Author: yuko

木田元著『闇屋になりそこねた哲学者』

季節の変わり目、この時期は、黄砂や花粉、三寒四温、別れの季節でもあり、世界がまるで空虚になってしまう瞬間がたびたびあります。。。あなたはいかがお過ごしですか? ブログには書ききれぬ程の思いにさいなまれ、一人悶々と抑えきれ Read More

メルロ=ポンティの絵画論における身体性

先日購入したフランスの哲学者メルロ=ポンティの芸術論を集めた『間接的言語と沈黙の声』は、芸術に関心のある人には、お勧めの良書です。

おそらく芸術関係の人は、余程の変態(笑)でない限り、手に取らないであろう、題名からは内容がわからない芸術関係図書が、結構あるものなのです。この本はその1冊です。なぜ単純に『芸術論』としないのか、さっぱり意図が掴めません。逆に芸術系はどうせ本を読まないから、消費者対象外とされているかもですよ。。。

知人曰く、「芸術に関しての本が売れないのは、たとえ素晴らしい内容が書いてあったとしても、それを読んだからといって、素晴らしい芸術を生み出せるわけではないから」ですって、なるほど、一つの真理かもしれません(苦笑)。

しかし、一方でさまざまな賢人が「思考が現実を実現化させる」という真理があるならば、一読の価値があるのではないかと、私などは純粋にそう信じて疑いません。

まだまだ世界には、隠され、埋もれた知恵が潜んでいて、それを必要な時に与えられるに違いないと、本を読み続け、見落としがないようにと祈りながら、この世界を見つめ続けるのです。

メルロ=ポンティの素晴らしい言葉を今日は一つだけご紹介致します。

余談ですが、私は、美大生にかつてこのメルロ=ポンティの『眼と精神』と『知覚の現象学2』をあげてしまい、先日『知覚の現象学1』を売ってしまったのですが、なぜか、この『間接的言語と沈黙の声』には、『眼と精神』が同じ木田元氏の訳で収録されていました。また読みなさい、という事なのでしょう。

『画家は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、<精神>が絵を描くなどということは、考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。』(『眼と精神』より)

この言葉を読むと、なぜかとてもホッとするのです。以前から、「自分は器であって、そこに入って来るものを絵にするのだ」というようなことをたびたび私は言って来ました。私という存在は、どこかとても頼りなく、弱々しく、何の確固たる信念などそもそもありません。

しかし、描きたいという衝動と、描くことで、自分のこの不確かな存在を確かなものとして味わいたい、という強い気持ちがあることは確かなのです。

自分を支える文化背景や生まれや育った環境などというものは、確かに自分の記憶の中に存在しますが、それはとても刹那的で、人類の普遍的なものとして取り出せるものは、ほんのわずかなものでしかないような気がしてなりません(このあたりに、仮の姿とか、身体を貸すというような概念に納得してしまうのです)。

それでも、それをひとつひとつ吟味して、自分の味として出す事は可能だとしても、それはどこまでも味であって、真理というような確かな手ごたえになるまでに、自分自身がそれを感受できるかどうか....、それがまた不確かなものなのです。

人の仕事を横目で見て、そういうことは客観的にはわかるのですが、自分のことは案外誰でも盲目的であったりします。

ですから、結局、自分が案外自分の表現の妨げになっているようなところがありまして、下手な判断をしない、無欲というか、判断をむしろ投げ出す、自然のなりゆきにゆだねる、という他手段がないことばかりなのです。そういう意味では脱力ということも大切です。

そういうと、その人の主体的な表現が全く無いのか、という話しになりますし、そんな脱力で意志薄弱な性質では、やはり絵は描けないですね。。。しかし、どんなに放り投げても、無欲になったつもりで、純粋無垢に絵を描いても、必ずその人そのものとしか思えないような一種の匂いと言うか、癖というものがあるから不思議です。そういうものが、取り出せるまで、絵を描くことがまず大切なのだと思います。

メルロ=ポンティの「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。」という言葉は、その癖とか匂いというのが、身体性と密接に関係していることを示唆してくれています。

先ほどの「思考が現実を実現化」するという言葉の「思考」もおそらく身体にもっと深く染み込む程の思考を言うのだと思うのです。単なる観念的な、概念やアイデアというもの以上の身体から湧き出る程の強い意志を持った思考、そういう力が、画家には必要なのです。

この思考は、ですから、頭でっかちな理屈のようなものではないですね。メルロ=ポンティのこの『眼と精神』を最初に読んだのは、今からちょうど20年程前のことになります。当時、禅や老荘思想について関心がある時だったので、この「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。」という文章の部分に「万物斉同」という状態?と、付箋にメモ書きして挟んだ記憶があります。

世界とひとつになったり、自分を世界に開くという境地、そのような状態で画家は普遍という境地をつかもうとするものだと思います。そこからその人が、天から与えられたものとしかいいようのない、啓示のようなものが与えられ、それによって独特の世界がつくられていくのではいか、と当時思ったものでした。それがやがて様式(スタイル)として次第に形成されて行くのでしょう。

先に様式があって、そこに自分をあてはめたり、無理に押し込めているような作品は、やはり、どこか無理があって、創る方も見る方もどこか窮屈なものです。

なんだかわからない、模索するような混沌とした中から、自然に生まれる、そういう熟成の時期を根気づよく待たなければなりません。

絵がその作家の唯一の絵になるまでには、長い年月を必要とします。そういう温かい目で、日本の社会が画家を育んでもらえる時代が待たれます。必ずそのようにして社会が育てた絵は、長い年月の後には、多くの人にアイデンティティや文化基盤として貢献する力となるはずなのですから。

若く画家を志す人たちが沢山います。しかし、多くは挫折し、社会のしがらみから自由になれず、才能があるにも関わらず、苦悩しながら断念してしまいます。出会った画家が身近にいるのであれば、是非温かな励ましや、見守り育む心を多くの人に持って頂ければと願ってやみません。

さて、絵は本当に奥が深く、汲めども尽きぬ泉のようです。あるいは底のない沼地であるかもしれません。そのそら恐ろしいような深淵に一人果敢に画家を貫き通す...、何の因果でしょうか(汗)、しかし、そのような途上にあって、先人は、道の先々に多くの糧を残してくれています。

最後に、メルロ=ポンティのこの本の「セザンヌの疑惑」から一文。
これはセザンヌの言葉です。

「彼らは絵を作っていたのだが、いまわれわれは、自然の一片を作ろうと試みているんだ。」

セザンヌは、そうしてこの見ず知らずの遠い日本の時代をはるかに超えた女性画家にも、そっと微笑み、「われわれは」と、語りかけてくれています。

私はこの言葉に励まされ、制作のあいまに、文章を綴らずにはいられなくなりました。

今日は、メルロ=ポンティをご紹介しながら、画家の世界を少しだけ垣間見て頂けたでしょうか(笑顔)。。。

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女性画家 ジョージア・オキーフ

本日は『Georgia O’Keeffe (Getting to Know the World’s Greatest Artists)』が売れました。この本は、アメリカの女性画家ジョージア・オキーフを本当に簡単な英語で紹介しているペーパーバックです。英語学習方法に多読という世界がありまして、一時期その方法で英語を独習していました。その時に買った本をまだ沢山蔵書しています。最終的にシドニー・シェルダンの『Master of the Game(ゲームの達人)』を辞書無しで読めるだけの力がつきました。しかし、この小説には、登場人物が画家となってパリで活躍する場面が出て来るのですが、あまりに刺激的で、途中で読めなくなり、そこで多読熱が下がりました(苦笑)。そもそも私は小説を読みません。架空人物の人生に付き合っている心の余裕がないのかもしれません。。。しかし、この小説は映画化されたり、日本でもアレンジされてテレビドラマになっているくらい、魅力的な小説なのです。

okifu.jpg

ちなみに、多読書として買ったこのGetting to Know the World’s Greatest Artistsのシリーズには、

アンディー・ウォホールAndy Warhol (Getting to Know the World’s Greatest Artists)

ポロックJackson Pollock (Getting to Know the World’s Greatest Artists)

フェルメールJohannes Vermeer (Getting to Know the World’s Greatest Artists)

を所蔵していましたので、Amazonで販売中です。

さて、話しがそれてしまいましたが、ジョージア・オキーフに話しを戻しましょう。

私はこの画家の展覧会カタログ(横浜美術館)を見ながら、毎日ため息をついていた時代があります。憧れの画家の一人です。もう久しく大きな展覧会が日本で開催されていないので、意外に知る人が少なくて驚くことがあります。今日はオキーフを少しだけご紹介致しましょう。

オキーフは、まずアメリカの女性画家としてもっとも成功した例の一つではないかと思います。実は憧れていたのは私ばかりではなく、草間弥生さんも、リアルタイムで憧れて、オキーフに手紙を書いたことがあると本に書かれていました。「日本からアメリカに渡り画家として活動したいのですが、どうしたらよいでしょうか?」というような切実な手紙を書かれたそうです。ところが送られて来た返事は、「あなたは日本人なのに、なぜアメリカに来ようとするのですか?」と書かれていたというのです(苦笑)。

これは私も経験がありますので、オキーフの気持ちも草間さんの気持ちもよくわかります。私は、韓国で若い作家志望の人から「日本で個展をするにはどうしたらいいですか?」「日本で美術を勉強するにはどこの美大がいいですか?」と、聞かれるからです。ドイツに留学した時は、逆に「なぜ日本人なのにドイツの美術を勉強したいのですか?あんなにすばらしい文化があるのに...」とも言われました。

これはですね、「人はそれほど深い意味で相手に善かれと思うことは安易に言えない」ということの一つの例です。

むしろ、「人が何と言おうとニューヨークが私を呼んでいる」と行ってしまった草間さんの決意が本物ですし、誰かが「彼処に行けば何とかなる」ということを鵜呑みにして行動するということは、その時点ですでに自立した自己の判断になっておらず、そのような動機でしたことは、とても脆弱な力しか発揮し得ないものだと思います。

また、人の導きというのは、そのような恣意的な形ではなく、自然で偶然の巡り合わせとしか言えないような、手繰り寄せるようにして、与えられるものと思います。

東京国立近代美術館で、草間さんの初期の小さな暗い花の油絵をかつて見た時、オキーフへのこの憧憬を覗き見たように思いましたが、また一方でオキーフに突き返されたことが、その後の彼女を彼女ならしめた、そのように作品が導かれた、と感じたのでした。画家として存在するというのは、そのように応え、そのように独立しているものだと思います。

しかしオキーフを語る時に、写真家スティーグリッツの存在なくして語ることは出来ません。この二人の関係は魅力的で、いくつか小説化され、映画化されて紹介されている程です。スティーグリッツはオキーフのために、そしてアメリカの若い作家たちのために、ニューヨークに291ギャラリーを開廊しました。またオキーフの美しい写真がスティーグリッツによって多く残されたのことも、オキーフの魅力を一層高めることに貢献しています。

   

291ギャラリーの当時のパンフレットが、京都国立近代美術館の所蔵品として展示されていたのを見たことがあります。今となってはそういうものも貴重な資料になっています。

東京国立近代美術館には、スティーグリッツの空の写真がよく展示されていることがあります。まさに抽象的な写真の先駆者でしょうね。とにかくアメリカの写真史に必ず最初に登場する人物であり、その写真も今なお色褪せることの無い彼独自の存在感を主張し続けています。

オキーフの小さな白い花の小品を、東近美で一度だけ見たことがあるのですが、それ以来ずっと見かけません。また出会いたい作品の一つです。

私の蔵書のオキーフ画集、関連図書をご紹介しておきます。

Georgia O’Keeffe Museum、Peter H. Hassrick、Harry N. Abrams (1997/9/1)

Georgia O’Keeffe: A Celebration of Music and Dance、Katherine Hoffman,George Braziller (1997/10)

『ジョージア・オキーフ―崇高なるアメリカ精神の肖像』、ローリー・ライル著、Parco出版局 (1984/01)

次々と本は流れ去り、しかしまた私の元に訪れます。昨日は『間接的言語と沈黙の声 (メルロ=ポンティ・コレクション 4)』が届きました。監修は木田元氏。

この人の名前は、ハイデガーの著書にも度々目にするので、凄い人だと思っていましたが、今朝サイトで調べて、さらに一層興味を持つようになりました。もっと知りたい人の一人です。著書『闇屋になりそこねた哲学者』を市の図書館に予約しました。内容には、「満州での少年時代。江田島の海軍兵学校で原爆投下を目撃した日。焼け跡の東京でテキ屋の手先だったとき。はじめてハイデガーを読んだころのこと。…波乱にみちた人生を縦横に軽妙に語る。日本を代表する哲学者の自伝のような本。」と書かれています。

またWikipediaには、「3歳のとき一家で満洲に渡る。海軍兵学校から山形県立農林専門学校(現在の山形大学農学部)を経て、東北大学文学部哲学科に編入学。当時は敗戦直後の混乱期だったため、闇屋のアルバイトで自活しながら毎日10時間近くに及ぶ猛勉強を続け、大学1年のときドイツ語を、2年のとき古典ギリシア語を、3年のときラテン語を習得。1953年に学部を卒業して同大学院哲学科特別研究生課程に進み、フランス語を習得。....」と書かれていました。本当に凄い。もっと勉強しておけばよかった。。。いや今からでも遅くはない、これからも絵を描きながら勉強しよう!と決意したのでした。。。(笑)。

この『間接的言語と沈黙の声 (メルロ=ポンティ・コレクション 4)』は、メルロ=ポンティの芸術に関する文章を集めた貴重な1冊です。その最後の木田氏の最後の解説の一番最後に、とても好きな言葉を見つけましたので、書き出しておきます。これはサルトルが追悼文に書かれている、最後に交わしたメルロ=ポンティの言葉だそうです。

「ぼくはたぶん、自然について書くことになるだろう。...ぼくはホワイトヘッドのなかで、自然はぼろ布をまっているという驚くべき文章を読んだのだ。」

彼の著書『眼と精神』(木田氏によって「絵画を通して、画家たちがそこで見たり描いたりしている世界、彼らの作品がその秘密を洩らしてくれる感覚的世界、つまり「自然」の存在論を素描しようとする」著作と解説されています)そして『見えるものと見えないもの』に、この言葉が凝縮されていると言えましょう。

そして私は、いろいろな人がこれと同じことをさまざまな表現で書き記していることを、あちこちで拾い集めながら、読書を楽しみ、制作する毎日なのです。

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ジル・ドゥルーズ著『襞―ライプニッツとバロック 』

本日はAmazonで2冊本が売れました。『歴史を問う〈1〉神話と歴史の間で』とジル・ドゥルーズ著『襞―ライプニッツとバロック』です。

『歴史を問う〈1〉神話と歴史の間で』は、以前美術史を専攻していた時に、歴史認識がどうしてもつかめなくて、悩んで購入したものです。結局、歴史については阿部謹也氏の本を数冊読んで、「なるほど、そういう歴史研究方法があるのか。。。」と思った後から、とうとう自分なりの独創的な美術史の方法がわからなくなり、この本もほとんど読まなかったかもしれません。そういうことで手放しました。

襞

襞―ライプニッツとバロック 』は、表紙カバーに、

「バロックはたえまなく襞を生み出すのであり、事物をつくりだすのではない。」

「しかしバロックは襞を折り曲げ、さらに折り曲げ、襞の上に襞、襞にしたがう襞というふうに、無限に襞を増やしていくのである。」

「バロックの線とは、無限にいたる襞である。」

という文章が抜き書きされていて、これに痺れて購入しました(笑)。
これを読んだとき、かつて制作した『風景の襞』の意味を解明してくれている、と思ったのです。

常に本を読む動機は、私の場合、こういうところにあります。
つまり、私は感覚的に作品を制作しているので、それがなぜそのように私の中から生まれて来るのか、実際のところよくわからないのです。それが神秘的であるからこそ、私は夢中に制作できるのです。それで、あまり不思議なのものなので、人に「これはどういうものか?」と必ず聞かれる場面があって、後から自分なりにその疑問を解明するために本を読むような感じなのです。

しかし本当に不思議なことに、ふと本屋で手にしたり、たまたま買った本を開いた瞬間に、自分の制作をまるで裏付けるような言葉や文章に出会って来ました。

そこで、ぱったり出会った言葉にすっかり励まされてしまうと、後はあまり読まないこともあります。この『襞―ライプニッツとバロック 』はそういう本で、何か素晴らしいことが書いてある気がして、長く持って来ましたが、今日売るとなって、はじめて読み返して、ざっと大事そうなところを抜き書きして、さっさと売ってしまいました(苦笑)。

最近は国内の発表活動の熱が冷めてしまって、モチベーションが上がらないので、いよいよ海外で活動することも考えるようになって来ました、したがって、なるべく身の回りにあるものを処分しているところなのです。

この『襞』という本は、バロックの様式、表現しようとしている世界のしくみを、ライプニッツのモナド論によって解明しようとしているようで、このライプニッツのモナド論がよくわからないと、かなり難解です。しかし、中央公論社の『世界の名著〈30〉スピノザ・ライプニッツ (1980年) (中公バックス)』も持っているのですが、これがまた、さらに難解です。とても抽象的で完結に物事を単位とその構造のようなものとして説明されているようなのですが、具体的な話しが出てこないので、なかなかピンと来ません。しかし、このジル・ドゥルーズの『襞』という本を読むと、なるほどバロックはそのようなライプニッツの世界観と関係があるかもしれない、と思えるので画期的な芸術様式分析になっていると思いました。

さまざまな魅力的な彼独自の言葉が散りばめられています。

「襞」「鏡」「水晶体」「紐帯」「繊維」「フェルト」「俯瞰」「包摂」

絵画は「窓」。モナドは「部屋」「建物」。

書き留めた魅力的な文章を並べておきます。

物質のもろもろの部分はたえず分割されて、渦の中に小さな渦を、その中にさらに小さ渦を作り、互いに接しあう渦の窪んだ間隙に、さらに渦を形作る。物質はそれゆえに空虚をもたず、無限に穴だらけ、スポンジ状,多孔質の繊維であり、いつも穴の中に別の穴がある。それぞれの物体は、その中に不規則な通路が穿たれ、ますます精妙な流体にとりまかれ、浸透されているぎりで、どんなに小さくても一つの世界をそなえている。宇宙の総体は「様々な流れや波動にみちた物質の池のようなもの」である。p13

モナドは亀裂などもたず、光は「密閉され」、これが理性にまで高められるとき、それぞれのモナドに灯され、内部のあらゆる小さな鏡によって白を生じるのである。光は白を作り出すが、また影も生み出すのだ。生み出された白はモナドのなかの明るい部分と溶け合い、暗い地、つまり底(fuscum)にむかって暗くなり、減衰していくのである。この暗い底から、「多かれ少なかれ強力で、よく調節された陰影と色調によって」物が生じるのである。p.57~58

「眼のかわりに光るものを、物体のかわりに不透明なものを、射影のかわりに陰影を」p.58

乱流は決してそれ自体で生じることはなく、その螺旋はフラクタルな形成様式にしたがい、それによって新しい乱流がたえず最初の乱流の間に挿入される。それは乱流によって培われる乱流であり、輪郭が消滅する中で、最後に泡やたてがみの形になる。屈折そのものが渦巻き状になり、同時にその変化はゆらぎにむけて開き、ゆらぎそのものと化するのである。p.32

襞は風と不可分である。扇であおがれ、襞は、もうそれを通じて人がものを見る物質の襞ではなく、魂の襞であって、その中を私たちは読み込むのである。「思考の黄色い壁」、〈書物〉あるいは数多くの頁をもつモナド。こうして〈書物〉はあらゆる襞を含んでいる。p.55

ライプニッツの場合、扇の襞ではなく、大理石の縞がこれにあたっていた。そして一方には、物質のあらゆる襞があり、これによって、われわれは顕微鏡で生物を見、軍隊や群れなど、集団が巻き起こす埃の壁を通じて集団を見、黄色と青色の粒子を通じて緑色を見、空しいことや幻想、われわれの心配や憂慮あるいは眩暈などをたえずはぐくんでは、ひしめく無数の穴を見るのである。p.56

傾きとは魂の中の壁であり、包摂されているかぎりでの屈折である。「魂は強制されることなく、傾向を与えられるだけである」p.123

紐帯はまさに群れにおいて、数々の群れによって可変的要素をとりこみのである。その影響下に入るモナドが、それ自体として個体性を失ってしまうからではない(そんなことがあったら奇跡だろう)。紐帯はまさに個体性、モナドの変容、あるいは内的知覚を前提とするが、それはこれらの何も変化させないし、これらに依存するわけでもない。それはただ「共通の変容を」をとりだし、つまりモナドたちが一つの内壁に反響し、一緒になって響かせる〈反響〉をとりだすのである。p.192

群れの中に無数のモナドを捉えるものとは、結び目,紐帯であり、これは支配的要素として限定可能な固体的モナドに固定され、当の群れに対応する物質的な集積を、このモナドの身体に結びつける。p.196

バロック的概念.....物質が多孔性の表面であり、有機的な布に覆われた構造であるということ、あるいは物質が布そのものであり、抽象的な構造を含んだ皮膜であり、繊維であるということである。p.198

2つの襞の間には、間ー襞、二襞(Zwiefalt)、二つの階の折り目、蝶番、縫い目をなす不可分性の帯域がある。p.207

これらの文章が、私の作品と、どこかでオーバーラップしているように思われてなりません。それはなぜなのか。。。きっと、色々な本を乱読している内にまた、気がついて行くこともあるでしょう。

私の作品は、何かを描くというのではなく、ある単位を集積しながら、物事が生まれ、起こり、立ち上がる、そして展開し、ゆらぎ、狂い、破滅して、終息していく。。。そして再び生まれ。。。というような世界の物事の仕組みを、ただの線をキャンバスという基盤に刻み、描くことで小宇宙として見せる、そういう行為なのです。

ですから、このライプニッツの論じようとしていることを、もしかしたら絵画にしている行為とも言えるかもしれませんね。是非、ライプニッツに私の作品を見てもらいたいものです(笑)。

中世

さて、手元に『中世思想原典集成〈16〉ドイツ神秘思想』が届きました。『評伝マイスター・エックハルト』は昨晩で完読しました。市の図書館からは『ビンゲンのヒルデガルトの世界』を借りることが出来ました。女性神秘家のヒルデガルト。どんな幻視を見たのか、読みたくなりました。

次回はこれについて書ければと思っています。

最後に二つお知らせです。

私の作品画像をパワーポイントのフォーマットに活用して、
画像を通して多くの人に作品を紹介することを目的としたサイトが立ち上がりました!

Power Point Template Museum ポポテム

ゆくゆくは世界の人たちに、日本のさまざまなアーティストの作品を紹介するという大志のもと、
英文でのグローバルサイトとなりました♪

簡単な英文ですし、PayPalシステムで、日本円でも買えるようになっています。
お仕事のプレゼンや、学会の研究発表、日本でも幅広くいろいろな方に使って頂けたらと思います。

是非お立ち寄り下さいませ!

展示のお知らせでございます。

マチエール(画肌)の魅力

会場:東京国立近代美術館 所蔵品ギャラリー(4F-2F)

会期:2011年2月22日(火)~5月8日(日)
*休館日:月曜日(但し3/21、3/28、4/4、5/2は開館)、3/22(火)
*無料観覧日:毎月第1日曜日

*展示作品は、『A Thousand of Winds』(162x192cm)です。

*最先端技術CCD撮影画像により、スクラッチとハッチングの線が複雑に交錯する唯一無二の画肌の秘密が明かされます。

*期間中の特別展
2011.3.8-5.8 生誕100年 岡本太郎展

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読書録ーリルケの「事物(もの)」への信仰と芸術

今日は、まだAmazonの本の注文が来ない静かな朝です。 Amazonで本を売りながら、また本を買ってしまう毎日。 お陰さまで、幾らでも好きな本が読めます(笑)。 そして、売った人から、昨日は沖縄の浜に打ち寄せられた珊瑚 Read More

制作のあいまにー不確実性の時代のフラクタル表現

生の絨毯

ここに人間は植物や動物と絡み合い
絹の房に縁どられて異様に結ばれている
青い三日月と白い星がそれを飾り
硬直した踊りとなってその中を横切っている。

飾りのない線が絢爛たる刺繍の中を貫き
各部分は縺れ合い互いに向き合っている
そして誰も編みこまれたものの謎は分からない
するとある夕べ この織物に生命が宿る。

死んでいた枝がおののきながら動き出し
線や円で隙間なく囲まれていたものが動き始める
そして結ばれていた房の前へはっきり現れ
きみたちがみな思案に暮れていた解答をもたらす!

この解答は意志によって得られず すべての
平凡な時に適さず 組合の宝にあらず
多数の人に与えられず 弁舌をもって叶わず
希な人に 希なときに形象として与えられる。

(シュテファン・ゲオルゲ詩)

昨日読んでいた本の中から、はっとする詩を見つけたので、ノートに写しました。

【アラベスク】

昔し『アラベスク』(女子美術大学所蔵)という作品をつくりました

プルシャンブルーを基調とした、スクラッチの作品でした。

ある人にその作品を、日本の出光美術館にゆかりのサムフランシスの作品に似ていると言われて、嬉しかった記憶があります。その後にサムフランシスの大きな展覧会が東京都現代美術館で企画され、見に行って、「あぁ、この作品のこと?」と思ったものです。

実は、私のその作品の題名は、ドビュッシーの『アラベスク』というピアノ曲からとったものでした。妹によくリクエストして弾いてもらっていた曲でした。
メロディが重層的で、この曲に川のせせらぎを感じるので、昔から好きなのです。

再びゲオルゲの詩に戻りますが、この詩の解説に、ヒルデブラントがこの絨毯は、回教徒が祈祷の時に敷くアラベスク模様の敷物であると言ったと紹介されていて、「人類文化の発祥地である西洋と東洋の接点が最も実り豊かな地域」がオリエントなのだ、というようなことが書かれています。

私は、アラベスクというのは、人間の抽象表現の源にある象徴物ではないかと常々思って来ました。そして、石油産出国が世界経済に力を持ち始めたことと、絵画に抽象表現主義が生まれたこととは、全くの無関係とは言えないように思えるのです。いまだにそういう文献に出会ったことがないのですが、もしかしたら、フランスの哲学者あたりで、そのことを指摘している人がいるかもしれませんね。というのは、フランスと石油産出国とは、やはり大きなパイプで繋がっていそうだからです。まったくの根拠もなく、そのように感じています。先のサムフランシスは、フランス人ですが、母国の抽象表現の画家の中では、実は無名に近く、日本で活動したせいもあり、出光氏の確か娘さんとサムフランシスが結婚していることで、日本ではとても恵まれていたフランス人画家として有名です。これも、石油と抽象絵画とフランス人がぴったり繋がる例でしょ(笑)?

さてここまでが導入です。

今日はこの後、すっごく長い文章になってしまいました。

書きたくなることがたくさんあるのです。

この詩に付随して、フラクタル、抽象、そして私の作品の秘密を書いてみたいと思います。

【フラクタル】

先日、ブノワ・マンデブロ(1924-2010)の新刊『フラクタル幾何学(上・下)』が届きました。

これまで私は、「フラクタル」という言葉は、1/fとか、ゆらぎ、ファジーというような言葉と一緒に、複雑系という意味ぐらいの知識だけで何気なく使って来ました。

この「フラクタル」という言葉の創始者がマンデルブロ氏なのです。

言葉というのは、凄い力を持っているものですね。フラクタルという意味をわずかしか理解していなくても、言葉を知るだけでわかったような気になるから、不思議です。

以前から、漠然と薄々気がついていたことなのですが、この「フラクタル」という言葉をしっかり認識することで、ようやく自分がこれまで制作して来た作品の内容が明らかになったのでした。

「フラクタル」は、ラテン語の形容詞fractusからマンデブロ氏がつくった造語だそうで、ラテン語の動詞frangereは「壊れる」すなわち「不規則な断片ができている」という意味から定義されています。

この本は次のような文章から始まります。

「幾何学はなぜ、しばしば味気ないとか、つまらないといわれるのだろうか。雲や山の形、海岸線とか樹木の形を表わせないということが、その理由の1つであるだろう。雲は球形ではなく、山は円錐形でない。海岸線も円形ではないし、樹皮もなめらかではなく、また稲妻も一直線には進まない。」

アートの側からこのため息をみつめると、たくさんの話しをすることができます。

まずレオナルド=ダ=ヴィンチによって科学的な目で世界を捉え、写実的に描く技法、そのような絵を求める意識が生まれた話しからはじまりますね。

人類は、現実の世界をかなり忠実に絵画として再現する技術を開発し、身につけることが出来たのですが、にもかかわらず長い年月を経ると、簡単にそれは否定され、放棄されてしまう。

それは人々の世界、自然を見る目や認識が変化するからです。
ここは重要ですが、今回は省略。

そして時代は、ずっとずっと下がって、カンディンスキーやモンドリアンが表現しようとした抽象表現とはどういう目的があったのか、写真技術の台頭で、絵画の存在を肯定するためにどのような努力が画家たちによってなされたか?抽象主義の突き進む果ての、アートのミニマル化(簡単に言うと、ただ真っ白な画面とか、真っ黒な画面があるというような作品がたくさんつくられました)、そこに訪れた抽象表現の限界と見る人に与える疎外感。

その反動で起こる、フォト・リアリズム。

しかしさらにそれを乗り越え、写真特有のソフトフォーカスや、ブレという現象が、なぜ絵画表現のゆらぎやあいまいさ、無形(アンフォルメル)への衝動として取り入れられるようになっていくのか。。。

このような話しが、私の頭の中を怒濤のように駆け巡り、全てはこの「フラクタル」の問題であったのか。。。と、ため息をついた程です(大袈裟ですね、苦笑)。

私が抽象絵画を描こうと決意したきっかけについては、以前、杉野氏との対談に録音されているのですが、学生時代に自分が本当に好きになれる絵画を探し求めてヨーロッパを歩いた経験に端を発しています。毎日毎日美術館や画廊を見て歩きました。そこで、最終的にベルギーのブリユッセルで見た、『抽象絵画展』にはじまるのです。これらの絵画が私を捉えたのは、ある特定の宗教や文化だけに享受される、それまでのヨーロッパキリスト教絵画の歴史から、全く離脱して生まれたと、はっきり感じられたからです。

そこには、歴史上重要な抽象絵画のひとつひとつが、丁寧に紹介されていて、本当にその重要さを実感することができたのです。

しかし、私はこれも以前にこのブログに書き込んだと思うのですが、日本に帰国してから、国立博物館で長谷川等伯の『松林図屏風』を見て、さらに閃いたのです。

日本人として私にできる抽象表現があるのではないかと。。。

あの時ベルギーで見た抽象絵画展の作品はどれも確かに素晴らしかったのですが、この1点が好きだ、というものではなかったのですね。何かどれにも足りない物を感じて帰って来た。だから、『松林図屏風』を見て、それが何であるかがわかったのです。

その足りない物とは、『自然さ』でした。

ヨーロッパの風土というのは、自然を克服し、治め、人間に役立つ自然へと造り直す歴史文化を生み出しました。それに対して、四季折々の自然の美に恵まれ、それと共に歩む日本の風土に、自然を制圧するような表現はなかったといえるのではないでしょうか。

マンデルブロが使う「トポロジー」という言葉を知ったとき、なぜか私はそのことを感じずにはいられませんでした。

ユークリッド幾何学では、例えば自然の呈する非常に不規則で複雑なものは、すべて単純な形に置き換えて、複雑さは全て排除されてしまいます。あたりまえですね、目的はこの宇宙の仕組み、神秘をどうしたら、単純で美しい数字で説明できるのか、何とかして図形化して普遍的な真理として発見したい、という努力が数学の世界で為されているのですから。そして、そこでは「トポロジー」という概念が前提となっているようなのです。ここは、もし専門家の方が、読んで変でしたら、ご指摘下さいね。

さて、その「トポロジー」では、たとえ個々の海岸線がいかに美しく入り組んでいるにしても、区別することはしないのですね。だから複雑さのない通り一遍の形態を海岸線が図形として並びます。そこに、複雑な美への取り組み等は必要とされるべくもありません。

ところが、ここに数学の新たな活用の場が見出されると、話しが変わって来るのです。それが、「解像度」という問題です。

コンピューター画面で、確かに単純化されたユークリッド幾何学は、見事に複製を繰り返すだけでは何の感動も与えないですね。しかし、自然のしくみがミクロの単位で拡大されて見事にその姿を露呈し始めると、人は自然に単純かつ複雑な形象、構造のしくみがあること、その神秘な美しさに脅威と感動で打ちのめされてしまう。
そして人工的にコンピューターでそれを再現することは出来ないものかと考えるわけです。それには、まず単純極まりないユークリッド幾何学に複雑さを加えないと、と考えたわけですね。その複雑さが、「ブラウン運動」です。簡単に言うと、ギザギザな不規則な形態。。。

しかし、そのブラウン運動から充分な距離を保つと、ある規則的な仕組みによって裏打ちされる滑らかな線が浮かび上がる。。。というわけです。

このように書くと、凄く難しいことを書いているように思われてしまいかねないので、もっと噛み砕いて説明しましょう。

例えば、現在ここに存在しない恐竜をCGで描き出し、恐竜を映画でリアルに活き活きと動かし再現したいと夢描きます。出来れば、恐竜時代のジャングルの様子、そこを駆け抜けるティラノザウルス.。。。

解像度が低くては、どうしてもリアルにならず、結局は虫類や動物の素材をつぎはぎして皮膚をつくろうかということをまず考えるでしょうね。しかしその先にもっと複雑な筋肉の動きを見せることは、夢のまた夢。。。結局着ぐるみをつくって、人にかぶせて歩かせようということになりかねません。しかし、それでは何の話題にもならない映画になってしまいます。

そこで、初期にはきっと、ソフトフォーカスなんかを駆使したり、場面を闇にしたりして、何とか解像度の悪い部分を見せないようにと努力するでしょうね。

そういう映画、まだ日本でもつくられていそうです。大型コンピューターを導入する予算が足りないとか理由があったりして。。。

そのような努力の中に、必然としてマンデルブロの「フラクタル」理論が生まれたそうです。

彼は、「大部分の興味深い問題には、フラクタルとトポロジー双方の特徴が非常に微妙な形で包み込まれている」と書き記しています。

抽象絵画に話しを戻しましょう。

トポロジーの典型的な例は、やはりモンドリアンでしょうね。
フラクタルが極まると、やはり、フォトリアリズに行くのででしょうか。写真画像をプロジェクターでキャンバスに投影して、なるべく素材感を出さずに、忠実に描き込んで行きます。
あるいは、最近は、フラクタル絵画をつくるCGソフトも開発されていますから、そういうところからフラクタル・アブストラクトというような絵画の動きが日本でも紹介される日は近いでしょうね。

さて、このトポロジーがない絵画と言えば、子供の落書きに注目した、アール・ブリュットやアンフォルメル表現が代表的な例でしょうか。アクションペインティングもこの流れです。

しかし、この2つがいろいろな割合で、それぞれの絵画に溶け込んで、複雑さとシンプルさを兼ね備えているものだと思います。

【不確実性の時代】

現代絵画には、必ず皮膜性、レイヤー、曖昧さ、ソフトフォーカス、不確定性、ブレ、という表現をたくさんみつけることが出て来ますが、これらは、この時代の「不確実性」を表現するとともに、映像や画像のバーチャル・リアリティの導入が始まっている証拠なのです。

そこで、マンデルブロが「大部分の興味深い問題」と言ったのは、絵画だけでなく、現代のさまざまな人間の営みが、これにあてはまると言うことなのです。

不確実性という言葉が飛び交う現代社会の、混沌としたこの複雑な世界。そのように世界を見ようとする、そう見ざるを得ない視点こそ、実は私たちの新たな段階への飛翔の入り口なのです。ではその複雑系の何が重要な問題かというと、物事を簡単に割り切れないからこそ、その割り切れない中に、沢山のチャンスと未知の宝が隠されているということです。そしてこれを恵みとして受け取れるかどうかが試されているのです。

この世界には、もう残された発見や冒険等ないのだ、絵画やアートの可能性等もうない、アートは頽廃し崩壊して行くと思い込んでいる人は、残念ながらこの不確実性の本当の世界がまだ見えていない証拠です。

先のゲオルゲの詩をもう一度読み直して下さい。

きみたちがみな思案に暮れていた解答をもたらす!

この解答は意志によって得られず すべての
平凡な時に適さず 組合の宝にあらず
多数の人に与えられず 弁舌をもって叶わず
希な人に 希なときに形象として与えられる。

この詩の本当の意味を知りたいと思うのでしたら、是非私の作品を実際にご覧下さいませ(苦笑)。

ゲオルゲの『生の絨毯』をその作品に見る人がいることでしょう。

そして、アートを是非直接経験して頂きたいものです。

アートは、アートを愛し、愛そうと努力する人に大きな恩恵をもたらします。

この時代に生まれたアートには、次の時代へのメッセージが隠されているものです。

さてやっと本題です。

【私の抽象表現とは何か?】

自然の景観を彷彿させながら、具体的な特定の場所でもなく、また情緒性を求めて陶酔出来そうで、どこかクール。よく観察すると、実は全て細かい線が交錯しているだけ、何を描くというわけでもなく、もやもやと頭に残り、しかし思い出してみても、具体的な形の記憶を掴むことができない。しかし、確かに何かが見えていたような気がする。。。

線そのもの自体は、シンプルなものです。しかし、感覚というフラクタルを使って、CGソフトではつくりえない複雑系がそこに生まれます。人間もまた自然の一部であるという東洋的な思想を生まれ持っているからです。

この自然とは、東洋では無のことです。ヨーロッパ神秘思想では神のことです。

見る人には、「いかようにも見て頂いて構いません」となるべく言って来た私です。

しかし、ある人にとっては、何がなんだかわからないものに、恐怖すら感じ、妄想すら見てしまう人もいるようでした。

作品が、見る人の鏡になるからなのです。

貧しい人は貧しさをそこに見、豊かな人は豊かさを見ているようでした。

真理を得ている人は、そこにすら真理を見出すのです。

アートとはそういうものです。

再びここでお知らせです。

是非、この機会をお見逃しなく。。。

マチエール(画肌)の魅力

会場:東京国立近代美術館 所蔵品ギャラリー(4F-2F)

会期:2011年2月22日(火)~5月8日(日)
*休館日:月曜日(但し3/21、3/28、4/4、5/2は開館)、3/22(火)
*無料観覧日:毎月第1日曜日

*展示作品は、『A Thousand of Winds』(162x192cm)です。

*最先端技術CCD撮影画像により、スクラッチとハッチングの線が複雑に交錯する画肌の秘密が明かされます。

*期間中の特別展
2011.3.8-5.8 生誕100年 岡本太郎展

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制作のあいまにー「アートは限られた人のもの」

あれから、結局ハイデガーの『言葉への途上』を買ってしまいました(苦笑)。
私が気になった詩は、シュテファン・ゲオルゲの『語(ことば)』という詩でした。
泉の女神の水底の宝珠を奪ったのですが、この宝珠が掌中から滑り落ちるのです。
そして語(ことば)が欠けてしまうという内容です。
ご興味のある方は、是非本を手にして下さいませ。

この本も実に高価なもので、買える方は限られているでしょう。
しかしそれでも買わずにはいられない、という人が、現にここにいるのです。

芸術も哲学も限られた人のものになってしまうのは、致し方ないことだと、最近はアートの普及活動を諦めるようになって来ました。

もし、この本を安価にして普及しようとしても、本当にじっくり味わうゆとりのある人は、極わずかなのです。
むしろ、高価にすることで本当に必要とする人に持ってもらうことが、本や著作者の幸せであるに違いないのです。

というのは、最近私はこれまで買い集めて来た美術書、啓発書等を、毎日Amazonマーケットプレイスで売るようになり、切実にそのことを実感しているからです。

これまでにも引っ越しのたびに処分して来ましたが、それでも100冊くらいは高価な値段のつく本がありました。

やはり絶版になった美術書の価格は、なかなかのものです。
それに比べて、啓発書の何と安いこと。。。この古本の相場から学ぶことがとても多くありました。
安易に多くの人が手に取るようなタイトルの本は、安く大量に出版されるため、古本として1円で売られているのもあるくらいです。新品は、さぞかし売れないことでしょうね。。。

しかし、あまり書いてある内容がタイトルからは想像もつかず、どう考えても一般の生活に関係ないようなものが、実は定価を上回る値になっていることがあります。
それだけ希少価値が高いことを、その世界を知っている人には知られている、ということなのでしょう。

これはまるで、美術の世界と同じです。
人気のあった作品が、急に値崩れを起こしたり、多作の作家の作品に、皆が飽きて、見向きもしなくなったり、人気が出て来ると、わざと作品を出さなくなる作家すらいるとかいないとか。。。

感覚が麻痺したところで、美というのはもののみごとに色あせてしまうものなのです。

泉の底から、美しい宝珠を安易に持ち去ろうとした瞬間に、宝珠は宝でなくなるということでしょう。

さて、このような経験から、私もある決断をするようになりました。
残念なことですが、なるべく多くの人に、気軽にアートをと思ってはじめたプリント作品ですが、
今後は方針を変えることに致しました。
もう制作しないか、制作するとしても、1点限定でものすごく高価なものにするかのどちらかです。
また、これまでエディションとして26とか46とか66をつけていたものも、実際は2枚限定だったとか、結局1枚限りで、それ以上はつくらないという方向で、版としての画像を消去しようと思っています。
これは、サイトやメールを通して、所有されている皆さんにお知らせして、後々のためにも、大切にしてもらえるものになることでしょう。

初期に私のプリント作品を評価して下さった方には、私なりの感謝の気持ちを表わしたいということもあります。それぞれの方に、実際の限定数が何枚であったかの証明書を発行し送付することに致します。

私自身も、私という画家に期待して買って下さった方々への感謝の気持ちを、今後の制作に表わして行かなければなりません。必ずや、「あの時、思い切ってあの作品を買っておいて正解だった」と言って頂けるような仕事になるよう尽力してゆく所存です。

今後の制作活動を乞うご期待下さいませ。

尚、ご愛顧頂いておりましたシスターシップは、今月末を持ちまして、しばらく休業とさせて頂きます。
ご了承下さいませ。

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制作のあいまにー読書録

先週は岩手の東和町の萬鉄五郎記念美術館にも駆け足で行って来ました。 その日1日だけ天気も良く、暖かでした。 久々に萬鉄五郎の作品に、私なりのある発見があり、感化されて帰って来ました。 制作に活かして行きたいと思っています Read More

『画家になるには?』ー《後編》

今回は、私がいかに「人に役立つ美術」への思いを持つようになったか、その触りを書いておくことにします。そして、それが「画家になるには?」と問う人たちに、何かしらかのアドバイスに繋がればと思っています。 存在の希薄さ 私は子 Read More

舎利弗と目連の大絵画

昔し昔し、仲の良い二人がおりました。

これを仮に、仏の十大弟子のうちの舎利弗(シャーリプトラ)と目連(モッガラーナ)と致しましょう。

ある国の王が、仏の十大弟子でとても仲の良い二人と評判の、シャーリプトラとモッガラーナのことを伝え聞いて、国に招き寄せました。

「シャーリプトラとモッガラーナよ、あなた方の描く絵がたいそう素晴らしいという噂を耳にした。どちらがどれだけ素晴らしいか、その神通力の程を私と国中の者達に見せよ。」

そう国王は二人に申し付け、絵を描くためのとても大きく長い壁が二つ向き合っている部屋に通されました。

二人はその日から何日も何ヶ月も、その部屋に籠って、なかなか出て来ません。

心配になった王の使いの者が、その部屋を覗くと、シャーリプトラは、噂どおりの素晴らしい絵を描いていて、もういつでも完成しそうです。

ところが、モッガラーナときたら、掃除ばかりしていて、絵を描いているようには見えないのです。

「どうも噂とは少し様子が違うようでございます。実は...。」
従者はそう、国王に報告しました。

それから何ヶ月も過ぎて、ようやく二人は、その部屋から出て来ました。

国王は、従者を引き連れ、その部屋に入って行きました。

やはり、聞いていた通り、シャーリプトラの絵は、この世のものかと思う程の素晴らしいものでした。

しかし、モッガラーナに与えた壁は、相変わらず、ピカピカに磨いてあるだけで、何も描かれているように思えません。

不信に思って、「これはどうしたことだ?」尋ねました。

すると、モッガラーナは、国王をその部屋のある場所に導き、

「ここから二つの絵をご覧下さい。」と言ったのです。

国王は言われるがまま、その場所に立って部屋を見渡しました。

すると、どうでしょう!モッガラーナの壁にも絵が描かれているではありませんか!
それは、シャーリプトラの絵が、モッガラーナの壁に映り込んだものだったのです。

モッガラーナは、壁を鏡のように磨き上げていたのでした。

そして二つの壁が一つに繋がって、荘厳な大絵画となって、目の前に広がったのです!

国王は、この二人の神通力の噂が本当であったと感服し、国をあげて仏法に帰依することを決意したのでした。

お話し、おしまい。

絵を描くということは、どういうことでしょう?

何を伝えるために、私たちは描くのでしょう?

それは見る人に伝わっているのでしょうか?

見る人は絵に何を見たいのでしょう?

このお話しを、思い出す度に、絵を描くこと、友情、感動とは何かを、考えさせられます。

追伸:この話しは昔しに、人から聞いた話しなので、出典がわかりません。ご存知の方はおしえて下さい。

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