夢と宝ーエリアーデ『象徴と芸術の宗教学』

今年に入って、象徴的な夢を2回経験しました。一つ目の夢は、「マンモスの化石の卵」の夢です。マンモスはほ乳類ですから、卵という時点でシュールです。マンモスの卵が発見されて、二つに割れ、中にマンモスの子供が現われたそのシーンは、何ともリアルでした。それを見たのはちょうど3月の頭でした。あまりに衝撃的だったので、その夢がどういうことを象徴しているのか、自分なりに分析しましたが、その1週間もたたない内に、半ば諦めかけていた、まさに化石となりつつあった画家への道が,再び開かれ、まるでよちよち歩きの赤子のように、再びもとの道に軌道修正し始めました。

二つ目は、つい5日くらい前の夢です。「大水の夢」でした。私は少し高台から見ていたので、それ程危機感はありませんでしたが、みるみる内に水面が上昇して、水が押し寄せて来そうな気配でした。とてもリアルな景色でした。大きな地震が起きて、また津波が来るのではないかと心配でした。翌日、長野で震度5の地震がありました。しかし、津波とは関係がなかったので、なぜあんな夢を見たのだろうと思ったのですが、それは津波ではなくて、もしかしたら九州の豪雨のことだったのかもしれません。
めったに夢を見ることなく、ぐっすり眠れる方なので、たまに見る夢はとても印象的なものです。

夜はこのところ、エリアーデの『象徴と芸術の宗教学』を読んで眠りにつきます。昨晩読んだ箇所に、夢についての面白い話が書かれていました。これは以前にも読んだ事のある話しですが、どこに書かれていたか思い出せず、記憶の底に埋もれたままになっていました。そう思っているとまた出て来るものですね。以前はマルチン・ブーバーの著書で読んだのですが、エリアーデは、それをインド学者のハインリッヒ・ツィンマーがマルチン・ブーバーの『敬虔者(ハシディーム)の物語』から引用しているのをさらに孫引きして紹介しています。

その夢の話しとは、かいつまんで書きますと、ある人が王宮に続く大きな橋の下に財宝が埋められている夢を見たので、これはお告げに違いない、そう信じてその橋の下に行くのです。ところが、そこには財宝はありませんでした。それを見ていた人が、それを笑って「そんな夢を信じてわざわざ遠くから来て、哀れなことだ、自分もそのくらいの夢は見るけれど、絶対に信じたりはしない。」と言うのです。それでその人が見たお告げの夢というのは、「ある人の家で素晴らしい財宝を探すように」というお告げで、その財宝は「誰々の息子の家の暖炉のうしろの埃だらけの奥の方に隠されている」と言うのです。その誰々の息子というのが、実はこの話しの主人公のことなのです。その敬虔者ハシディームは「それだ!」と、自分の家に向かい、その人の夢のお告げに従って暖炉の奥に財宝を探し当てるというお話しです。

この話しをなぜエリアーデがとりあげているかと言いますと、シャガールやブランクーシーという現代の芸術家たちの創造の源泉に聖なるものがあるとするとそれは一体何なのかを解き明かして、それを未開の人たちの原始的な創造性に共通する、「神話的で神聖な子供の世界」と指摘しています。「世界の神秘は子供時代に開示されるが、一般にはやがて忘れ去られる。というのも、大人になるということは、神秘を排除し、宇宙と人間の実存から聖なるものを取り除くことだからである。」(p.159)彼によると、芸術家はこれらの子供時代の啓示ををいかにして取り戻すかを知っている人たちなのです。夢の言葉で言うならば、自分の家の暖炉の奥に財宝があること、そしてそれを取り出す方法を知っている、ということになるでしょう。夢だからと馬鹿にするのが大人、芸術家はいつまでも子供のこころを失わないので、それを神秘として信じる。私がしばしここに書く記事も、人によっては大人げない、子供染みていると笑いの種になるわけですが、それも私が芸術家たる証拠と言えましょう。

先のハシディームの財宝とは、単なる金銭を指し示すのではなく、創造するインスピレーションの源泉であり、それは人類の宝という意味をも内包します。そして、それは特別な場所にあるのではなく、不確かな夢をも信じて遠回りして、しかし最後は自分の中にそれがあることを信じて疑わない、そういう人に与えられるという話しなのです。

エリアーデは、次のハインリッヒ・ツィンマーの文章を引用して、この話をまとめていますので、私も引用させて頂きます。

「したがって、本当の財宝、つまりわれわれの悲惨と試練を終わらせる財宝は、決して遠くにあるのではない。われわれはそれを遠方の地に探しに行ってはならない。なぜならそれは、自分の家の、言い換えれば自分自身の中の、もっとも秘密の奥まったところに埋もれているからである。それは暖炉のうしろにある。われわれの実存を司る生命を与え、熱を与える中心、暖炉の中心のうしろにあり、われわれはただ、その掘り起こし方を知っていればよい。ところがしかし、奇妙な不変の事実がある。われわれの探求を導く内なる声の意味がわれわれに解き明かされるのは、必ず遠方の地、見知らぬ土地、新しい国への敬虔な旅を終えてからなのである。そしてその奇妙な不変の事実に加え、もう一つ事実がある。すなわち、われわれの神秘的なうちなる旅の意味を明らかにしてくれる人は、他の信仰を持ち、他の人種に属する、見知らぬ人に違いないということである。」(p.163)

暖炉というのは、おそらく「情熱」のシンボルなのかもしれませんね。

話しは反れますが、以前私の額入りの作品を買われた方が、「この作品の裏には扉があって、開けられるようになっているので、へそくりを隠すのにとても便利そう」ということでした(笑)。ちょっとその話しとは、この話は違いますから、誤解がありませんように!

今日長野では27度と、とても爽やかな朝を迎えました。夜も寝苦しい日はなく、涼やかな風がどこからともなく流れて来ます。都内は猛暑日ということです。暑中お見舞い申し上げます。

造化物

1992年1月26日に二つの夢を見た記録が残っています。

その1。私は畑を前にしています。その畑を見下ろしている大きな黒い?存在があって、「おまえは、自ら何かを造ろうとしないのか?」というようことを問いました。そこで『私は、自ら造るというのではなく、自然から頂くのです。」と言ってその畑に、撒かれた種を指差し、「例えば、私が生み出すものは、頂いた種が芽を出すことと同じなのです。」と答え、夢はそこで一旦終わります。

その2。私はある大きなデパートへケーブルカーに乗って行きました。そこは小高い山の上にあります。そして、そのデパートの一番上の階にある植木売り場に行きました。そこで私は、あるやせ型の老人に出会いました。

彼は「以前ここに、中村先生が来たことがある」と私に伝え、その時中村先生がどのような用件で来たかを説明し始めます。彼はまず、奥の方から水仙か、蘭の花の鉢植えを取って来ました。しかしそれは実は、石膏でできているのです。それを中村先生が造ったといいます。本物の花を、鉢ごと型取りした石膏像なのです。細い茎も花もすべて完璧に再現されていました。

私は思わず「どのように型をとったんでしょう?とくに二つの茎が交差するところは、型を取るのが大変難しいはずです。」というと、老人は「そう、その通り。二つのものを型取る時は、別々に離したいところだが、そうすれば、そのものの再現にはならない。交差するところが表現できない。」と言います。

そして少し間をおいてから、私の目を見て、あたかも全てを知っているかのように「人間もそうだ。二人の人間が抱き合っているところを、別々に離してしまっては、その二人の関係は失われてしまう。この二つの関係をつかむまで、二人は離れてはならないのだ。」と、私の心に無言で語りかけるのです。私は、ああそうなんだ。今の私のあり方は間違ってはいないのだと確信します。そして、私はあることに到達するまで、今のこの状態を受入れて生きていかねばならいない、そのためにこの生活があるのだからと感じたのでした。

3人の白い巫女

これは中学生の頃に見た夢です。
天空に四角い穴がありました。
私はちょうどその穴に手をかけて中に入ろうとしていました。
何があるのかわからなかったので、
そっとその四角い穴に頭を入れて覗いてみました。
その穴の中はピラミッド型の白い部屋になっていました。
私が覗いた穴は、その部屋の中心に開けられた穴だったのです。
その三方のそれぞれの壁に向かって白装束の女性が座って瞑想をしています。
私は、それを見て「邪魔をしてはいけない」と思ったのでした。

その夢が何を意味しているのか、その時は何もわかりませんでした。
ずっと後に、大学の西洋美術史の授業で、その夢の意味がわかったのです。
そのときからその夢は、
私にとっての「真」「善」「美」を意味する「三美神」となりました。
その後、その夢の情景を、ことあるごとに思い起こし、
そこからさまざまな啓示をもらっています。

赤富士 Aの波

1995年頃に見た夢。
目の前に、青々としてやや激しく荒れた海が広がっていました。
遠くには、真っ赤な富士がそびえていました。
「これが赤富士だ」と息を飲んで見ていると、
突然目の前の海の中から何かが出てくるかのように、
白く泡立ちはじめました。
それは次第に巨大な高さにまで吹き上げられ、
「A」という形になったのです。

海の青さに、富士は赤く、目の前のAの形の波は白。
コントラストが印象的な夢でした。

大船の観音

れは16歳頃に見た夢です。
夜中に目が覚めてふと左横を向くと、
大船の白い観音がこちらを向いて隣に寝ていたのです。
大船の観音は硬いコンクリートに白くペイントされているようなのですが、
夢の観音は白い人間という感じでした。
目を開けて私を見つめ、
「だいじょうぶだから」という意味の内容を言葉なしに、
わたしに告げたのでした。

それは夢とも現とも、どちらとも言えないことでした。

氷の竜巻・黄金のドーム型屋根の塔

これほど印象的な初夢を見たのは初めてでした。
突然目の前の遠くの景色に竜巻が起こりました。
その景色には、ロシアやイスラム諸国で見られるような、
ねじられたドーム型の黄金の屋根を持つ細い塔が高くそびえていました。
その塔をめがけて竜巻がうねりながら飲みこもうとした瞬間、
竜巻は突然凍りついて、天と黄金の屋根を結ぶ氷の竜巻に変化したのでした。

この夢が何を意味しているのかは未だにわかりません。
しかし、その数日後にスペインからグループ展参加のオファーがありました。