Category: 読書

近代について

先日東京駅の丸善でチャールズ・テイラーの著作『自我の源泉 近代アイデンティティの形成』『〈ほんもの〉という倫理 近代とその不安』『近代 想像された社会の系譜』『今日の宗教の諸相』を購入しました。丸善には、読書テーブルのコーナーがあって、重たい本を立ち読みしなくてもよいようなサービスがあるのですが、残念ながらその日も、満席でした。いつもなんですけどね。それもほとんどの人が、休憩か居眠りをしているようにしか見えない。いや、もしかしたら「全部買いなさい」ということかもしれないと、その時勝手に判断し、全部買うことにしたのでした。本当はセレクトして買おうと思ったのですが(言い訳)。

本は1冊ではそれ程重いと思ったことはないのですが、数冊になると最近は無理せずに宅急便を使うようにしています。丸善のレジで配送サービスがあるかどうか尋ねてみましたら、何と「1万円以上のお買い上げは送料無料」だそうです。聞いてみるものですね。早速無料で配送をお願いしました。いつからそうなったのでしょうか?これまで随分重い思いをして来ましたが、あれは何だったのでしょうか(苦笑)?ま、深く考えるのはよしましょう。このようなお得な情報は、最近はそれを必要とする人にしか伝わらないようになっています。プロバイダー契約も、ネットからするとプリンターが貰えたり、契約金が安くなったりする時代ですからね。

話が少し脇道にそれましたが、チャールズ・テイラーの本を、それ以来、同時並行して読んでいます。この著作者のことはこれまで全然知らなかったのですが、とても読みやすい文体なのでお勧めです。これまで「近代美術」と言う時と「現代美術」という用語を使う時のニュアンスの違いについて、ずっと違和感とか、疑問を抱いて来たので、このテーラーの本から「近代」とはどういう概念かが少しずつ明確になって行き、こんがらがった糸の綾が解され、少し柔らかくなっていくような感覚があります。

まだどれも途中までしか読んでいないのですが。やはり「私たちはまだ近代という概念の中に生きている」ということを、当たり前のことですが、再確認することができました。近代と現代とを一本の線上の延長として横並びに結びつけている人が結構居て、そういう認識にずっと疑問を持ち続けていました。つまり「近代美術って、現代美術以前のアートでしょ?」というような意識です。確かに、最近世界的にあちこち「現代美術館」という名称の建物が立つようになったので、いかにもそれが新しい美術の発信源という感じがしてしまいます。確かにそれは全くの間違いではないのですが、やはり認識としては不十分なような気がします。

私たちは、近代に生きているという場合のこの「近代」は、歴史的な位置づけをした上での認識なのですが、「現代」とはこの歴史的な土台から遊離されている感覚があります。例えば現代美術でいえば、とにかく最先端技術を使ってみたとか、これまでの脈絡に関係なく、突発的に趣向の変わったものが出て来た、という内容になるのです。それがいいかどうかとか、評価に値するかどうか、という考察は全く意味をなしません。なぜなら、歴史に切り離されていること自体が重要だからです。もし歴史に裏打ちされていれば、それは「近代」のカテゴリーに含まれることになるわけです。評価は必ず時代という考察なしにはあり得ないわけで、そういう意味で「現代美術」はそもそも評価をすることのできないものなのです。

そしてその「現代美術」も10年も経てばもはや「現代」とは言えなくなってしまいます。そこで多くは消え去るものです。ただリアルタイムで「近代」的な位置付けがすぐにはわからない形で、暗に仕込まれていた場合、突如としてそれに気付いた人によって「近代」の脈絡で評価され、それが歴史的に重要な遺物として残されて行く。そういうものなのではないでしょうか。

今のところチャールズ・テイラーの著作に、そういうようなことは全然書かれていないのですが、読みながら、「そういうこと書いてないかしら?」と探しながら読んでいる自分があります。

さて、丸善に行った日は、その足で東京国立近代美術館の「ポロック展」を見に行きました。あまりに有名ですし、数年前にニューヨークのグッゲンハイム美術館でペーパーワーク展を見て、良い作品を堪能できましたから、今更見に行くかどうかということも感じなくもなかったのですが、そういう時に限って後から後悔するものですからね。やはり見に行くことにしました。結果、やはり見て良かったと思います。初期の珍しい作品がたくさんありました。ポロックらしい作品しか知らない人は、きっと目に鱗でしょう。久しぶりに展覧会カタログも購入して、内容がとても充実していて満足でした。特に「具体美術協会とジャクソン・ポロック」については、わくわくしながら読めました。

ところで、その日は予定していたバスに乗り遅れ、相模原の東横インに1泊してしまいました!そうそう、最近引越しをしたのです。でも結局これまでの生活とそれ程違いもないので、まだほとんどの人にそのことはお知らせしていません。引越しをした理由もいろいろな理由を言い当てることも出来ますが、一番の理由は、「どこに住んでも同じだから」です。たまたま住んで見たくなるような物件との出会いがあり、これまでの相模原の生活に終止符を打つことになりました。

「地震の影響ですか?」と聞く人もいるのですが、日本中というか世界中のあちこちで頻繁に地震があり、世界のどこに行っても、安全な土地などどこにもありません。画家にとっては、どこでもサバイバルな人生です(笑)。たとえ筆が無くても、キャンバスが無くても、画家は絵を描き続き続けます。絵とは何か?
……人生そのものが絵であり、夢であり、希望なのです。

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ハイデガー芸術論の「ピュシス(=自然)」

今回は、ハイデガー芸術論の「ピュシス(=自然)」について私なりに考えていることを書いてみたいと思います。

カント哲学の「芸術美」と「自然美」

ちょっと遠回りのようですが、渡邊二郎著の『芸術の哲学』の第13章「カントの判断力批判」を読んでいて、とても触発されましたので、ここから文章をはじめたくなりました。

カント哲学については、これまでカント先生は誰からも慕われていた希有な哲学者であった、くらいの知識と、父の書斎にあったカント全集を実家の引っ越しの際に、手放してしまったことをたまに悔やむくらいでしょうか。原典を読んでみようという気は、これまで全くありませんでした。

渡邊氏の著作のような、芸術哲学のダイジェスト版のような著作があると、さまざまな角度から芸術を考えるきっかけとなり、とても啓発されます。そして、是非とも原典に目を通して、自分なりにもう少し思索を深めたいと思わせてもらえます。

昨晩寝床の中で、触発された言葉は「自然美は芸術美に勝る」と「芸術は自然のように見えるとき美しく、自然は芸術のように見えるとき美しい」というカントの思想です。

結構この何気ない言葉は、日本人にかなりわかりやすいというか、どの人も大なり小なり、この価値観を持っているように思われてしかたありません。

例えば絵画作品を飾るよりは、「眺めの良い窓のある家に住みたい」という気持ちがあるでしょうし、美術館を建てようとした時に、「自然環境が損なわれるという理由で反対運動が起きた」というようなことも、そういう価値判断が根底にあると思うのです。

一方で素晴らしい景色を見た時に、「わぁ、まるで◯◯の絵のようだ」と思うこともありますね。

だから、カントの言っていることは、すごくわかりやすいと感じてしまいます。

でもこの感覚のおかげで、切り落とされてしまう吟味というものがあるとも感じ、ちょっともの足りなさも感じてしまいます。おそらくカントの原典を紐解くと、もっと詳細に吟味されているでしょうし、そういうところを勉強しなければならないのかもしれませんけどね。

美術における「自然」としての「ピュリスム(純粋主義)」

これは私なりの経験を通して考えることなのですが、「神」「宇宙の原理」「自然」「無意識」「共通感覚」「天才」というような言葉は、実はあるひとつのことを視点を変えて違う言葉で言い当てているだけなんじゃないか、と漠然に感じています。

例えば「神」という言葉を「人間を超越した力」と置き換えると、それが「宇宙の原理」というものなのではないか、と思ったり、人間が自然のような存在である時に、「無作為」に事物を作り出し、それが自然と一体化した状態、すなわち「無意識」を使うことであり、その「無意識」部分は多くの人と繋がることのできる「共通感覚」であって、そのようにして生まれた作品が、時代や場所を問わない、普遍的に芸術と看做されるものなのではないかと思うからです。

そういうものを作れる人が「天から与えられた才能」「天才」とされるわけで、これは特殊な才能を持つごく限られた人間とする時代もあったのですが、近年は原始的な人々や子供の美術が着目されるようになって、純真無垢な存在こそに「自然」と同じような力強い美の発露があるのだという見方があると思います。

「美」とは何か?という問題になって来ますね。そのことでひとつ思い出す経験があります。美大生の時に母校の高校で教育実習をしたのですが、その時に鑑賞教育として「ヴィーナスの変遷」というテーマでスライドを70枚程用意して授業をしました。ヨーロッパの美術史に連なるヴィーナス表現の脈々たる流れ。それはそれは面白いのです。

う~ん。。。でもですね、担当の恩師が指導案の段階で「こんなに裸の作品ばかり見せちゃうと、思春期の特に女生徒にはどういう反応があるか、ちょっと心配(汗)僕は男だから、女生徒のデリケートな部分はわからないから」って、言われました(苦笑)。

「大丈夫です。私は女ですし、先生がされると抵抗があっても、私がやるなら平気っていうことあるんです。」と、妙に説き伏せてしまいましたが。若いときは今よりもっと強引でした(苦笑)。

この授業の主眼は、「ヴィーナスの主題はヨーロッパの美術表現における『美』という観念のアレゴリーである、ということを鑑賞を通して知り、美について洞察し、考えを深める」というものだったと記憶しています。

授業の最後に、アンケートをとりました。

「あなたにとってのヴィーナスつまり『美』とはどういうものですか?もしそれを絵画に表現するとしたらどのような作品になりますか?」

かなり熱心に生徒たちは優秀な意見を書いていましたが、中にひとつだけ今でも忘れられないものがありました。(実際、あとの大量のアンケートの答えは全く忘れてしまっています。余程、この答が印象的だったのでしょう。)

それは「私のヴィーナスは赤ちゃんです」という女生徒の意見でした。「姪がつい最近生まれて、こんなに素晴らしく、感動的な存在は他にはないと思ったからです」と理由が続きました。後は細かいことは忘れてしまったのですが。「純真無垢」という言葉が書かれていました(笑顔)。

確かに「赤ちゃん」は「神様からの授かりもの」とよく言われます。でもそういえば、ヴィーナスは赤ちゃんの姿で表現された例を私は知らないかもしれない。その時そのように感じて、強く印象が残っているのでしょう。

このようなピュリスムの影響が見られる芸術というのが、例えば1940年代のフランスの「アンフォルメル」の画家の一人、デュビュッフェのアール・ブリュット(Art Brut 生の芸術)と言えるでしょう。彼は、子供の純真無垢さから美術制作の原動力を引き出そうとしたわけです。

但しアンフォルメルですから、ヴィーナスの姿形は消えてしまうわけですけど。

あ、この部分は、教育実習当時の私には、まだ見えていなかった部分ですから、四半世紀も経ってから、この場を借りまして補足となります(苦笑)。

ハイデガー芸術論におけるキーワード「ピュシス(=自然)」

このピュリスムの根底には、ヨーロッパのギリシャ哲学の「ピュシス」という言葉があることを最近ハイデガーの著書から私が知ったことは、前にも書きましたが、それが「自然」という意味であったことに驚いています。そしてハイデガーは芸術におけるテクネーというのは、このピュシスによって、単なる職人のテクニックと一線を画すと見做しているのです。

これはおそらく、技術に振り回されるのではなく、それを我がものとした時に、無心に制作することとなり、そこから「自然」との経路が結ばれる、あるいは「自然」と一体化して作品が生まれることを意味しているのではないかと、私は勝手に解釈しています。

技術が自分の手足同様になる時、その時こそ「自然」が舞い降り、カントの言う「自然美は芸術美に勝る」を超越してしまう。ハイデガーの芸術は、カントの言うところの芸術をはるかに越えてしまっている概念のように思われてなりません。2つの区別がないと言っているようなものなんですから。

というか、ハイデガーはその区別のない概念がすでにギリシャ語の中にあるじゃないか、と言っているわけです。そこにハイデガー芸術論の力強さがあるんですねぇ!この部分が、芸術家にとってとても心強い。だからやっぱり私はハイデガーに戻って来ます。

ハイデガーはあまりわかりやすくカント流に芸術を断言しません。全ては繋がっているから、切り離せないのよ、と言うかのごとく。それをわかりやすいように説明すると、その時はすっきりした気になりますが、実は大切なことが抜け落ちてしまう。。。で、全貌がよくわからなくなってしまう。そこで、ふわふわとした言い方にならざるを得ないのでしょう。それだけにハイデガーの語り口は、私にはとても心地よいものになります。

というように、何だ、つまりぐにゃぐにゃ漠然とした感覚のようなものは、皆わかっているけど、それを格好良く言葉にしてしまうと、いろいろな言葉に惑わされて、本質がわからなくなってしまうのだから、黙って絵を描きましょうよ、ということもあるでしょうね。

そうそう、でも上手く言い表すことができたら、確かに素晴らしいし、感動するから、やっぱり哲学は面白いし、芸術ということを作品にするだけでなく、少しは言葉にして芸術を多くの人と共有する努力をしたい、と私は思っているところなのです(笑顔)。

追伸1:『芸術の哲学』と平行してリチャード・E.ルーベンスタイン著の『中世の覚醒』を読み始めました。これがめちゃくちゃ面白いです。これを機にアリストテレスの『形而上学』を読まないと、と思い始めました。そして、そう言えば、ハイデガーが『アリストテレス「形而上学」』を残しているではありませんか!全集の33巻です。早速、注文することにしました。そのうちジョルジョ・モランディの「形而上学絵画」について書いてみたいものです。

追伸2:ハイデガー・フォーラムの2012年の統一テーマは「自然と技術への問い」だそうです。今から楽しみです。

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ハイデガー芸術論『芸術作品の根源』『技術への問い』など

本日、鍵付き未公開のコメントを頂きました。ありがとうございます。 見ず知らずのお客様から、励ましのコメントを頂 Read More

アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』・ユング心理学

このところ、読みたい本が目白押し(笑)。

その本がまた、本当に面白いので、ブログに書かなくてはと思うものの、書き込む時間が惜しい程に読書に夢中になっています。

欲しい本はどれも高額なものばかりで、購入が間に合わず、ほとんど図書館から借りています。

一押しは、アンリ・エレンベルガー著『力動精神医学発達史 無意識の発見 上・下』。この本は、相模原市ウェルネスのライブラリーで、何気なく手にして読み始めました。

下巻にC.G.ユングの章があり、彼の生い立ちから、同時代の他の研究者との考え方の相違、その後の研究の波及、影響力まで細かに調べ上げられ、明快にテンポ良く述べられています。

ユング関係の本は、彼の自著を含めてこれまでに、かなり読み散らかして来ましたが、こんなに面白くユングの研究内容の全貌が上手にまとめられている本は、他に見当たらないように思います。

著者のエレンベルガーの名前は、この著書ではじめて知りましたが、このような地道でかつ重要な研究というものがあることを知り、感動すら覚えました。

また、翻訳には監修の木村敏をはじめ、沢山の方々が時間をかけ、心血を注いで出来た本と察せられ、ただただその地道な仕事に敬服するばかりです。

私がとりわけ興味を持ったのは、ユングのニーチェ作品から読み取るニーチェの精神分析の講義ノートの存在です。ユングの家族が保管している、かなりまとまった資料だそうです。残念ながら邦訳はされていないようなのですが、是非読みたいと思いました。

ユングは学生時代にニーチェの『ツァラトゥストラ』にどっぷりハマったそうです。わかる気がします。

そしてその研究の結論は、ニーチェの『ツアラトゥストラ』こそ、無意識の創造力から生まれたものであるというものでした。

しかし、ユングの凄いところは、『ツァラトゥストラ』を踏み台に、不適な笑みを浮かべて「無意識」の底から這い上がり、研究に立ち戻ったところです。これはニーチェが精神的崩壊に向かって行くことと対照的です。ここが文学と研究とを分ける立場の違いなのでしょう。

そしてとにかくユングの膨大な研究業績は、存命中に輝かしいものであったことも今回この著作から知ることができました。

私自身もこれまで、この「無意識」の創造力を活用して絵画を制作して来ています。私の制作には確かに「無意識」はとても大切なものですが、「無意識」の行動が多過ぎると社会的にはとてもやっかいなことになります。例えば、作品制作において「ついうっかりの失敗」がひとつの新しい展開のチャンスになるとしても、重要な仕事で失敗ばかりしていたら、周りに迷惑極まりないわけですから(苦笑)。

無意識を美術制作に活用する制作方法、手法はさまざまにあるのですが、そのことについてはまた別の機会にご説明しましょうね。ですからここはサラッと流します。

「無意識」は心理学の世界では精神分析を行う際に、注目されるわけですが、その分析や療法に芸術が活用されます。ユング派ではこの芸術療法として、箱庭療法やコラージュ療法等があって、私がワークショップをするときは、この手法を取り入れています。

これは私自身が昔し、ユングクラブの主催するコラージュ療法のワークショップに参加したことがあり、そこで「目から鱗」というような体験をしたことに由来します。

カウンセラーは一切分析をしないのです。クライアントが、自発的に自分をみつめ、何かに気付いていくのをただただ見守ります。

そして、コラージュの技法上の修練とか、美しさなどは全く問題外であることも新鮮でした。

あくまでも療法としての行為であって、芸術活動ではないことが前提なのです。

コラージュ療法は、「人間の無意識には、自分の問題を解決する答がちゃんと用意されている」そのことを信じて行われるのだ、とその時理解しました。そうそう身体にも自然治癒力があるようにです。

その時これは「美術鑑賞にも通じる極意」とも、感じたものでした。

写真をコラージュするという手法には、専門的な美術技能を持たない人でも、美術の作業の充足感、完成の達成感、自己を見つめ直し、何らかの気づきが期待できるツールなのです。そしてそれが美術鑑賞への関心につながる可能性もありますし、もちろん自分の内省に向かう人もあるわけです。

「無意識」の力は計り知れません。ということで、興味のある人は是非上巻もお勧めです。心理学以前に、人間は悩みや精神的な問題をどのように解決したか、そういうところからこの本は始まるのです。

文化人類学的な視点から祈祷や霊媒、呪術についてのさまざまな事例が紹介されていて、はっきり言って、不思議な研究書になっています(苦笑)。

日本の祈祷の風習等も紹介されていて、とにかく「よく調べてある」のです。

平行して読んでいるのは、グレゴリー・ベイトソン著『精神と自然 生きた世界の認識論』。

阿部ねり著『安部公房伝』等々。。。

買いたい本はライターズ・ジャーニー著『神話の法則』。

ついでにアンリ・エレンベルガー著『力動精神医学発達史 無意識の発見 上・下』も買って持っていたいものです。

そしてふと、この本の流れは。。。

「コンテクスト(脈絡)」ということと関係があるかもしれない、

と自己分析してみました。

だいたい私の場合は、何かの答をみつけるために、遠回りに本を読むことがあります。で、その本に必ず自分が読みたい答が書かれていることになっています。

自分の生き方の脈略、ストーリーの雛形のようなものを探している時期なのでしょう。

そうそう、孔子の言葉に四十にして「不惑」、五十にして「知命」云々、という言葉があるのを思い出しました。

私の「天命」とは?

その答を、今、知ろうとしているところのようです。

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マイケル・ジャクソンー美術との出会い

昨晩久しぶりに、TSUTAYAでDVDをレンタルして来ました。たぶん5年ぶりくらいかもしれません。ちょうど、5 Read More

ロランバルトの『明るい部屋 写真についての覚書』

昨日ロランバルトの『明るい部屋―写真についての覚書』がAmazonマーケットプレイスで売れましたので、早朝から梱包していました。ふと見ると、本のカバー裏表紙にこのような言葉が印刷されていました。

「マルバが息子の死によっていたく心を動かされていると、弟子たちの一人が言った。《師は常々、すべては幻影にすぎないとおっしゃっていたではありませんか?》と。マルバはこれに答えて言った。《しかり、されどわが息子の死は超幻影なり》と」(『チベットの道の実践』)

しまった、そんなこと本文に書いてあったんだろうか?としばし読み返してみました。この本は、「覚書」とあるように、とてもコンパクトなエッセイ・テイストの文章が集められていて、とても読みやすい本です。

あちこちに珠玉のはっ!とするようなバルトの言葉が散りばめられていまして、「写真ってどうして芸術なの?」とか、「写真と絵画って、どう違うの?どちらが優れているの?」というような素朴な疑問を持つ人に、なかなか含蓄深い「諭し」となるような内容になっています。

例えば、写真は俳句のようなところがあると指摘されていて、「なるほど」と深くうなずいてしまいました。私の頭には「古池や蛙飛び込む池音」の一句がよぎり。まさしく写真とはそういうものかもしれないと感じ入ります。

写真に残されているものは、誰でも見ようと思えば同じような状況は見慣れているし、古い写真が貴重だと言っても、それが印刷されて複製されて行くと、写真は絵画よりも唯一性の部分が脆弱です。

しかし、写真は、それをよく見つめる者に、現実よりもより客観的に注意深くその事象に注意を傾けさせ、より多くの情報や深い内容を読み取る場を提供してくれる力があります。

そして絵画特有の作家のキャラの強さが見る者にとって鼻につく場合があるとして、写真はその弊害を極力抑えてくれていて、そこはかとなく慎ましいからこそ、それがクールな良さとなっているのだ、と私などは個人的に思うのです。

松尾芭蕉の俳句にしても、何気ない自然のある一部分の現象を切り取って、簡素な言葉を残しているだけですが、そのことにより、無限の可能性を読む者に与え続けてくれています。

言わば読み手、鑑賞する側の創造する余地をたくさん残してくれる媒体が俳句であり、写真である、と言っても過言ではありません。

絵画もそういう部分を志向する仕事がありますね。ミニマルアートや抽象画の世界はかなりそこに接近している仕事なのです。

絵画よりも、より現実そのものの表皮を剥ぎ取るようなことのできる写真。しかしそれは現実そのものではありません。どれもすでに過去の記憶にすぎません。それでもそれに感動し、翻弄される人間。それは愚かと言えば愚かなことかもしれません。しかし、それをあたかも深刻な現実として人間は読み取りたいし、感じたいものなのです。

バルトが指摘するように、人間の信仰への衝動はこういうところから発するものかもしれません。人は信じてみたいものなのです。現実にしろ写真にしろ、これを幻影だと悟ることばかりが幸せとは限らないのです。そんな冷めた目で絵画や演劇、映画や写真、小説や漫画を見る人は、かえって不幸ですね(苦笑)。幻影だとはわかっているけど、それにびっくりしたり、感動することを人は喜び、そのように味わえる自分の能力を楽しんでいるものなのです。

これは人生そのものについてもよく言われることです。人生は舞台そのものかもしれません。ドラマチックに脚色して生きることが可能なのです。自分の人生を自分が描いているのです。誰かに操作されているわけではありません。自分なりの絵を自分が見ようと描いているものです。

さて結局上記の文章は、本文にみつけることができませんでした。しかし、写真ということを考えるとき、この文章はなかなか深い内容を考えさえてくれます。

さて、マルバって誰なんでしょうね?マルバは悲劇の主人公の象徴でしょうか。その文章の中で、自らが息子の死に悲しみ、それを幻影とは思えずに「超現実」があるのだと弟子に言い訳します。滑稽と言えば滑稽。しかし、人間の情というのは、まさしくこういうものを言うのでしょう。喜怒哀楽というものを豊かに味わう肉体から離脱したとして、それは豊かで幸せな人生と言えるでしょうか?泣きたい時に泣き、笑いたい時に大いに笑う。それでもどこか達観しているところがあるから恥ずかし気もなくケロッとして、明日を迎えられるのかもしれません。

芸術はどれも超現実をつくる人間の美しく豊かな営みです。

現実に翻弄され、自分を見失いそうになっている人にこそ、それを深く味わう一時が必要です。写真でも絵画でも演劇でも映画でも、お好きなものを是非。。。。

もちろん、写真についてもっと考えてみたい方は、ロランバルトの『明るい部屋―写真についての覚書』がお勧めです。

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メルロ=ポンティの絵画論における身体性

先日購入したフランスの哲学者メルロ=ポンティの芸術論を集めた『間接的言語と沈黙の声』は、芸術に関心のある人には、お勧めの良書です。

おそらく芸術関係の人は、余程の変態(笑)でない限り、手に取らないであろう、題名からは内容がわからない芸術関係図書が、結構あるものなのです。この本はその1冊です。なぜ単純に『芸術論』としないのか、さっぱり意図が掴めません。逆に芸術系はどうせ本を読まないから、消費者対象外とされているかもですよ。。。

知人曰く、「芸術に関しての本が売れないのは、たとえ素晴らしい内容が書いてあったとしても、それを読んだからといって、素晴らしい芸術を生み出せるわけではないから」ですって、なるほど、一つの真理かもしれません(苦笑)。

しかし、一方でさまざまな賢人が「思考が現実を実現化させる」という真理があるならば、一読の価値があるのではないかと、私などは純粋にそう信じて疑いません。

まだまだ世界には、隠され、埋もれた知恵が潜んでいて、それを必要な時に与えられるに違いないと、本を読み続け、見落としがないようにと祈りながら、この世界を見つめ続けるのです。

メルロ=ポンティの素晴らしい言葉を今日は一つだけご紹介致します。

余談ですが、私は、美大生にかつてこのメルロ=ポンティの『眼と精神』と『知覚の現象学2』をあげてしまい、先日『知覚の現象学1』を売ってしまったのですが、なぜか、この『間接的言語と沈黙の声』には、『眼と精神』が同じ木田元氏の訳で収録されていました。また読みなさい、という事なのでしょう。

『画家は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、<精神>が絵を描くなどということは、考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。』(『眼と精神』より)

この言葉を読むと、なぜかとてもホッとするのです。以前から、「自分は器であって、そこに入って来るものを絵にするのだ」というようなことをたびたび私は言って来ました。私という存在は、どこかとても頼りなく、弱々しく、何の確固たる信念などそもそもありません。

しかし、描きたいという衝動と、描くことで、自分のこの不確かな存在を確かなものとして味わいたい、という強い気持ちがあることは確かなのです。

自分を支える文化背景や生まれや育った環境などというものは、確かに自分の記憶の中に存在しますが、それはとても刹那的で、人類の普遍的なものとして取り出せるものは、ほんのわずかなものでしかないような気がしてなりません(このあたりに、仮の姿とか、身体を貸すというような概念に納得してしまうのです)。

それでも、それをひとつひとつ吟味して、自分の味として出す事は可能だとしても、それはどこまでも味であって、真理というような確かな手ごたえになるまでに、自分自身がそれを感受できるかどうか....、それがまた不確かなものなのです。

人の仕事を横目で見て、そういうことは客観的にはわかるのですが、自分のことは案外誰でも盲目的であったりします。

ですから、結局、自分が案外自分の表現の妨げになっているようなところがありまして、下手な判断をしない、無欲というか、判断をむしろ投げ出す、自然のなりゆきにゆだねる、という他手段がないことばかりなのです。そういう意味では脱力ということも大切です。

そういうと、その人の主体的な表現が全く無いのか、という話しになりますし、そんな脱力で意志薄弱な性質では、やはり絵は描けないですね。。。しかし、どんなに放り投げても、無欲になったつもりで、純粋無垢に絵を描いても、必ずその人そのものとしか思えないような一種の匂いと言うか、癖というものがあるから不思議です。そういうものが、取り出せるまで、絵を描くことがまず大切なのだと思います。

メルロ=ポンティの「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。」という言葉は、その癖とか匂いというのが、身体性と密接に関係していることを示唆してくれています。

先ほどの「思考が現実を実現化」するという言葉の「思考」もおそらく身体にもっと深く染み込む程の思考を言うのだと思うのです。単なる観念的な、概念やアイデアというもの以上の身体から湧き出る程の強い意志を持った思考、そういう力が、画家には必要なのです。

この思考は、ですから、頭でっかちな理屈のようなものではないですね。メルロ=ポンティのこの『眼と精神』を最初に読んだのは、今からちょうど20年程前のことになります。当時、禅や老荘思想について関心がある時だったので、この「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。」という文章の部分に「万物斉同」という状態?と、付箋にメモ書きして挟んだ記憶があります。

世界とひとつになったり、自分を世界に開くという境地、そのような状態で画家は普遍という境地をつかもうとするものだと思います。そこからその人が、天から与えられたものとしかいいようのない、啓示のようなものが与えられ、それによって独特の世界がつくられていくのではいか、と当時思ったものでした。それがやがて様式(スタイル)として次第に形成されて行くのでしょう。

先に様式があって、そこに自分をあてはめたり、無理に押し込めているような作品は、やはり、どこか無理があって、創る方も見る方もどこか窮屈なものです。

なんだかわからない、模索するような混沌とした中から、自然に生まれる、そういう熟成の時期を根気づよく待たなければなりません。

絵がその作家の唯一の絵になるまでには、長い年月を必要とします。そういう温かい目で、日本の社会が画家を育んでもらえる時代が待たれます。必ずそのようにして社会が育てた絵は、長い年月の後には、多くの人にアイデンティティや文化基盤として貢献する力となるはずなのですから。

若く画家を志す人たちが沢山います。しかし、多くは挫折し、社会のしがらみから自由になれず、才能があるにも関わらず、苦悩しながら断念してしまいます。出会った画家が身近にいるのであれば、是非温かな励ましや、見守り育む心を多くの人に持って頂ければと願ってやみません。

さて、絵は本当に奥が深く、汲めども尽きぬ泉のようです。あるいは底のない沼地であるかもしれません。そのそら恐ろしいような深淵に一人果敢に画家を貫き通す...、何の因果でしょうか(汗)、しかし、そのような途上にあって、先人は、道の先々に多くの糧を残してくれています。

最後に、メルロ=ポンティのこの本の「セザンヌの疑惑」から一文。
これはセザンヌの言葉です。

「彼らは絵を作っていたのだが、いまわれわれは、自然の一片を作ろうと試みているんだ。」

セザンヌは、そうしてこの見ず知らずの遠い日本の時代をはるかに超えた女性画家にも、そっと微笑み、「われわれは」と、語りかけてくれています。

私はこの言葉に励まされ、制作のあいまに、文章を綴らずにはいられなくなりました。

今日は、メルロ=ポンティをご紹介しながら、画家の世界を少しだけ垣間見て頂けたでしょうか(笑顔)。。。

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