福島の少女のことー「困難」や「限界」の創造性

早朝、ラジオから「福島」の情報が聞こえて来ました。

現状を伝えるドキュメンタリーをつくった女性が「福島の人たちは、ただお金を与えられても、生きる気力を失って、どう生きて行けば良いかわからなくなっているんです。」と力を込めて伝えていました。

福島という場所に、私は一度だけ行ったことがあります。
立ち寄っただけなのですが、確かに一晩泊まりました。
たぶんあれは、1989年か90年だったと思います。

私は当時1989年から1992年までの間に、毎年夏になると北海道のあちこちを旅していました。
函館、支笏湖、小樽、札幌、旭川、釧路、根室、知床半島、稚内、利尻島、礼文島...。

ドイツ遊学で知ったバックパッカーの生活を思い出すようにして、寝袋と生活に必要なわずかなものだけをリュックに詰めて放浪する、貧乏旅行です。
青春18切符か、郵船を使っていました。
北海道には、ライフラインが整ったキャンプ場があちこちあって、よく利用しました。
でも大抵そういう場所は、かなり辺鄙なところにあります。

函館では、キャンプ場が遠すぎて、ヒッチハイクしたこともあります。
小樽では、港の公演のベンチで寝て、かもめの声で目を覚ましました。
暗い所で、寝袋に入り顔まですっぽり被ってしまうので、気付かれることがありませんでした。

とにかく1日中歩き続けます。
休みたくなると、スケッチブックを取り出して、簡単なスケッチをしました。
食事は、トウモロコシとかジャガイモなどを1個買いして、リュックに入っているアウトドア用のコンパクトな鍋とバーナーで料理していました。

当時、中国からインドに仏典を求めて歩いた玄奘三蔵に憧れていたので、その練習のような気持ちがあったかもしれません。
それは、絵を描いて生きて行こうと決意するちょうど1年前であり、実際に作家活動する5年程前のことでした。

そんな旅を終えて、北海道から鈍行電車を乗り継ぎ、ちょうど福島駅で次の朝まで電車を待つことになりました。
とても大きな駅で、行き交う人がほとんどなくても駅周辺はいつまでも明るく、がらんとしていました。
寝場所を探すのに苦労しました。
それでも人の波が途切れるまで待って、寝袋に入ることにしました。

と、そこへ一人の女の子が近寄って来ました。14〜17才くらいでしょうか。
「どうして、こんなところで寝れるの?」
逆に私は
「どうしてこんな時間に女の子が駅前をふらふらしているんだろう?」と思いました。
風天な娘かもしれないので、少し警戒しました。お互い様でしたでしょうが(苦笑)。

私:「北海道から横浜に向かって鈍行で帰って来たら、電車がなくなったから、ここで寝るのよ。北海道でもこういう風に寝ていたから。」
少女:「どうして?」
私:「お金を節約しながら、なるべく長く遠くに行きたいから」
少女:「北海道で何をするの?」
私:「1日中歩いて、たまにきれいな場所があると休んで絵を描くの。」
少女:「いいなぁ、私もそんな生活してみたい。私、家にいるのがつらくて、こうして夜になるとこっそり抜け出すの。」
私:「何で?」
少女:「私、家の人に相手にしてもらえないの。お父さんもお母さんも、仕事仕事で、私のことなんかどうでもいいのよ。」
私:「家の人なんか気にしないで、自分らしく生きたらいいじゃない。」
少女:「私ここにいるのが辛いのよ。人も町も、ある時から変わってしまって...。小さい頃はこんなじゃなかったのに...。」
私:「何か、自分がしてみたいことないの?」
少女:「わかんない。お姉さんは、何?」
私:「ギクッ!私も、旅をしたり、絵を描いて探しているってところね(汗)。」
少女:「そっかー(笑)」

その時彼女の言っていることは、この駅が大きく真新しいことや、駅周辺ががらんとしているのに明るいことと、何か関係があるのかもしれないと思ったものでした。

私は「福島」と聞くと、この少女のことがまず頭に浮かびます。
そして、あの3.11の時にまず気がかりだったのも、この少女のことです。
あれから北海道に行けただろうか?
家の人とはうまくやっているのだろうか?
自分らしく生きているだろうか?

ラジオからは「人はお金だけでは生きられないんです。」という言葉が流れていました。

そう、「人はパンのみにて生くる者に非ず」。

皆、自分らしく生きることを求めているのです。

話しがちょっと変わりますが、前回の記事で、私のことを心配された方から「生活保護を受けてはどうか?」というアドバイスを頂きました。
「日々の暮らしの経済的な不安の中で、落ち着いて制作出来ないのではないか?」という危惧からです。
私自身も一時そう思い、生活保護について調べ、市役所にも相談に行ったことがあります。
そして結論として、受けることが出来そうにないこともわかりましたが、同時にリスクが大きいことも知りました。

一度受給し始めると、断ち切れそうにありません。
毎月入って来るお金を止められないように、ある収入以上のお金を稼がなくなります。

絵画を制作する人にはいろいろな人がいます。
作品はそもそも売れないと割り切ってしまう作家。
一般受けする作品を、販路を手広く持つ画廊で発表する作家。

私の場合は、そのどちらでもなくて、自分にしかできないような絵を、細々と何とか売りながら生活することが理想です。
売れ筋の絵が売れることよりも、一般受けしそうにない絵が売れることが、どれ程の励ましになるか、はかり知れません。
その励ましと収入をエネルギーにして、次の制作へと向かう「循環」が起きて来ます。
この循環が、「生かされていく」という自然の摂理と一体化することになるのだと思うのです。

私はまだ完全ではなく、自分を信じる力が足りません。
過信しない程度に、自分を信じる、その度合いが掴めていないからです。
それは徐々に自分で確かめながら、経験的に知るしかありません。
自転車で言うなら、ご寄付は補助輪です。
何とか支えて頂いています。
しかし、作品が日常的に売れる経験を積んで行けば、次第にその「循環」が自然に定着して行くのではないかと感じています。
ちょうど補助輪なしで、何度も転びながらバランスを体得して自転車が乗れるようになるように。
だから、いつ誰から寄付が送られて来るかが分からない方がいいし、おそらく自然に寄付が絶えたとしても、作品からの収入で生きられるようになるのではないかと、希望的観測を持ち続けるようにしています。
そして、与えてもらったものは、必ず何らかの形で自分も与えられるようになるはずだと思ってやみません。

人はたいてい「困難」や「限界」をなるべく避けて安定を求めてしまう。
しかし、そのことで失われるのは「実存」です。
漠然とした、自分の存在を確かめられないという悩みが始まります。
ひとつの問題が解決されると、次にはまた別の違う問題を見つけて悩み出すのが人間の常なのです。

そして、制作にはこの「実存」は欠くことのできないものです。
実存のない作品とは、誰が描いても同じだと言っているような作品です。
何か「のっぴきならない」自分を制作を通して確かめようとするからこそ、その人らしい作品が出て来ることになるのであって、その「のっぴきならない」心情が、この「困難」や「限界」で生まれるものだと思います。

ですから、「困難」や「限界」にこそ創造性の源泉があるとも言えるでしょう。
それは自ずと誰にでも与えられます。
ただ、それに対峙して、飛び込まなければならないのです。

それを上手に教えてくれる動画をご紹介します。
これはアーティストの生き方だけを教えるものではありません。
どのような人も、「ハンディを受け入れる」ことや「限界に目を向ける」ことで、その人特有の「困難」を克服し、それを個性として、創造的に生きられることをこの人は教えています。

フィル・ハンセン TEDトーク『震えを受け入れる』

*PCでは、日本語訳テロップが読めるようになっています。

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