サマセット・モーム『人間の絆』・アラベスク模様・草間弥生展

昨年を表わす漢字は『絆』でした。ラジオで未だに、この言葉を耳にする時、私が思い起こすのはフランス生まれのイギリス育ち、そしてロシア革命時には、イギリス情報局秘密情報部で情報工作員でもあったとされるサマセット・モームの『人間の絆』という小説です。10年程前に英語本の多読にハマっていた頃に、この人の小説やエッセーに夢中になりました。私が小説を読むというのは、滅多にないことなので、余程ツボに入ったということになります。

この『人間の絆』は、モームの自伝的な小説で、自らの不幸な生い立ちが題材となっているのですが、主人公フィリップを通して、彼独自の実存的な人生観が描かれ、深く心に染み入る作品です。巻末の翻訳者の中野好夫氏の解説に「柳は緑、花は紅と、われわれはここで付け加えたいところであろうか。それとも幸福の否定において、寂滅(ニルヴァーナ)の幸福に達したといえようか。...」という文章から仏教的な人生観を読み取り、いわゆる大衆小説を超えた深い死生観に、ため息をついたものでした。

しかしモームの小説自体には、仏教的な用語は使われてはいなくて、その代わりに「ペルシャ絨毯の模様」という言葉になっています。原文には確か、patern of arabesqueと書かれていたと記憶しています。その意味するところは、人間の人生模様というようなものは、意図してその個人が創造するというようなそのような狭い規模の問題ではなく、生きとし生きるものが、複雑にアラベスクの模様のように絡み合い、どこをどう切り離そうと、自分が意図してそのようになった部分など見極められるものではない、むしろさまざまな関係性の中で、それがそのように生きる以外なかったのだ、というような諦めの境地を、このアラベスク文様に託して語られているのです。

モームの中では、おそらくペルシャのアラベスク文様は、無意味、無個性、パターン化の象徴なのでしょう。人は創造的に自分らしい生き方をしようと苦悩する、しかしそうしようとすればする程、自分の無力さと、愚かさを思い知るばかりです。そして、なぜそのように生きなければならないのか、と自問しても、それはただそういう運命であったとしか言えないことばかりです。

「人生に意味などは、なにもないのだ。宇宙を突進している一恒星の、そのまた一衛星にすぎないこの地球上に、この遊星の歴史の一部である、或る種諸条件が揃った時、それによって、生物はただ偶然に生まれたのであり、したがって、他の或る種条件が揃えば、それは永久に消えてしまうだろう。人間とても、他のもろもろの生物と同様、無意味な存在にすぎないことは、すこしも変わりなく、創造の頂点として生れたものなどでは決してない。ただ環境への物理的反応として現われたものにすぎぬ。」(モーム『人間の絆』)

しかし、この諦めが決して深刻な二ヒリズでは終わらないのです。そこが、所謂ニーチェ的なニヒリズムと仏教的な虚無感の匂いを嗅ぎ分けられる、モーム小説の大衆小説に徹した力強さ、真骨頂と言えましょう。

「もし生が無意味だというならば、世界はその残忍性を剥奪されたも同様だった。彼がしたこと、し残したこと、いずれもみんな無意味なのだ。失敗も無ければ、成功も無。彼自身は、この地球の表面に、ほんの束の間存在し消える夥しい人間群の中の、最も小さい生き物にしかすぎないのだ。しかも混沌から、その虚無の秘密を探りとった彼は、その故にまた全能者でもあるのだ。彼は躍り上がって歌い出したくなった。....ひっきょう人生は、一つの模様意匠にすぎないと、そう考えてよいのだ。特にあることをしなければならないという意味もなければ、必要もない。ただすべては、彼自身の喜びのためにすることなのだ。行動といい、感情といい、人生の錯雑した、さまざまの事実の中から、人は精巧、整斉、複雑、華麗、それぞれの好みの意匠を織りなしてゆけばよいのだ。」(モーム『人間の絆』)

このような諦めからの逆転的な発想が、この小説の『人間の絆』という題名の「絆」に込められています。昨今の日本で使われている「絆」とは、かなり異なる内容なのです。「絆」という言葉に某かの違和感を感じている方は、是非この文字の理解のためにも、お勧めの1冊です。

さて、私はちょうど10年前の2002年に『BIO-ARABESQUE』(227.5x145cm)という作品を制作しました。偶像崇拝をしないイスラーム文化の美術表現と抽象表現とはどこか地下の経路で繋がるものを感じていたこともあり、ペルシャンブルーを基調とした絵具層をスクラッチし、模様と絵画の境界を探るようにして制作したのでした。この作品はその後、2002年に女子美アートミュージアムの企画グループ展『絵になる瞬間』展に出品し、そのまま女子美術大学の所蔵になったのでした。

抽象と模様とは、絵画の上で際どい問題を露呈させます。私はよく「模様のような絵ですね」と、よい意味で親しみをこめて感想を寄せて下さる人が多く、その言葉に戸惑いながらも、しかし冷静にそれについて考え続けて来ました。常に模様と風景と抽象の狭間で葛藤し、答をハッキリさせずに立ち止まり、ある時は思い切って失敗をしてみます。その立ち止まりと失敗こそに、新しい世界が見えて来る瞬間があるからです。「模様」と言われるときの、何らかの後ろめたさとは一体何なのか、人々が風景を見て喜び、安心しようとする。その心のよりどころを分ちようとする反面で、冷たく引き離し芸術に立ち向かう姿勢は、厳しく、孤独で、身が引き離されそうになることもあるのです。しかし勇気を持って前を向き、再び姿勢を正すのです。

画家として生きて行くことは、時に辛苦を味わい、矛盾に苦悩し、人生に迷い翻弄されます。ここ数年、とりわけ震災後、私は「もう画家であることを止めよう」と何度思ったことでしょう。しかしその問いは常に、いわゆる人としての「正しさ」の判断が、いかに愚かで手ぬるいものかを味わされるだけでした。人のためにとか、正しさを見せる、というようなことなど、所詮私の力の及ぶ事ではなかったのです。私は、筆を持ちカッターナイフで絵具を削るという方法でしか、満足に自分を活かす方法がないのだと、やっと気づくことができました。

昨日は、往復高速バスで大阪の国立国際美術館の『草間弥生 永遠の永遠の永遠』を見て来ました。私としてはむしろ同時開催のコレクション展に、心励まされ帰って来たと言えるかもしれません。コレクション展は、国立国際美術館が所蔵している女性作家の作品を中心に構成されていました。海外では、キキ、ブリジット・ライリーやウングワレー、国内では辰野登恵子、松本陽子、町田久美、内藤礼、高柳恵里、風間サチコ等。このようにまとめて良質な小品を見たのは初めてだったかもしれません。本当に楽しむ事が出来ました。でも、草間弥生のもっとずっと初期の作品を見たかったのですが、それがニューヨーク時代のネット作品止まりだったのは、かなり残念でした。草間弥生の長野時代の作品には、胸にぐっと来るものがあるのです。それが何なのか、ずっと知りたいと思っています。松本に行けば何かわかるのでしょうか?

女性がその一生を芸術に捧げることができるようになるのには、太古の昔から連綿と続く沢山の女性の少しずつの勇気と努力の積み重ねの果てにあるのです。けっして一人の女性作家の力のみでは、成し得なかったことです。それらの大いなる力に深く感謝し、その感謝を作品に還元して行かなければならないと決意したのでした。

ここでお知らせです。

4月7日(土)~6月3日(日)
横須賀美術館所蔵品展「横須賀・三浦半島の作家たち」にて下記作品が展示予定です。
『sea and stone 硯海』2006年作 227x91cm4枚組

kaneko2006展示風景

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新地にて

音無く降る雪 昼に消え 夕から結露 凍る窓硝子 Read More

近代について

先日東京駅の丸善でチャールズ・テイラーの著作『自我の源泉 近代アイデンティティの形成』『〈ほんもの〉という倫理 近代とその不安』『近代 想像された社会の系譜』『今日の宗教の諸相』を購入しました。丸善には、読書テーブルのコーナーがあって、重たい本を立ち読みしなくてもよいようなサービスがあるのですが、残念ながらその日も、満席でした。いつもなんですけどね。それもほとんどの人が、休憩か居眠りをしているようにしか見えない。いや、もしかしたら「全部買いなさい」ということかもしれないと、その時勝手に判断し、全部買うことにしたのでした。本当はセレクトして買おうと思ったのですが(言い訳)。

本は1冊ではそれ程重いと思ったことはないのですが、数冊になると最近は無理せずに宅急便を使うようにしています。丸善のレジで配送サービスがあるかどうか尋ねてみましたら、何と「1万円以上のお買い上げは送料無料」だそうです。聞いてみるものですね。早速無料で配送をお願いしました。いつからそうなったのでしょうか?これまで随分重い思いをして来ましたが、あれは何だったのでしょうか(苦笑)?ま、深く考えるのはよしましょう。このようなお得な情報は、最近はそれを必要とする人にしか伝わらないようになっています。プロバイダー契約も、ネットからするとプリンターが貰えたり、契約金が安くなったりする時代ですからね。

話が少し脇道にそれましたが、チャールズ・テイラーの本を、それ以来、同時並行して読んでいます。この著作者のことはこれまで全然知らなかったのですが、とても読みやすい文体なのでお勧めです。これまで「近代美術」と言う時と「現代美術」という用語を使う時のニュアンスの違いについて、ずっと違和感とか、疑問を抱いて来たので、このテーラーの本から「近代」とはどういう概念かが少しずつ明確になって行き、こんがらがった糸の綾が解され、少し柔らかくなっていくような感覚があります。

まだどれも途中までしか読んでいないのですが。やはり「私たちはまだ近代という概念の中に生きている」ということを、当たり前のことですが、再確認することができました。近代と現代とを一本の線上の延長として横並びに結びつけている人が結構居て、そういう認識にずっと疑問を持ち続けていました。つまり「近代美術って、現代美術以前のアートでしょ?」というような意識です。確かに、最近世界的にあちこち「現代美術館」という名称の建物が立つようになったので、いかにもそれが新しい美術の発信源という感じがしてしまいます。確かにそれは全くの間違いではないのですが、やはり認識としては不十分なような気がします。

私たちは、近代に生きているという場合のこの「近代」は、歴史的な位置づけをした上での認識なのですが、「現代」とはこの歴史的な土台から遊離されている感覚があります。例えば現代美術でいえば、とにかく最先端技術を使ってみたとか、これまでの脈絡に関係なく、突発的に趣向の変わったものが出て来た、という内容になるのです。それがいいかどうかとか、評価に値するかどうか、という考察は全く意味をなしません。なぜなら、歴史に切り離されていること自体が重要だからです。もし歴史に裏打ちされていれば、それは「近代」のカテゴリーに含まれることになるわけです。評価は必ず時代という考察なしにはあり得ないわけで、そういう意味で「現代美術」はそもそも評価をすることのできないものなのです。

そしてその「現代美術」も10年も経てばもはや「現代」とは言えなくなってしまいます。そこで多くは消え去るものです。ただリアルタイムで「近代」的な位置付けがすぐにはわからない形で、暗に仕込まれていた場合、突如としてそれに気付いた人によって「近代」の脈絡で評価され、それが歴史的に重要な遺物として残されて行く。そういうものなのではないでしょうか。

今のところチャールズ・テイラーの著作に、そういうようなことは全然書かれていないのですが、読みながら、「そういうこと書いてないかしら?」と探しながら読んでいる自分があります。

さて、丸善に行った日は、その足で東京国立近代美術館の「ポロック展」を見に行きました。あまりに有名ですし、数年前にニューヨークのグッゲンハイム美術館でペーパーワーク展を見て、良い作品を堪能できましたから、今更見に行くかどうかということも感じなくもなかったのですが、そういう時に限って後から後悔するものですからね。やはり見に行くことにしました。結果、やはり見て良かったと思います。初期の珍しい作品がたくさんありました。ポロックらしい作品しか知らない人は、きっと目に鱗でしょう。久しぶりに展覧会カタログも購入して、内容がとても充実していて満足でした。特に「具体美術協会とジャクソン・ポロック」については、わくわくしながら読めました。

ところで、その日は予定していたバスに乗り遅れ、相模原の東横インに1泊してしまいました!そうそう、最近引越しをしたのです。でも結局これまでの生活とそれ程違いもないので、まだほとんどの人にそのことはお知らせしていません。引越しをした理由もいろいろな理由を言い当てることも出来ますが、一番の理由は、「どこに住んでも同じだから」です。たまたま住んで見たくなるような物件との出会いがあり、これまでの相模原の生活に終止符を打つことになりました。

「地震の影響ですか?」と聞く人もいるのですが、日本中というか世界中のあちこちで頻繁に地震があり、世界のどこに行っても、安全な土地などどこにもありません。画家にとっては、どこでもサバイバルな人生です(笑)。たとえ筆が無くても、キャンバスが無くても、画家は絵を描き続き続けます。絵とは何か?
……人生そのものが絵であり、夢であり、希望なのです。

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相模原の樹氷

今朝、相模原でも樹氷が見れました。 山形まで樹氷を見に旅したことは、もう2年前のこと。 今この時を待てば、樹氷はすぐ近くに見られたものを。。。(苦笑)。 相模原の樹氷は、暖かな日差しを受けて、一瞬で姿を消しました。 その Read More

ハイデガー芸術論の「ピュシス(=自然)」

今回は、ハイデガー芸術論の「ピュシス(=自然)」について私なりに考えていることを書いてみたいと思います。

カント哲学の「芸術美」と「自然美」

ちょっと遠回りのようですが、渡邊二郎著の『芸術の哲学』の第13章「カントの判断力批判」を読んでいて、とても触発されましたので、ここから文章をはじめたくなりました。

カント哲学については、これまでカント先生は誰からも慕われていた希有な哲学者であった、くらいの知識と、父の書斎にあったカント全集を実家の引っ越しの際に、手放してしまったことをたまに悔やむくらいでしょうか。原典を読んでみようという気は、これまで全くありませんでした。

渡邊氏の著作のような、芸術哲学のダイジェスト版のような著作があると、さまざまな角度から芸術を考えるきっかけとなり、とても啓発されます。そして、是非とも原典に目を通して、自分なりにもう少し思索を深めたいと思わせてもらえます。

昨晩寝床の中で、触発された言葉は「自然美は芸術美に勝る」と「芸術は自然のように見えるとき美しく、自然は芸術のように見えるとき美しい」というカントの思想です。

結構この何気ない言葉は、日本人にかなりわかりやすいというか、どの人も大なり小なり、この価値観を持っているように思われてしかたありません。

例えば絵画作品を飾るよりは、「眺めの良い窓のある家に住みたい」という気持ちがあるでしょうし、美術館を建てようとした時に、「自然環境が損なわれるという理由で反対運動が起きた」というようなことも、そういう価値判断が根底にあると思うのです。

一方で素晴らしい景色を見た時に、「わぁ、まるで◯◯の絵のようだ」と思うこともありますね。

だから、カントの言っていることは、すごくわかりやすいと感じてしまいます。

でもこの感覚のおかげで、切り落とされてしまう吟味というものがあるとも感じ、ちょっともの足りなさも感じてしまいます。おそらくカントの原典を紐解くと、もっと詳細に吟味されているでしょうし、そういうところを勉強しなければならないのかもしれませんけどね。

美術における「自然」としての「ピュリスム(純粋主義)」

これは私なりの経験を通して考えることなのですが、「神」「宇宙の原理」「自然」「無意識」「共通感覚」「天才」というような言葉は、実はあるひとつのことを視点を変えて違う言葉で言い当てているだけなんじゃないか、と漠然に感じています。

例えば「神」という言葉を「人間を超越した力」と置き換えると、それが「宇宙の原理」というものなのではないか、と思ったり、人間が自然のような存在である時に、「無作為」に事物を作り出し、それが自然と一体化した状態、すなわち「無意識」を使うことであり、その「無意識」部分は多くの人と繋がることのできる「共通感覚」であって、そのようにして生まれた作品が、時代や場所を問わない、普遍的に芸術と看做されるものなのではないかと思うからです。

そういうものを作れる人が「天から与えられた才能」「天才」とされるわけで、これは特殊な才能を持つごく限られた人間とする時代もあったのですが、近年は原始的な人々や子供の美術が着目されるようになって、純真無垢な存在こそに「自然」と同じような力強い美の発露があるのだという見方があると思います。

「美」とは何か?という問題になって来ますね。そのことでひとつ思い出す経験があります。美大生の時に母校の高校で教育実習をしたのですが、その時に鑑賞教育として「ヴィーナスの変遷」というテーマでスライドを70枚程用意して授業をしました。ヨーロッパの美術史に連なるヴィーナス表現の脈々たる流れ。それはそれは面白いのです。

う~ん。。。でもですね、担当の恩師が指導案の段階で「こんなに裸の作品ばかり見せちゃうと、思春期の特に女生徒にはどういう反応があるか、ちょっと心配(汗)僕は男だから、女生徒のデリケートな部分はわからないから」って、言われました(苦笑)。

「大丈夫です。私は女ですし、先生がされると抵抗があっても、私がやるなら平気っていうことあるんです。」と、妙に説き伏せてしまいましたが。若いときは今よりもっと強引でした(苦笑)。

この授業の主眼は、「ヴィーナスの主題はヨーロッパの美術表現における『美』という観念のアレゴリーである、ということを鑑賞を通して知り、美について洞察し、考えを深める」というものだったと記憶しています。

授業の最後に、アンケートをとりました。

「あなたにとってのヴィーナスつまり『美』とはどういうものですか?もしそれを絵画に表現するとしたらどのような作品になりますか?」

かなり熱心に生徒たちは優秀な意見を書いていましたが、中にひとつだけ今でも忘れられないものがありました。(実際、あとの大量のアンケートの答えは全く忘れてしまっています。余程、この答が印象的だったのでしょう。)

それは「私のヴィーナスは赤ちゃんです」という女生徒の意見でした。「姪がつい最近生まれて、こんなに素晴らしく、感動的な存在は他にはないと思ったからです」と理由が続きました。後は細かいことは忘れてしまったのですが。「純真無垢」という言葉が書かれていました(笑顔)。

確かに「赤ちゃん」は「神様からの授かりもの」とよく言われます。でもそういえば、ヴィーナスは赤ちゃんの姿で表現された例を私は知らないかもしれない。その時そのように感じて、強く印象が残っているのでしょう。

このようなピュリスムの影響が見られる芸術というのが、例えば1940年代のフランスの「アンフォルメル」の画家の一人、デュビュッフェのアール・ブリュット(Art Brut 生の芸術)と言えるでしょう。彼は、子供の純真無垢さから美術制作の原動力を引き出そうとしたわけです。

但しアンフォルメルですから、ヴィーナスの姿形は消えてしまうわけですけど。

あ、この部分は、教育実習当時の私には、まだ見えていなかった部分ですから、四半世紀も経ってから、この場を借りまして補足となります(苦笑)。

ハイデガー芸術論におけるキーワード「ピュシス(=自然)」

このピュリスムの根底には、ヨーロッパのギリシャ哲学の「ピュシス」という言葉があることを最近ハイデガーの著書から私が知ったことは、前にも書きましたが、それが「自然」という意味であったことに驚いています。そしてハイデガーは芸術におけるテクネーというのは、このピュシスによって、単なる職人のテクニックと一線を画すと見做しているのです。

これはおそらく、技術に振り回されるのではなく、それを我がものとした時に、無心に制作することとなり、そこから「自然」との経路が結ばれる、あるいは「自然」と一体化して作品が生まれることを意味しているのではないかと、私は勝手に解釈しています。

技術が自分の手足同様になる時、その時こそ「自然」が舞い降り、カントの言う「自然美は芸術美に勝る」を超越してしまう。ハイデガーの芸術は、カントの言うところの芸術をはるかに越えてしまっている概念のように思われてなりません。2つの区別がないと言っているようなものなんですから。

というか、ハイデガーはその区別のない概念がすでにギリシャ語の中にあるじゃないか、と言っているわけです。そこにハイデガー芸術論の力強さがあるんですねぇ!この部分が、芸術家にとってとても心強い。だからやっぱり私はハイデガーに戻って来ます。

ハイデガーはあまりわかりやすくカント流に芸術を断言しません。全ては繋がっているから、切り離せないのよ、と言うかのごとく。それをわかりやすいように説明すると、その時はすっきりした気になりますが、実は大切なことが抜け落ちてしまう。。。で、全貌がよくわからなくなってしまう。そこで、ふわふわとした言い方にならざるを得ないのでしょう。それだけにハイデガーの語り口は、私にはとても心地よいものになります。

というように、何だ、つまりぐにゃぐにゃ漠然とした感覚のようなものは、皆わかっているけど、それを格好良く言葉にしてしまうと、いろいろな言葉に惑わされて、本質がわからなくなってしまうのだから、黙って絵を描きましょうよ、ということもあるでしょうね。

そうそう、でも上手く言い表すことができたら、確かに素晴らしいし、感動するから、やっぱり哲学は面白いし、芸術ということを作品にするだけでなく、少しは言葉にして芸術を多くの人と共有する努力をしたい、と私は思っているところなのです(笑顔)。

追伸1:『芸術の哲学』と平行してリチャード・E.ルーベンスタイン著の『中世の覚醒』を読み始めました。これがめちゃくちゃ面白いです。これを機にアリストテレスの『形而上学』を読まないと、と思い始めました。そして、そう言えば、ハイデガーが『アリストテレス「形而上学」』を残しているではありませんか!全集の33巻です。早速、注文することにしました。そのうちジョルジョ・モランディの「形而上学絵画」について書いてみたいものです。

追伸2:ハイデガー・フォーラムの2012年の統一テーマは「自然と技術への問い」だそうです。今から楽しみです。

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ハイデガー芸術論『芸術作品の根源』『技術への問い』など

本日、鍵付き未公開のコメントを頂きました。ありがとうございます。 見ず知らずのお客様から、励ましのコメントを頂くと、ブログを長く書いて来て、本当に良かったと実感します。 自分の作品のことはあまりうまく書けないものですから Read More

アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』・ユング心理学

このところ、読みたい本が目白押し(笑)。

その本がまた、本当に面白いので、ブログに書かなくてはと思うものの、書き込む時間が惜しい程に読書に夢中になっています。

欲しい本はどれも高額なものばかりで、購入が間に合わず、ほとんど図書館から借りています。

一押しは、アンリ・エレンベルガー著『力動精神医学発達史 無意識の発見 上・下』。この本は、相模原市ウェルネスのライブラリーで、何気なく手にして読み始めました。

下巻にC.G.ユングの章があり、彼の生い立ちから、同時代の他の研究者との考え方の相違、その後の研究の波及、影響力まで細かに調べ上げられ、明快にテンポ良く述べられています。

ユング関係の本は、彼の自著を含めてこれまでに、かなり読み散らかして来ましたが、こんなに面白くユングの研究内容の全貌が上手にまとめられている本は、他に見当たらないように思います。

著者のエレンベルガーの名前は、この著書ではじめて知りましたが、このような地道でかつ重要な研究というものがあることを知り、感動すら覚えました。

また、翻訳には監修の木村敏をはじめ、沢山の方々が時間をかけ、心血を注いで出来た本と察せられ、ただただその地道な仕事に敬服するばかりです。

私がとりわけ興味を持ったのは、ユングのニーチェ作品から読み取るニーチェの精神分析の講義ノートの存在です。ユングの家族が保管している、かなりまとまった資料だそうです。残念ながら邦訳はされていないようなのですが、是非読みたいと思いました。

ユングは学生時代にニーチェの『ツァラトゥストラ』にどっぷりハマったそうです。わかる気がします。

そしてその研究の結論は、ニーチェの『ツアラトゥストラ』こそ、無意識の創造力から生まれたものであるというものでした。

しかし、ユングの凄いところは、『ツァラトゥストラ』を踏み台に、不適な笑みを浮かべて「無意識」の底から這い上がり、研究に立ち戻ったところです。これはニーチェが精神的崩壊に向かって行くことと対照的です。ここが文学と研究とを分ける立場の違いなのでしょう。

そしてとにかくユングの膨大な研究業績は、存命中に輝かしいものであったことも今回この著作から知ることができました。

私自身もこれまで、この「無意識」の創造力を活用して絵画を制作して来ています。私の制作には確かに「無意識」はとても大切なものですが、「無意識」の行動が多過ぎると社会的にはとてもやっかいなことになります。例えば、作品制作において「ついうっかりの失敗」がひとつの新しい展開のチャンスになるとしても、重要な仕事で失敗ばかりしていたら、周りに迷惑極まりないわけですから(苦笑)。

無意識を美術制作に活用する制作方法、手法はさまざまにあるのですが、そのことについてはまた別の機会にご説明しましょうね。ですからここはサラッと流します。

「無意識」は心理学の世界では精神分析を行う際に、注目されるわけですが、その分析や療法に芸術が活用されます。ユング派ではこの芸術療法として、箱庭療法やコラージュ療法等があって、私がワークショップをするときは、この手法を取り入れています。

これは私自身が昔し、ユングクラブの主催するコラージュ療法のワークショップに参加したことがあり、そこで「目から鱗」というような体験をしたことに由来します。

カウンセラーは一切分析をしないのです。クライアントが、自発的に自分をみつめ、何かに気付いていくのをただただ見守ります。

そして、コラージュの技法上の修練とか、美しさなどは全く問題外であることも新鮮でした。

あくまでも療法としての行為であって、芸術活動ではないことが前提なのです。

コラージュ療法は、「人間の無意識には、自分の問題を解決する答がちゃんと用意されている」そのことを信じて行われるのだ、とその時理解しました。そうそう身体にも自然治癒力があるようにです。

その時これは「美術鑑賞にも通じる極意」とも、感じたものでした。

写真をコラージュするという手法には、専門的な美術技能を持たない人でも、美術の作業の充足感、完成の達成感、自己を見つめ直し、何らかの気づきが期待できるツールなのです。そしてそれが美術鑑賞への関心につながる可能性もありますし、もちろん自分の内省に向かう人もあるわけです。

「無意識」の力は計り知れません。ということで、興味のある人は是非上巻もお勧めです。心理学以前に、人間は悩みや精神的な問題をどのように解決したか、そういうところからこの本は始まるのです。

文化人類学的な視点から祈祷や霊媒、呪術についてのさまざまな事例が紹介されていて、はっきり言って、不思議な研究書になっています(苦笑)。

日本の祈祷の風習等も紹介されていて、とにかく「よく調べてある」のです。

平行して読んでいるのは、グレゴリー・ベイトソン著『精神と自然 生きた世界の認識論』。

阿部ねり著『安部公房伝』等々。。。

買いたい本はライターズ・ジャーニー著『神話の法則』。

ついでにアンリ・エレンベルガー著『力動精神医学発達史 無意識の発見 上・下』も買って持っていたいものです。

そしてふと、この本の流れは。。。

「コンテクスト(脈絡)」ということと関係があるかもしれない、

と自己分析してみました。

だいたい私の場合は、何かの答をみつけるために、遠回りに本を読むことがあります。で、その本に必ず自分が読みたい答が書かれていることになっています。

自分の生き方の脈略、ストーリーの雛形のようなものを探している時期なのでしょう。

そうそう、孔子の言葉に四十にして「不惑」、五十にして「知命」云々、という言葉があるのを思い出しました。

私の「天命」とは?

その答を、今、知ろうとしているところのようです。

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