制作のあいまにー不確実性の時代のフラクタル表現

生の絨毯

ここに人間は植物や動物と絡み合い
絹の房に縁どられて異様に結ばれている
青い三日月と白い星がそれを飾り
硬直した踊りとなってその中を横切っている。

飾りのない線が絢爛たる刺繍の中を貫き
各部分は縺れ合い互いに向き合っている
そして誰も編みこまれたものの謎は分からない
するとある夕べ この織物に生命が宿る。

死んでいた枝がおののきながら動き出し
線や円で隙間なく囲まれていたものが動き始める
そして結ばれていた房の前へはっきり現れ
きみたちがみな思案に暮れていた解答をもたらす!

この解答は意志によって得られず すべての
平凡な時に適さず 組合の宝にあらず
多数の人に与えられず 弁舌をもって叶わず
希な人に 希なときに形象として与えられる。

(シュテファン・ゲオルゲ詩)

昨日読んでいた本の中から、はっとする詩を見つけたので、ノートに写しました。

【アラベスク】

昔し『アラベスク』(女子美術大学所蔵)という作品をつくりました

プルシャンブルーを基調とした、スクラッチの作品でした。

ある人にその作品を、日本の出光美術館にゆかりのサムフランシスの作品に似ていると言われて、嬉しかった記憶があります。その後にサムフランシスの大きな展覧会が東京都現代美術館で企画され、見に行って、「あぁ、この作品のこと?」と思ったものです。

実は、私のその作品の題名は、ドビュッシーの『アラベスク』というピアノ曲からとったものでした。妹によくリクエストして弾いてもらっていた曲でした。
メロディが重層的で、この曲に川のせせらぎを感じるので、昔から好きなのです。

再びゲオルゲの詩に戻りますが、この詩の解説に、ヒルデブラントがこの絨毯は、回教徒が祈祷の時に敷くアラベスク模様の敷物であると言ったと紹介されていて、「人類文化の発祥地である西洋と東洋の接点が最も実り豊かな地域」がオリエントなのだ、というようなことが書かれています。

私は、アラベスクというのは、人間の抽象表現の源にある象徴物ではないかと常々思って来ました。そして、石油産出国が世界経済に力を持ち始めたことと、絵画に抽象表現主義が生まれたこととは、全くの無関係とは言えないように思えるのです。いまだにそういう文献に出会ったことがないのですが、もしかしたら、フランスの哲学者あたりで、そのことを指摘している人がいるかもしれませんね。というのは、フランスと石油産出国とは、やはり大きなパイプで繋がっていそうだからです。まったくの根拠もなく、そのように感じています。先のサムフランシスは、フランス人ですが、母国の抽象表現の画家の中では、実は無名に近く、日本で活動したせいもあり、出光氏の確か娘さんとサムフランシスが結婚していることで、日本ではとても恵まれていたフランス人画家として有名です。これも、石油と抽象絵画とフランス人がぴったり繋がる例でしょ(笑)?

さてここまでが導入です。

今日はこの後、すっごく長い文章になってしまいました。

書きたくなることがたくさんあるのです。

この詩に付随して、フラクタル、抽象、そして私の作品の秘密を書いてみたいと思います。

【フラクタル】

先日、ブノワ・マンデブロ(1924-2010)の新刊『フラクタル幾何学(上・下)』が届きました。

これまで私は、「フラクタル」という言葉は、1/fとか、ゆらぎ、ファジーというような言葉と一緒に、複雑系という意味ぐらいの知識だけで何気なく使って来ました。

この「フラクタル」という言葉の創始者がマンデルブロ氏なのです。

言葉というのは、凄い力を持っているものですね。フラクタルという意味をわずかしか理解していなくても、言葉を知るだけでわかったような気になるから、不思議です。

以前から、漠然と薄々気がついていたことなのですが、この「フラクタル」という言葉をしっかり認識することで、ようやく自分がこれまで制作して来た作品の内容が明らかになったのでした。

「フラクタル」は、ラテン語の形容詞fractusからマンデブロ氏がつくった造語だそうで、ラテン語の動詞frangereは「壊れる」すなわち「不規則な断片ができている」という意味から定義されています。

この本は次のような文章から始まります。

「幾何学はなぜ、しばしば味気ないとか、つまらないといわれるのだろうか。雲や山の形、海岸線とか樹木の形を表わせないということが、その理由の1つであるだろう。雲は球形ではなく、山は円錐形でない。海岸線も円形ではないし、樹皮もなめらかではなく、また稲妻も一直線には進まない。」

アートの側からこのため息をみつめると、たくさんの話しをすることができます。

まずレオナルド=ダ=ヴィンチによって科学的な目で世界を捉え、写実的に描く技法、そのような絵を求める意識が生まれた話しからはじまりますね。

人類は、現実の世界をかなり忠実に絵画として再現する技術を開発し、身につけることが出来たのですが、にもかかわらず長い年月を経ると、簡単にそれは否定され、放棄されてしまう。

それは人々の世界、自然を見る目や認識が変化するからです。
ここは重要ですが、今回は省略。

そして時代は、ずっとずっと下がって、カンディンスキーやモンドリアンが表現しようとした抽象表現とはどういう目的があったのか、写真技術の台頭で、絵画の存在を肯定するためにどのような努力が画家たちによってなされたか?抽象主義の突き進む果ての、アートのミニマル化(簡単に言うと、ただ真っ白な画面とか、真っ黒な画面があるというような作品がたくさんつくられました)、そこに訪れた抽象表現の限界と見る人に与える疎外感。

その反動で起こる、フォト・リアリズム。

しかしさらにそれを乗り越え、写真特有のソフトフォーカスや、ブレという現象が、なぜ絵画表現のゆらぎやあいまいさ、無形(アンフォルメル)への衝動として取り入れられるようになっていくのか。。。

このような話しが、私の頭の中を怒濤のように駆け巡り、全てはこの「フラクタル」の問題であったのか。。。と、ため息をついた程です(大袈裟ですね、苦笑)。

私が抽象絵画を描こうと決意したきっかけについては、以前、杉野氏との対談に録音されているのですが、学生時代に自分が本当に好きになれる絵画を探し求めてヨーロッパを歩いた経験に端を発しています。毎日毎日美術館や画廊を見て歩きました。そこで、最終的にベルギーのブリユッセルで見た、『抽象絵画展』にはじまるのです。これらの絵画が私を捉えたのは、ある特定の宗教や文化だけに享受される、それまでのヨーロッパキリスト教絵画の歴史から、全く離脱して生まれたと、はっきり感じられたからです。

そこには、歴史上重要な抽象絵画のひとつひとつが、丁寧に紹介されていて、本当にその重要さを実感することができたのです。

しかし、私はこれも以前にこのブログに書き込んだと思うのですが、日本に帰国してから、国立博物館で長谷川等伯の『松林図屏風』を見て、さらに閃いたのです。

日本人として私にできる抽象表現があるのではないかと。。。

あの時ベルギーで見た抽象絵画展の作品はどれも確かに素晴らしかったのですが、この1点が好きだ、というものではなかったのですね。何かどれにも足りない物を感じて帰って来た。だから、『松林図屏風』を見て、それが何であるかがわかったのです。

その足りない物とは、『自然さ』でした。

ヨーロッパの風土というのは、自然を克服し、治め、人間に役立つ自然へと造り直す歴史文化を生み出しました。それに対して、四季折々の自然の美に恵まれ、それと共に歩む日本の風土に、自然を制圧するような表現はなかったといえるのではないでしょうか。

マンデルブロが使う「トポロジー」という言葉を知ったとき、なぜか私はそのことを感じずにはいられませんでした。

ユークリッド幾何学では、例えば自然の呈する非常に不規則で複雑なものは、すべて単純な形に置き換えて、複雑さは全て排除されてしまいます。あたりまえですね、目的はこの宇宙の仕組み、神秘をどうしたら、単純で美しい数字で説明できるのか、何とかして図形化して普遍的な真理として発見したい、という努力が数学の世界で為されているのですから。そして、そこでは「トポロジー」という概念が前提となっているようなのです。ここは、もし専門家の方が、読んで変でしたら、ご指摘下さいね。

さて、その「トポロジー」では、たとえ個々の海岸線がいかに美しく入り組んでいるにしても、区別することはしないのですね。だから複雑さのない通り一遍の形態を海岸線が図形として並びます。そこに、複雑な美への取り組み等は必要とされるべくもありません。

ところが、ここに数学の新たな活用の場が見出されると、話しが変わって来るのです。それが、「解像度」という問題です。

コンピューター画面で、確かに単純化されたユークリッド幾何学は、見事に複製を繰り返すだけでは何の感動も与えないですね。しかし、自然のしくみがミクロの単位で拡大されて見事にその姿を露呈し始めると、人は自然に単純かつ複雑な形象、構造のしくみがあること、その神秘な美しさに脅威と感動で打ちのめされてしまう。
そして人工的にコンピューターでそれを再現することは出来ないものかと考えるわけです。それには、まず単純極まりないユークリッド幾何学に複雑さを加えないと、と考えたわけですね。その複雑さが、「ブラウン運動」です。簡単に言うと、ギザギザな不規則な形態。。。

しかし、そのブラウン運動から充分な距離を保つと、ある規則的な仕組みによって裏打ちされる滑らかな線が浮かび上がる。。。というわけです。

このように書くと、凄く難しいことを書いているように思われてしまいかねないので、もっと噛み砕いて説明しましょう。

例えば、現在ここに存在しない恐竜をCGで描き出し、恐竜を映画でリアルに活き活きと動かし再現したいと夢描きます。出来れば、恐竜時代のジャングルの様子、そこを駆け抜けるティラノザウルス.。。。

解像度が低くては、どうしてもリアルにならず、結局は虫類や動物の素材をつぎはぎして皮膚をつくろうかということをまず考えるでしょうね。しかしその先にもっと複雑な筋肉の動きを見せることは、夢のまた夢。。。結局着ぐるみをつくって、人にかぶせて歩かせようということになりかねません。しかし、それでは何の話題にもならない映画になってしまいます。

そこで、初期にはきっと、ソフトフォーカスなんかを駆使したり、場面を闇にしたりして、何とか解像度の悪い部分を見せないようにと努力するでしょうね。

そういう映画、まだ日本でもつくられていそうです。大型コンピューターを導入する予算が足りないとか理由があったりして。。。

そのような努力の中に、必然としてマンデルブロの「フラクタル」理論が生まれたそうです。

彼は、「大部分の興味深い問題には、フラクタルとトポロジー双方の特徴が非常に微妙な形で包み込まれている」と書き記しています。

抽象絵画に話しを戻しましょう。

トポロジーの典型的な例は、やはりモンドリアンでしょうね。
フラクタルが極まると、やはり、フォトリアリズに行くのででしょうか。写真画像をプロジェクターでキャンバスに投影して、なるべく素材感を出さずに、忠実に描き込んで行きます。
あるいは、最近は、フラクタル絵画をつくるCGソフトも開発されていますから、そういうところからフラクタル・アブストラクトというような絵画の動きが日本でも紹介される日は近いでしょうね。

さて、このトポロジーがない絵画と言えば、子供の落書きに注目した、アール・ブリュットやアンフォルメル表現が代表的な例でしょうか。アクションペインティングもこの流れです。

しかし、この2つがいろいろな割合で、それぞれの絵画に溶け込んで、複雑さとシンプルさを兼ね備えているものだと思います。

【不確実性の時代】

現代絵画には、必ず皮膜性、レイヤー、曖昧さ、ソフトフォーカス、不確定性、ブレ、という表現をたくさんみつけることが出て来ますが、これらは、この時代の「不確実性」を表現するとともに、映像や画像のバーチャル・リアリティの導入が始まっている証拠なのです。

そこで、マンデルブロが「大部分の興味深い問題」と言ったのは、絵画だけでなく、現代のさまざまな人間の営みが、これにあてはまると言うことなのです。

不確実性という言葉が飛び交う現代社会の、混沌としたこの複雑な世界。そのように世界を見ようとする、そう見ざるを得ない視点こそ、実は私たちの新たな段階への飛翔の入り口なのです。ではその複雑系の何が重要な問題かというと、物事を簡単に割り切れないからこそ、その割り切れない中に、沢山のチャンスと未知の宝が隠されているということです。そしてこれを恵みとして受け取れるかどうかが試されているのです。

この世界には、もう残された発見や冒険等ないのだ、絵画やアートの可能性等もうない、アートは頽廃し崩壊して行くと思い込んでいる人は、残念ながらこの不確実性の本当の世界がまだ見えていない証拠です。

先のゲオルゲの詩をもう一度読み直して下さい。

きみたちがみな思案に暮れていた解答をもたらす!

この解答は意志によって得られず すべての
平凡な時に適さず 組合の宝にあらず
多数の人に与えられず 弁舌をもって叶わず
希な人に 希なときに形象として与えられる。

この詩の本当の意味を知りたいと思うのでしたら、是非私の作品を実際にご覧下さいませ(苦笑)。

ゲオルゲの『生の絨毯』をその作品に見る人がいることでしょう。

そして、アートを是非直接経験して頂きたいものです。

アートは、アートを愛し、愛そうと努力する人に大きな恩恵をもたらします。

この時代に生まれたアートには、次の時代へのメッセージが隠されているものです。

さてやっと本題です。

【私の抽象表現とは何か?】

自然の景観を彷彿させながら、具体的な特定の場所でもなく、また情緒性を求めて陶酔出来そうで、どこかクール。よく観察すると、実は全て細かい線が交錯しているだけ、何を描くというわけでもなく、もやもやと頭に残り、しかし思い出してみても、具体的な形の記憶を掴むことができない。しかし、確かに何かが見えていたような気がする。。。

線そのもの自体は、シンプルなものです。しかし、感覚というフラクタルを使って、CGソフトではつくりえない複雑系がそこに生まれます。人間もまた自然の一部であるという東洋的な思想を生まれ持っているからです。

この自然とは、東洋では無のことです。ヨーロッパ神秘思想では神のことです。

見る人には、「いかようにも見て頂いて構いません」となるべく言って来た私です。

しかし、ある人にとっては、何がなんだかわからないものに、恐怖すら感じ、妄想すら見てしまう人もいるようでした。

作品が、見る人の鏡になるからなのです。

貧しい人は貧しさをそこに見、豊かな人は豊かさを見ているようでした。

真理を得ている人は、そこにすら真理を見出すのです。

アートとはそういうものです。

再びここでお知らせです。

是非、この機会をお見逃しなく。。。

マチエール(画肌)の魅力

会場:東京国立近代美術館 所蔵品ギャラリー(4F-2F)

会期:2011年2月22日(火)~5月8日(日)
*休館日:月曜日(但し3/21、3/28、4/4、5/2は開館)、3/22(火)
*無料観覧日:毎月第1日曜日

*展示作品は、『A Thousand of Winds』(162x192cm)です。

*最先端技術CCD撮影画像により、スクラッチとハッチングの線が複雑に交錯する画肌の秘密が明かされます。

*期間中の特別展
2011.3.8-5.8 生誕100年 岡本太郎展

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