大腿骨頸基部骨折回復記録−5

2月に右大腿骨頸基部の骨折をしてから、半年が過ぎました。
8月3日に定期検診があり、レントゲンの結果、定期検診はこの日が最終日となりました。
お陰さまで、今のところは無事に回復に向かっているようです。

頸基部に異常な形態がないかどうかがレントゲン画像で確認され、医師から説明を受けました。
骨に血液が回らなくなると、折れた部分が次第に壊死して形がぼろぼろになるそうで、今のところはその兆候は観られないということでした。
でも足の長さが5ミリ程短くなったそうです(トホホ)。
何となく不安のよぎる話しではありましたが、それは想定内の変化だそうで、心配はないそうです。
そう言われてみると、何となく今までのバランスと違うようにも感じて来ます。

実際に折れた部分が本当に接続出来たかどうかは、レントゲンでは確認出来ないそうです。
「骨がボルトで止まっているだけの場合もあるので、ボルトを抜く手術は、余程の事がない限りは止めておきましょう。」
ということでした。
ボルトが骨に馴染むと、逆に抜く手術も困難になるそうです。
反対に、再び同じ箇所を転倒などで損傷するようなことがあると、今度はボルトが凶器になる可能性もなくはないそうです。
くれぐれも、転倒だけはしないように注意しなければなりません。

普通に買い物に出かけるくらいは、何も困る事がないのですが、駅のホームの階段を上るのだけが唯一困難です。
右足で1段上がろうとするとお尻と腿に激痛が走ります。
長らく右足を安静にしていたために、右のお尻と太ももの筋肉が全く衰えてしまったのです。
日常生活、とりわけラジオ体操も出来るようになっていて、すっかり油断していました。
調べてみると、過度なリハビリも良くないそうです。
これから少しずつ自分なりに工夫して、出来る範囲で、無理せずに筋力アップのリハビリを心がけるつもりです。

今回病院に定期検査で通ってみて、一つ気付いたことがあります。
医師は、手術と検査をしても、回復するための治療は一切しないということです。
痛み止めと化膿止めの投薬は、退院後しばらく飲みましたが、それは治療ではありません。

看護師さんがおしえてくれたのですが、骨折は、必ず誰でも治るのです。
骨って、凄いものですね。そして人間の身体は本当に素晴らしいと思いました。
痛いという事も、「身体を大切にしなさい」ということを伝えるためなのだと気づき、つくづくありがたいと感じました。

そして治療の必要がないのは、とにかく身体が本来持っている「自己治癒力」に任せるしかないからなのです。

つい私たちは、骨折を早く治す薬があるのではないかとか、骨折に効き目のある食べ物があるのではないかと考えがちです。
しかしよく考えてみると、この「早く」治すということは、どれほどの価値と意味があるのでしょうか?
「早く」と言っても、人それぞれの個人差がありますし、実際どのくらい短縮したら、納得出来るでしょうか?

よく考えてみると、私のように制作になんら支障がなければ、知らないうちに回復してくれれば事足りるので、「早く治す」意味がありません。
痛みを抑えるために、シップ薬を処方して頂いたのですが、気になる程の痛みがなかったので、実は全て制作の疲れをとるために肩に貼って使わせてもらいました。

私の自己治癒力がどの程度うまく行くかは、今後痛みのシグナルでわかるそうです。
壊死してしまった場合は、痛んで来るそうで、その時は人工股関節を入れる手術を考えなければならないそうですが、使える限りはなるべく長く自分の骨で耐えて行く事も必要になるそうです。人工股関節にすると、しゃがむことが出来なくなるからです。

しゃがむことができなくなると、制作方法にも変化があるかもしれません。
でも、よく考えてみると、その変化が作品に何らかの変化を与える事となり、それが良くなるか悪くなるかは、足には関係なく、制作する気持ち次第のように思えて来ます。ですから、どちらにしろ制作が何とかできるのであれば、例え不自由な事があっても、何とかなりそうな気がしています。

ありがたいことに、今こののような経済的困難さの中でも、制作は出来ているのです。
困難さが二つに増えても、耐える気持ちはさほど変わりはありません。
逆に困難がまったくない人など誰一人としていないことでしょう。
皆、何とか工夫して生きているものだと思います。

それにしても自己治癒力がうまく行くか、行かないかは、損傷の受け方の運に左右されることはもちろんですが、
自分の身体の力に賭けるしかありません。

生命の力のようなものは、いったいどこから湧き出るのでしょうか?

今朝ベルクソンの『精神のエネルギー』をもう一度最初から読んでみました。
この本は「意識と生命」という項目から始まります。

ベルクソンは、物質と生命との違いとをこのように区別します。
物質が行う事で予見不可能な事はない(例えば日食や月食)のですが、生命は選択をするので、予想が不可能なのだというのです。

なるほど、物質の変化というのは、ある決まった規則性があるので、その法則を知ることができれば不可思議な事がなくなります。
しかし、生命あるものは、必然性にゆだねる時と、意志の力で選択する時とがあります。
意志ではどうにもならない時のことは、何となく必然に流されて結末がわかるけれど、意志の力で行った事は、かなりジタバタした上で、予想外の事が起きて来るものです。

実際、私の骨折が大怪我になってしまった原因は、実はこのジタバタの結果でもあり、自分でも落ち着いて対処しなかったことによる出来事なのです。

しかし、ベルクソンは「生命は必然のなかに入って、必然性を生命のために役立たせる自由」があるだけでなく、
人間だけは突然の飛躍が出来るといいます。
それは他の生命体が予想出来ないかたちをつくれたとしても、「生きる」ための幅の狭い選択であるために、一度創られると機械的に反復させてしまうからです。その自由が鎖に繋がれていて、その鎖を伸ばすことぐらいしかできない程度のものなのです。

しかし、人間の選択の幅は、ダイナミックです。
たとえその日食べなくても、種の保存と関係なくても、好きなことのためには一生懸命になれるという、他の生命体ではありえない選択が起きて来るからです。

人間の力は底知れません。

私に飛躍があるとしたら、それはこの経験を通して得られた気づきです。
この気づきは、ただ制作に埋没していては得られなかったものです。
そしてこの気づきから、自分の身体に対する信頼といたわりを学びました。
それは、制作への図り知れないエネルギーとなっています。

ベルクソンのこの本には、他にも多くの重要な事柄が書かれていますが、今はうまく文章にすることはできません。
ただ、感じたのは、自分という存在はこの大きな世界の中であるべくして存在し、周囲との関係でものごとはうまく成り立つようになっている、どのようなことが起きても、何ひとつ間違いなどはないということ。
今こうして自分が存在することも、世界が求めてそうあるようにしているらしい、そんな感覚です。

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