ドイツ時代ーその3

1984年のドイツ滞在は2ヶ月間のとても短い期間でした。目的は語学研修でしたから、美術館を思うように見て回れなかったのです。その後悔から翌々年の3年次(1986年から1987年にかけて)に、約1年の再渡航を決意したのでした。その間の1年はとにかく日本でできるかぎりドイツ語を勉強すべく、下記のようなスケジュールになっていました。好きなことができれば、疲れなど感じない性質で、眠い、辛いと思ったこともありませんでした。教員免許も学芸員資格もとりました。大学の授業は1日だけ休んだのみです。忘れもしません。その1日とは、博物館でのアルバイト後、南極の氷での飲み会に参加。私としては不覚にもつぶれてしまい、博物館の宿直室に泊まることに。それでも翌朝どうにかこうにか東銀座まではたどり着きましたが、二日酔いに負けて帰ったその1日なのです。

5:00 起床。
6:00〜8:30 電車内にてドイツ語予習。
8:40〜9:40 大学近くのファーストフード店でアルバイト
10:00〜17:30 大学授業
18:00〜20:00 青山ゲーテインスティトゥートにてドイツ語授業
20:00〜22:30 電車内にてドイツ語復習
23:00〜24:00 大学の課題制作、レポート作成
24:30 就寝

日曜日や大学の休みの日は、博物館でアルバイト。そして平日土曜日の早朝アルバイト。これらのお金を全てドイツ語学校の授業料に充てていました。

そしてさらに、留学奨学金制度にも挑戦したのですが、補欠に留まる結果となりました。八方手を尽くして、それなりに努力しての結果でしたので、その姿を見兼ねて、父がある朝口火を切りました。「他人のお金で勉強しても身に付かないという話しもある。」と意味深な発言。その発言はそこまでの話しで終わりましたので、どういうことなのか、しばらくピンと来ないでおりました。

例によって、なぜ自分がこの時期にドイツにまた行きたいのかを、自分に問い、やはりどう考えても「ドイツ美術をテーマにして卒業論文を書きたい、だからどうしても今ドイツに行き、出来る限り直接美術作品を見て回りたい」そういう気持ちが抑えきれなかったのでした。とは言うものの、父に自分の考えを打ち明けて、相談することも出来ないでいました。しかし、父は父なりに私がドイツ語を勉強する姿に思うところがあって、先ほどの言葉は、その助け舟のようにも解釈出来たのです。

そこで思い切ってこう頼んだのです。「私はどう考えてみても結婚には縁がなさそうです。世間の親は娘の結婚式・披露宴に貯金をしているものだと聞いたことがあります。もしそのような貯金があるのでしたら、結婚式にではなく、私の留学のために是非使わせて下さい。絶対に結婚式をしたいと一生言いませんから。」この話しは、その後何度も家族の冷やかしの種となりました(苦笑)。そしてその約束は、ずっと頑なに守られ続けております。私としては、今となってはそのような約束は、とっくに忘れてしまいたいところですが、その言葉があまりにも真剣だったので、呪文のようになってしまい、ずっと呪いがかけられたまま?なのかもしれません(笑)。

私はとても良いタイミングに恵まれました。日本はまさにバブル期に突入し始めた頃だったのです。当時母は隠し財産を持っていました。その株券は、ありがたいことに毎日うなぎ上りに上昇しました。妹はグランドピアノを、私はドイツ留学という夢にそれらが使われました。父と母はその夢を買うことが幸せ、と考えてくれたのです。

私はこの期間に語学習得や大学に拘束されずに、思う存分美術館巡りが出来るように計画を立てました。もちろん贅沢な旅行は出来ません。節約に節約を重ねて、学割のユーレールユースパスや1日の宿泊代が当時1600円のユースホステルなどを利用し、街ではバスを使わずに必ず足で歩くと決め、ドイツのみならず隣接するベルギー、デンマーク、フランス、イタリア、スイス、オーストリア、そして旧東ドイツ、遠くはギリシャへと、何回かに分けて可能な限り旅をしたのでした。

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