舎利弗と目連の大絵画

昔し昔し、仲の良い二人がおりました。

これを仮に、仏の十大弟子のうちの舎利弗(シャーリプトラ)と目連(モッガラーナ)と致しましょう。

ある国の王が、仏の十大弟子でとても仲の良い二人と評判の、シャーリプトラとモッガラーナのことを伝え聞いて、国に招き寄せました。

「シャーリプトラとモッガラーナよ、あなた方の描く絵がたいそう素晴らしいという噂を耳にした。どちらがどれだけ素晴らしいか、その神通力の程を私と国中の者達に見せよ。」

そう国王は二人に申し付け、絵を描くためのとても大きく長い壁が二つ向き合っている部屋に通されました。

二人はその日から何日も何ヶ月も、その部屋に籠って、なかなか出て来ません。

心配になった王の使いの者が、その部屋を覗くと、シャーリプトラは、噂どおりの素晴らしい絵を描いていて、もういつでも完成しそうです。

ところが、モッガラーナときたら、掃除ばかりしていて、絵を描いているようには見えないのです。

「どうも噂とは少し様子が違うようでございます。実は...。」
従者はそう、国王に報告しました。

それから何ヶ月も過ぎて、ようやく二人は、その部屋から出て来ました。

国王は、従者を引き連れ、その部屋に入って行きました。

やはり、聞いていた通り、シャーリプトラの絵は、この世のものかと思う程の素晴らしいものでした。

しかし、モッガラーナに与えた壁は、相変わらず、ピカピカに磨いてあるだけで、何も描かれているように思えません。

不信に思って、「これはどうしたことだ?」尋ねました。

すると、モッガラーナは、国王をその部屋のある場所に導き、

「ここから二つの絵をご覧下さい。」と言ったのです。

国王は言われるがまま、その場所に立って部屋を見渡しました。

すると、どうでしょう!モッガラーナの壁にも絵が描かれているではありませんか!
それは、シャーリプトラの絵が、モッガラーナの壁に映り込んだものだったのです。

モッガラーナは、壁を鏡のように磨き上げていたのでした。

そして二つの壁が一つに繋がって、荘厳な大絵画となって、目の前に広がったのです!

国王は、この二人の神通力の噂が本当であったと感服し、国をあげて仏法に帰依することを決意したのでした。

お話し、おしまい。

絵を描くということは、どういうことでしょう?

何を伝えるために、私たちは描くのでしょう?

それは見る人に伝わっているのでしょうか?

見る人は絵に何を見たいのでしょう?

このお話しを、思い出す度に、絵を描くこと、友情、感動とは何かを、考えさせられます。

追伸:この話しは昔しに、人から聞いた話しなので、出典がわかりません。ご存知の方はおしえて下さい。

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日々の思索

ハイビスカスが、次々と赤い花を開いています。
ねじれて咲く花は、1日限りの命。
花からも生き様というものを考えさせられます。

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制作の毎日は、淡々と同じことの繰り返しなのですが、
その単調な作業を支えるものが、自分の信念であったり、
強い衝動、情熱というような、わけのわからない想念であったりします。

このようなわけのわからない想念というのは、ではどこから来るかというと、
過去の自分の生き様と言えるかもしれませんが、
こと芸術という普遍的な仕事に常に身を置いていますと、
個人の枠だけでの経験ではどうにもこうにも問題になりません。

恋愛とか、巷の刹那的な人間模様のようなものは、
小説や文学作品にはなり得ても、
美術作品の存在を根底から支えるものにはならないものです。

もっと普遍的なテーマでないと、長く多くの人の目に耐えうるものにならないからです。

ですから、アウトプットばかりでなく、インプットも大切なのです。
私の場合は、「画家は万巻の書を読み、万里の道を行く」という言葉に従って、
読書と旅行は欠かせません。

今年は既に、山形と京都へ旅行しました。
遠く離れた場所に、話しを聞いてみたいという人がいるということは、
とても素晴らしいことです。
自分の存在がいかに限られ小さなものであるかを思い知ります。
また、その土地にしかない空気を五感で捉え、身体に刻むことは、
大きな制作の糧になります。

旅は空間に向かって自己を広げて行くような経験と言えましょう。

そして、今夢中になって読んでいるのが、哲学書です。
私には、『哲人』と尊敬する人がいて、
その人と出会い、親交を深めながら、これまで枯渇していた哲学の世界が、
突然豊かに広がり始めたのです。

最近は、ハイデガー『野の道での会話』、ベイトソン『精神の生態学』、
ユング『赤の書』、道元『正法眼蔵』、『ウパニシャッド』、
マルチン・ブーバー等々を時々の気分で読み散らかしています。
ハイデガーの全集は102巻あるので、
これから死ぬまで毎日読み続けていくのが楽しみです。

わからないながらも、ほんのわずかな休息の時間に、
文章をひとつひとつ丁寧に味わって読む時間は、
他に代わるものが考えられないくらいに、尊く気高い時間に思えます。
そして、その集中する時間はそう長くは続かないのですが、
集中の途切れた時に、急に沸き上がって来る何ものかがあったり、
ごく簡単なたわいもない一文が、大きな発見や感動のツボにはまって、
涙すら流れて来ることがあります。。。変人ですね(苦笑)。

テレビを売り、まったくラジオを聞かず、喧噪から離れた生活をしていますと、
このようなことが日常のことになって、
時間や自己というものを超越して生きている自分があります。
それらの哲学の内容が、直接制作の糧になるということではなくて、
そのような時間を生きることが、
芸術という時間を超越して存在するものを生み出す原動力になると思うのです。
哲学書を読むことで、
時間や個の存在を超越した自己、
というものを認識する
、かけがえのない時間となるのです。

この世界は、人の情という部分からは、かなり遠い場所にあります。
音楽は限られた時間の中で情緒や情感に訴える即効力がありますが、

美術は永遠に続く普遍的な世界を扱うために、
人間の存在を強く押し上げて行くような、
じわじわと長く続く力強さがあるものなのです。

私自身の作品にも、そのような力を注ぎ込むことが大切なのです。

ですから、美術作品は、時間を忘れて作品を観ることが出来たり、
時間をずっと経った後から、その存在の意味がわかるということが起きます。
そういう時には、圧倒的な感動で、
自己の存在や見ている世界をも、全く変えてしまうということが起きるのです。
「何てつまらない概念に自分は縛られて、世界を見ていたのだろう?」というような。。。

少なくとも、私は美術を長く愛して見て来た経験に、
幾度となくそのような経験を持つことが出来たために、
今こうして画家である、ことになったのかもしれません。


その人が日常考えていることが、その人そのものであり、
そのつくるものも、その人そのものなのです。

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蔵王へ

蔵王の樹氷を見に、旅に出ました。

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山に囲まれて思う。
山は遥か遠くにあるのではない。

空がますます蒼くなり、山はしだいに迫り来る。
かつて爆発し、切り立った山は、なだらかになろうと今も動く。

山でさえ、土に還りたがる。
空に向かうのではない。底の方へ、奥底へと踏み込んで行く。
雲が乱れ、散り、流れゆく。山は黙し、ただそこに在る。

山が流れ、雲が不動になるは、如何なることか。。。
風に乗り、山を見下ろし、時も我も忘れて主客併せ持ち、
自在に宙(そら)を遊ぶこと。


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若狭美浜へ

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新作『震生』を展覧会に出品しているため、10月24日、福井県の美浜を訪ねました。秋の花が咲く駅周辺の線路沿いを歩き、浜まで約15分。若狭の海は、とても静かで穏やかでした。

前日の23日は、午前中に永平寺、午後からは養浩館庭園を訪ねました。私の中では、福井というと、この道元禅師の開いた永平寺と、現代美術作家のフルクサス運動や虹の作家として有名な靉嘔氏を思い起こします(茨城出身のようですが、福井に支援者が多く、福井県立美術館で大きな回顧展がされたことがあります)。そして、両者は私の中で矛盾が無く、ひとつのものとなっています。このような文化に憧れ、土地を訪れることで、少しでもその文化の息吹を感じ取って帰りたいと思いました。

福井市立郷土歴史博物館で、松平家の歴史を学び、隣接する養浩館庭園を訪ねました。福井からは土地の人のアイデンティティを支えるような人物が輩出されていて、歴史的なバックボーンの強さを感じます。養浩館庭園は、福井藩主松平家の別邸で、書院建築と回遊式林泉庭園は江戸中期を代表する名園として知られ、国の名勝に指定されています。夜8時まで開園されていたので、夜の庭園を楽しみました。雨が水面を叩く音に心が洗われるようでした。語り部さんが、書院造りの詳細をプライベートに案内して下さり、加賀や京とはひと味もふた味も異なる、武家の『わび』や『さび』の文化を垣間み、福井がますます好きになりました。

いろいろな人のお力で、よい旅となりました。心から感謝申し上げます。

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