する作品のスケールが求められています。これをどうしても克服しなければ、多くのチャンスを逃すことになり、また現実社会に即したアピールができなくなっています。

その解決策が、複製可能な手法であり、彫刻の複製はもとより、版画、写真、映像、あるいは空気でふくらますバルーンという材質が使われることになるわけです。

しかし芸術性と資本主義という二つの相矛盾した対決、ここから新しい作品が生まれている事は確かですが、その葛藤は、それ程生易しく超克することは出来ていないというのが現実です。

例えば、アンディ・ウォーホールの「キャンベルスープ」のシルクスクリーン作品にしても。それはかなり成功している制作かもしれないけれど、理屈で納得しながら、どこか空しさとか違和感が残るのです。それはおそらく、それを認識する側が、まだ真の意味での新しい価値観に刷新していないせいかもしれない。あるいはまた逆に、その価値観をまったくに変化させるものに、まだ社会全体が出会っていないとも言えるのです。

芸術性への志向と資本主義での成功とは、なぜか相容れない、パラドックスが存在するのです。ニーチェは「神は死んだ」と言ったけれど、私はこの問題を考える度に、「少なくとも芸術の神が死んでいない」ことを直感します。人々はやはり芸術における資本主義的な成功者よりも、神の与えた才能がこの資本主義の社会にあっても汚される事無く、奇跡的に存在する事を期待しているからです。つまり資本主義はあくまでも、一時的な乗り物にすぎず、いつ新しい乗り物に乗り換えるかもしれない、という冷静さもあるからなのでしょう。

もっと簡単に言えば、「芸術と資本主義をジンテーゼする先に新しい芸術が生まれる」のかもしれないし、実はそのことに惑わされると、「芸術」ということが見えなくなる仕組みがあって、その先ではなく、別のところから現代の重要な芸術が遺される可能性だってあるということです(これじゃ、何も言っていないのと同じだし、あまり簡単になっていないけれど...苦笑)。

しかし一方で人々の意識は、まだが芸術と資本主義との矛盾を解決しようとする作品に、感動し開眼するところまで到達していない、とも言えるのかもしれません。だからこそ、芸術とは何かを問いながら、飽くなき挑戦が繰り広げられます。もし、複製によってオリジナルあるいはたった一つしか存在しない芸術の唯一性という問題を超克する作品が現われたなら、その時はじめて、大衆にアートが受け入れられ、芸術を基盤とした新しい社会がはじまるかもしれない、そういう願いで作家は制作するのです。芸術作品にはそのくらいの大きな革新を起こす力が宿るのです。あるいはそういう社会の動向が必ず宿るものなのです。

それはちょうど、レオナルド・ダ・ビンチが、空気遠近法などの科学的な目で絵画を制作し、それが人類の科学主義の世界へ移行した象徴になっている、と見ることができるように。

あるいは、これにはパラドックスがあって、そこの道にはその答えはなく、むしろ少しはずれたところに、その答がみつかってしまうという場合もあるかもしれませんが....。

しかし日本の現代に生きる多くの一般人の目から、これらの芸術の複製あるいは芸術の資本主義への挑戦は、どのように感じ取られるでしょう?おそらく多くの人が、その制作姿勢をあまりまだ本当に理解出来ていない、あるいは評価出来ないとまで感じる人が多くいるのが現実でしょう。日本人の価値観には、「ほんもの」志向とか「手技」を愛でる価値観が根強くあり、それは善くも悪くも、日本の文化を支えたり、あるいはそれが一つの既成概念として壁となり、革新的な制作を阻むのです。

女性性と複製ということ

しかし、このコレクションに見られる女性達の制作は、そういう社会の軋轢に勇気をもって複製で挑んでいる、そのことが重要です。つまり、これらの女性達の作品には、女性だからというジェンダー的な社会の圧力があるという解釈とは別に、実は一方で女性ならではの、柔軟でしたたかな資本主義そのものに立ち向かえる勇気と力強さが、その複製芸術にそのまま宿っているということです。

これは男たちが例えば大衆の娯楽性、笑いに食い込むようにして漫画という複製文化を武器にしながらも、オタク性の中に閉じこもっている方向性があるのとは対照的です。女性たちは、自分の身の丈を計りながらも、女性の存在というテーマそのものが複製と関連していることを訴える制作で外に向かう力強さを持っていると言えるかもしれません。つまり、「人類は複製によって生命を伝えているのである」というテーマが底に流れているのです。あるいは、女性の受難の歴史がある意味強さとなって、複製芸術の受難の歴史に重ねることができる、ともいえるのかもしれません。オタクの受難は、今のところ社会的な深刻な問題にまではなっていない、ということでもありましょうか。

プラトンが「芸術はイデアの模倣にすぎない」とした意味を、男性性の歴史は、それを卑しみ解釈した。それを「芸術は人類の生命のように力強く模倣・複製され、永遠に増殖し続く」と解釈するのが、女性性の芸術解釈であり、草間弥生展の「永遠の永遠の永遠」に込められた思いではないか。私などは自由にそう解釈して美術展を楽しむことができるのです。

おわりに

でも、芸術における男性性と女性性を対比することはあまり意味のないことですね。現実はもっと複雑で相対的なものではないからです。

久しぶりに長く書きました。そして書きながら自分を振り返り、私自身はどうかと問えば、答はひとつしかありません。

そのような動向にあっても、「自分を見失うことなく、自分らしくあろう」と制作に向かうのです。

このような動向は、実は作家それぞれがはっきり意識しているわけではなく、もっとあいまいで、無意識的に動いている事だからです。つまり作品は、意識する、しないに関わらず、必ず時代の空気を背負うものです。

私は、女性であることとは関係なく、人間としてニュートラルに生き、私自身の中にある自然の声に耳を傾けながら、自分本来の制作の方向を手探りで、一歩一歩進めていくしかありません。このような文章を書いてしまうのは、またその自然の声のなせる技と言えましょうが、私の至らなさを露呈する事でもあるかも知れませんからね(苦笑)。

追伸:
最後になりましたが、今日は昨年の3月11日大震災からちょうど1年経ちます。
被災されて亡くなった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
とともに、生き残った者として生命の尊さを改めて自覚し、自分の生を全うする、画家として生きるということを、今まで以上に真剣に、心新たに取り組んで行くいく所存です。

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