「画家になるには?」《続編1》ー公募展について
画家とは?画家になるには?「画家になるには?」の記事にコメントが入り、「後編はどこにあるのですか?」という問い合わせがありました。その方も絵を描いている人でした。後編は非公開にしてありましたが、昨日から公開にしました。どうして非公開にしたかという
私の調書
わたしのこと今、JR長野駅構内には、長野県立信濃美術館で開催中の池田満寿夫展の大きな広告が掲示されています。このポスターの池田満寿夫の顔は、自身の肖像写真を使ったシルクスクリーンの作品を取りあげたものです。この作品を表紙にした、池田氏自身の著作『私の調書』という本を以前所有していました。鎌倉の小町通りの古本屋で、確か1000円くらいで買い求めたものでした。国際的に活躍している当時の生き生きとした様子が窺い知れる、わくわくするような著作です。この本は残念ながら、引っ越す前に売り払ってしまいました。今思えば、もう少し手元に置いておいても良かったかもしれません。本は沢山読みますが、それを所有しているとキリがありませんから。本はキレイによく読んで、後は必要とする人に手放すというのが私の習慣になっています。
「調書」ということを、思い出したのは、一昨日近くの交番に落とし物の件で相談に行って、むしろ私が事情徴収を受けたからです。そこでなぜ私が不信に思われなければならないのか、不愉快な気持ちにさせられました。そこで自分という者が何者であるかということは、案外顔に書いてありませんから、知らない土地では不便なものだと思った次第です。
私の父方は、もともと四国の高松出身です。家紋の「上り藤に三階松」は高松の殿様から頂いたものだそうです。庄屋としてその地域をよく治めたそうで、家紋の使用を許されたそうです。しかし、明治に入って廃藩置県となり、川田家は殿様もろとも北海道開拓のために大移動をしました。この話しは、映画『北の零年』に垣間見ることができます。映画では沈没した船に乗り込んでいて亡くなった川田姓の人が何人も読み上げられるシーンが出て来ます。高松には川田という名字が沢山集まっている地域が今でもあるそうなのです。我が家の先祖は、船で四国を出た折りは、手持ち金品の一部を塩にかえて乗り組んだそうですが、途中嵐にあって、その大半が海に流れそうになったため、皆が着ていた、あるいは持っていた衣服全部に塩を染み込ませたという話しです。この先祖は、かなりの大酒飲みで有名だったそうで、亡くなった時には、棺桶に生前集めていた舶来物のブランデーの瓶を入れたそうです。このご先祖様とどういう関係にあるのかは、はっきりわからないのですが、遠い親戚に川田男爵という人が有名です。この人が男爵芋を北海道で栽培するよう力を尽くしたのです。それで男爵芋という名前が残っています。この人の系統に川田文一という造船会社を設立した人がいまして、父はその人から漢字二文字をもらって名づけられたそうです。北海道開拓時代は、当初は大変大きな一族だったようですが、開拓の厳しさに次第に分離し、父も幼少は婆やがいたようですが、火事やら親族のごたごたで、北海道から出た後は、生まれた土地にあまり帰りたくない様子でした。
母方の曾祖父は、郵便局長をしていた人ですが、その妻すなわち私の曾祖母は、岩崎弥太郎が別荘に来ている間に見初められて、子供たちの御養育係に抜擢され、長年岩崎家に勤めた人でした。母はその曾祖母に育てられ、お花やお茶などの稽古ごとを幼い頃から学ぶ機会に恵まれました。子供の教育にとても厳しい人だったようです。その家に嫁いだ祖母は、厚木で大きな絹問屋をしていた家の三女として生まれました。その家は絹の貿易で名を成した、三渓園で有名な原敬の家と関係があったそうです。原家に養女として貰い受けたいと申し出があったそうで、相当しつこく説得されたようですが、祖母は幼いながらに、苦労はしたくないと断ったそうです。母はその話を残念がりますが、もし養女に出ていたら、今の母も私も存在しません。
祖母は蝶よ花よと育てられ、「厚木小町」と噂された人です。大正時代の娘時代の写真を見せてもらったことがありますが、洋装に、短髪、モガ(モダンガール)と呼ばれる当時流行の最先端を行く女性でした。婦人運動もしたそうです。「関東大震災の際は、大磯の駅に居て、随分揺れたけれど、それ程怖いとは思わなかった」と言う、丙午歳生れの豪傑です。6人の娘と息子1人を生み、戦争で誰一人失う事が無かった、というのが自慢の一つです。今年数えで107才になりますが、未だ一族のゴットマザーとして健在です。
私は誰に似たのか、という話になると、祖母曰く、私の曾祖父の弟にあたる人が、東京の美術学校に通って勉強したそうで、その人の血筋ではないかと言います。私の叔母の一人にやはり美術教師をしていた人がいますので、そういうこともあるのかなと思います。この曾祖父の弟という人は、浜から爺やが小舟を出して、最初は毎朝東京の学校まで通ったのだそうですが、天気の悪い日に通えないこともあり、都内に和菓子屋を出店し、その1階で爺やが店番し、そこから学校へ通ったそうです。しかし、惜しいことに若く亡くなっています。本当に残念です。一方曾祖父は長生きでした。祖父よりも長生きし、病気知らずで、最後は老衰で眠るようにして静かに亡くなりました。私の幼い記憶にも残っている懐かしい人です。
祖母は母方の血筋を主張しますが、私が画家である影響は、一重に父の影響に間違いはありません。父は今の武蔵野美術大学を大学にする運動をした人でした。「髭の川田」と言えば当時の人は覚えているそうです。3つ程上の先輩に水木しげるさんが居たそうで、卒業制作展で、妖怪のような暗い油絵を出品されたのを見たことがあると言っておりました。武蔵美に当時講師で教えに来ていた山口薫に父は師事し、卒業制作は油絵の抽象絵画でした。その作品は、長く物置に置いてありました。緑色の田園を彷彿させ、ドローネのような太陽の表現も見られました。国画会に出品していた時期もあったようです。物置には、kusakabeのチューブ絵具が沢山残されていましたが、生前に描いている姿を見ることはありませんでした。書道との出会いで、書の方に向かったのです。沢山の書物に囲まれて生活しましたが、自己の表現を追求するということがありませんでした。
絵を描く技術を持つ人は、世に沢山いると思います。しかし、その技術で一生をかけて自分にしか出来ない表現に取り組む勇気や意欲を持てず、苦悩する人もまた多いのです。父は自己を育てる大切な時期が戦争と重なり、その機を失ったのではないかと私は理解しています。
ですから私は幼い頃書家として育てようと、毎日臨書をさせられました。しかしある日を境に「人の書いた文字を真似るのは嫌です」ときっぱり断ったのです。父は「二度と教えないからな!」と激怒しました。幼いながら私には確信がありました。「人と同じことをしない」これは私の本当の気持ちから出た本心です。それは本当に正しかったと今でも思います。これまでに自分を貫く事が人生で何度も試されました。
私が生まれるには、多くのご先祖様が必要でした。それはそれで感謝しなければなりませんが、しかしそれらのしがらみに自分を失ってしまったら、絵を描く事を貫き通せません。何度も何度も自分を見極めて、それらの家系というものから自分を引きはがさなければなりません。なぜなら普遍の存在として制作することが出来なければならないからです。親の言いなり、家族のことで遠慮していては、自己表現が見極められないものなのです。
昨日は父の命日でした。また今年も暑い夏がやって来ます。夜、庭で蛙が鳴くようになりました。
博物館あちこち
わたしのこと以前書いた「図書館あちこち」の記事がご好評でしたので、今回は私の秘密の聖地、博物館のご紹介を致します。
私は大学1年生から博物館でアルバイトをしていました。横浜館内、馬車道にある神奈川県立歴史博物館。当時は自然系も合同だったので、神奈川県立博物館という名前でした。その後、小田原の地球博物館と分離して、歴史博物館となりました。ここで9年程お世話になりました。いろいろな学芸員のお手伝いをしましたが、一番多かったのは、収蔵庫の資料整理でした。
この建物は、旧横浜正金銀行を再利用したもので、ルネッサンス様式の青銅葺きのドームを持っていまして、石造りの立派な明治建築です。収蔵庫はもともと銀行の金庫。この中を総檜作りに改造したものでした。ここに学芸員と入って、絵巻物や掛け軸、浮世絵等を記録に残す仕事を手伝いました。また、浮世絵をタトウに入れて、仮額用のマットを切る仕事もしました。浮世絵を保存し、いつでも額に入れて展示出来る準備が必要なのです。浮世絵版画の彩色や細かい線描を間近で鑑賞出来る機会に恵まれました。館内には専用の写真室もあり、職員のカメラマンが女性で、この人の撮影した収蔵品の写真整理もしました。よく二人で遅くまで飲んだものでした。
当時は学芸員が沢山いましたから、毎晩のようにお酒の席があり、大学研究機関の人たちや近くの博物館、美術館の学芸員が立寄り、とても賑やかで活気溢れていました。鯨の研究をされている学芸員が南極で調査したついでに氷を持ち帰り、ウィスキーのロックを楽しむ会もありました。何がそれ程魅力的で人が集まるかと言えば、一重にこの建物の風情やロケーションも加味されてのことだったように思います。近くにはレンガ倉庫、中華街や山下公園などもあり、また町自体が古い洋館の建築物を残しています。
博物館の展示はとても地味です。有名な源頼朝像の掛け軸は、ずっと源頼朝のままだし、鎌倉時代の仏像はいつ見ても同じ姿をしています。しかしとても落ち着く場所なのです。建物の歴史的な重みを感じるからでしょう。今年で108年を迎える建物です。
この博物館とセットなのが、近くのレストラン馬車道十番館です。外人墓地にある山手十番館の本店だったと思います。私はどちらかというと馬車道の方が好きです。中二階に英国風酒場がありまして、そこでカクテルを飲むのが粋です。家具や内装も明治のスタイルで昔から変わりません。
もうひとつご紹介は、上野の東京国立博物館。もっぱら常設展と東洋館が好きで見に行きます。常設展示で見たいものが沢山あります、長谷川等伯の松林図屏風はもちろん、曜変天目茶碗、五百羅漢図の絵巻物はいつでも見たいものです。そして中庭の風情や、休憩場のタイル装飾も子供の時からずっと変わらないまま。その場所が自分の家であったらどんなに幸せだろうかと思うものです。昔の建物は、天井も高く、壁も厚く、床もしっかりしていますから、耳障りな反響がありません。東洋館(2013年まで耐震補強工事のため閉館中)は昭和に建てられましたから、あまり建物自体に魅力はありませんが、展示物はいつも興味深いものが展示替えされていて、勉強になります。アジアの呪術的な意味を持つ文様の織物や、銀製の手鏡の裏の詩文、漆器の深い色合い、青磁や陶磁器の焼き物の質感。何もかもが創造を掻き立てます。
そしてたまに本当に気心が知れて、この人はと思う時にご案内する場所があります。それが法隆寺宝物館です。ここの素晴らしさは、まず建物に入る手前の水辺を渡る橋から、見る準備が整います。建築自体は新しい建築様式なので、最初はピンときませんが、この中に入ると、独特の雰囲気が用意されています。何と説明したら良いのかわかりません。ここにしかない雰囲気なのです。お寺でもない、お化け屋敷でもない(笑)、教会でもない、信仰とか宗教をまったく取外した聖地というものを表現したのだと私は解釈しています。銅製の百済観音菩薩立像が何十体も立ち並んでいます。これは廃仏毀釈の際に、法隆寺から国が寄贈を迫ったものと聞いています。それがいいことだったのか、信仰の対象としてどうなのかという疑問は、私ごときが判断する内容を越えています。そういう歴史の深層をふと覗いて圧倒されるようなものがそこにあるのです。それが聖地と私が見做す所以です。
この法隆寺宝物館の1階には、ホテル大倉のミニレストランが出店しています。内容とお値段がどうかなと思う方には向きませんが、静かに上野で食事をしたい方には穴場です。まず法隆寺宝物館は、人々が素通りする場所にあり、めったに混むことがありません。でもお昼時をちょっと外してご利用下さい。
国立博物館で法隆寺宝物館まで見てしまうと、必ず閉館ギリギリになります。夕飯も上野でということでしたら、最後にお勧めは、森鴎外ゆかりの鴎外荘です。ここは水月ホテルというのが経営していますので、宿泊も出来ますが、お座敷でゆっくり食事をとるのに快適です。古い佇まいが落ち着きます。本格的な懐石料理というほど気取った場所でもありません。上野に行った話しのついでに寄ってみようという場所です。ビジネスプランの宿泊ですと、お料理付きでもかなりお安いです。
上野はその他、不忍池の鰻屋伊豆栄が有名です。もう長く行ったことがありませんが。
長野では長野県立歴史館があるということなので、その内出かけてみようと思っています。今は「長野県の満州移民」の企画展中です。池田満寿夫も満州帰りの人でした。この度お便りを頂いた方々の中に、池田満寿夫と同じ長野県立高校の2つ下の後輩であった人や、小学生の頃池田先生に絵を習ったという人がいらっしゃることを初めて知りました。満州帰りという人たちがどういう運命を背負っていたのか、池田満寿夫を通して知りたい衝動に駆られています。
博物館の素晴らしさは、その土地の歴史、そこに住まう人たちのルーツやアイデンティティに出会える場所だからです。今を生きる事は大切なことですが、ハイデガーも言うように、今そして未来を生きるために、過去の歴史から生きる力を学ぶのです。そういう時間と場所を博物館が用意してくれています。
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