大災害が起きた時ーその時私も時代も変わった

このブログに地震雲の事を書いたせいか、アクセス数が突然増えて、驚いています。
情報を求めて、ネットを検索している人が多いのでしょう。
こんな時に、少しでもお役に立てるようなことができれば、と思いますが、
画家はお呼びでないような空気。
私にしても、自分の生きる道をつくり出すだけで精一杯の毎日ではあります(汗)。

前のブログに書き込みましたように、こういう大きな事件が起きた時は、
自分の内面も同じようになっていると認識した方がよいようなのです。
これは私のこれまでの少ない経験から、直感として感じている事です。
被災地の人ばかりが窮地に陥っているのではないのです。
実は、これを読んでいるあなた自身こそ、窮地に陥っているのではありませんか?
人々の不安というものは、伝播し蔓延して行くものです。
どこかで、その不安を静めさせるように努力しなければなりません。

ガンジーは「世界に変化を望むのであれば、自らがその変化になれ」と言っています。

私は学生時代、ドイツに留学したのですが、折しも日本を出発という時に、
あのチェルノブイリ原発事故が起きてしまいました。
1986年4月26日のことです。
5月から語学学校の入学を申請してあったので、キャンセルせずに向かいました。
かなり、勇気が必要でした。
ドイツに到着して、しばらくは、口に入れるものに不自由しました。
というか、心配で食べる気持ちにもならなかったのです。
24歳の時でした。
海外で一人で暮らすという事に、とても不安を感じていた時だったので、
その不安はさらに大きく拡大してしまいました。
私の不安が不安を引き寄せたとしか思えないような事故だったと思います。

次に大きな災害と同調したのは、1995年のことです。
1月17日にあの関西淡路大震災が起きましたが、その2~3日前に地震の夢を見ました。
建物がどんどん崩れて行く中、沢山の靴が散らかっていて、その中から自分の靴を探す夢でした。
実はその時に就いていた職を辞めようと思っていたので、それは「自分探しの夢」とその日は解釈していました。
「自分の中の確固たる構築物がもろく崩れ去り、本当の自分を探すことになった」
そう解釈したのです。
それが奇しくも、本当の地震災害と同調しました。

こういうことは、細かい小さい事ですと、私の場合いつも起きていることなので、そう驚く事ではないのです。

それでももたもたしていましたら、とうとうあの3月20日のオウム真理教のサリン事件が起きました。

同じ1995年のことです。
この事件の数日前に、私は地下鉄の日比谷線の神谷町駅の近くのギャラリーに出掛けていました。
その時に、何のデモか知らないのですが、とにかくあたりが騒がしくなっていて、
胸騒ぎしながらギャラリーを見て、ドキドキしながら帰って来たのです。
その時の胸騒ぎと事件とはやはり私の中では同調していました。
誰かを頼って妄信し、その教えに支配されて盲動するような生き方だけはしてはならない、
そう強く感じていたのです。
それはその事件が起きてからというよりは、その直後に感じていた事が目の前に実証されたような感じ、
と言った方がより正確です。
「自分の判断、責任で自分の生き方を選びながら、自分で自分の人生をつくろう」そう決意したのです。
と同時に「これからは本当に自分の存在の意味を確かめるような生き方をしよう」と強く思いました。

2010年3月11日の直後、私はどういう状態でいたかを振り返りますと、
ちょうど私は「世界に向けて動かなければならない」
そういう流れで仕事を進めていたところだったのです。
ちょうど2月に岩手に行ったのですが、結局1泊もせずにとんぼ返りで帰宅し、
数日後に実は今年に予定されていた展示参加の断り連絡を2月中旬にしたばかりだったのです。
声を掛けてもらったのはとても嬉しかったのですが、どうしても展示のアイデアが浮かびませんでした。
むしろ、現地に実際行って、私がやるべきことは別の事だと気づいたのです。
平行して今年に入ってから、家財道具をヤフオクで、本はAmazonで売りながら、極力持ち物を減らしていました。
身軽にしながら、3月に入ってからは海外に作品を出す準備を進めていたところでした。

こうした私の動向は、何も突然あの地震をきっかけに起きていることではなくて、
すでに昨年から流れとして、自然に形成されて来ていたことでした。
真剣に時代の空気を読めば、そういう流れを感じないわけがない、とも言えます。
私の頭には、昨年から「飽和状態」という文字が浮かんでいました。
今まで居心地の良かった狭い世界に閉じこもったような生き方をしている場合ではない。
外へ外へと追い出されるような力を感じていました。

例えば、何気ない青い空の美しさとか、漆黒の夜の厳かな空気とか、心が震えるような自然の景色とか、
そういう感受性の豊かさを日本の社会が失っているようにしか、私には見えなかったです。
美術館や画廊で美術作品を見ている人の気持ちは、どこか忙しなくて鈍感、目が魚のように泳いでいました。
「急いで話しの種に話題になっているものを見たら、買い物して早く帰ろう」
そんな感じの人が多いように思われました。
何を見ても、何を言っても空虚な言葉しか戻って来ないような。。。

多くの人が、被災地の、本当の気持ちで生きている人たちの心の声を、テレビを通して目撃したと思いますが、
本当に人間が「生きている」という状態は、実はこういう時です。
本当は何も起きなくても、常にそうした状態で生活する事がベストだと思います。なかなかできませんが。。。

こういう時に、白い炊きたてのご飯は、今まで感じた事のないような美味しさを与えてくれるし、
お日様は、すごく暖かくて本当にありがたいと感じられるのです。
いつもお日様は、あたりまえのようにして万人に等しく光と温かさを与えているというのにです。。(苦笑)。
そしてあの失われた風景は、全て美しかった景色として頭に浮かぶようになります。
その時は、ありふれたいつもの風景だったのに、です。

そういうことです。

自然は、本当のことを毎日沢山おしえています。
でも人間は、悲しいことに、そのほんのわずかなことにしか気づけないのです。
感覚が鈍ってしまう状態があるということです。
残念なことに、苦しいとか、辛いとか、嫌な事を体験しないと、その感覚が戻って来ない。。。。

本当は、そんな経験等しなくても、生きていること、美しいこと、ありがたいことに、敏感でいたいですよね。

それには、もう一度身の回りのすべてのことに、真っ白な心で接する、
そういう時間を大切にする習慣をつくることです。

周りの情報や、煩いテレビ報道の音を一度消して、自分自身の本当の気持ちや状態を確かめる時間をつくってみましょう。
計画停電はそういう意味で良い機会です。
焦らずに仕事の手を休めましょう。
心の余裕の時間とするのです。
そういう習慣を持てる日常を勝ち得てから、ようやく芸術が求められる時代が来るのです。
まだまだ先のことになりそうですが。。。。

追伸1:

本のご案内。
こういうときにこそ、下記のV・E・フランクルの本を読んでみて下さい。お勧めです。
『夜と霧 』
『宿命を超えて、自己を超えて』

アウシュビッツのユダヤ人の歴史的な苦難を知る事で、この苦境を克服する力が湧いて来るはずです。
レビューに沢山の感想が寄せられていますから、参考にされると良いでしょう。
私は、苦境に立った時は、必ずユダヤ人の歴史を振り返ります。
アウシュビッツは、特定の時代の過ぎ去った事象ではなく、
「誰の心にも起こる、あるいは自分がつくり出す理不尽な閉塞感、受難の象徴」と私はとらえています。

追伸2:

浜松の友人から、無事かどうかのお電話を頂きました。
ご心配ありがとうございます(笑顔)!
私のブログをしょっちゅうチェックしてくれているようです。嬉しい!
でも、「難しい言葉でわかんないだもんで。。。」って言ってました(苦笑)。
実は分からない人ほど、生きる力がある人です。変な理屈ですけどね。
読書力がない場合は、必要がないからです。
心配せずに、自分の本能を信じて生きましょう!そのことの方がずっと大切です!

こういう時に、不安で不安で盲動しそうな人は、静かに読書したり、編み物、掃除、絵画制作がおすすめです。
ガンジーは、たしか無心に糸車を回していました。
単純な作業に没頭することは、精神衛生上とても良い作用があります。

我が家の一枚  故郷そして源流

50号作品制作の追い込みに入りましたが、ここでこれ以上筆を進めるべきか、止めるべきか、
かなり難しい判断が突きつけられています。

これ以上手を出したら、せっかくの調子が壊れるか、
それを越えてより素晴らしいものになるかの瀬戸際です(苦笑)。

欲を出してもいけないし、しかし今以上の高みを志向したい。。。
人は悩み抜いて成長します。

さて、そういう時には、小鳥のように、自由に翼を広げ、
自然の風に吹かれて飛んでみるのも、一つの方法です。
いつもとは、また違う視界が広がり、自分の立つ世界が違うものに見えて来るかもしれません。

そのような折りに、ある人から、1枚の油絵をちょっと見て欲しいと、言われました。
鑑定というと大げさですが、「こんなものが応接間に昔から掛かっているんですが、どんな絵なのでしょう?」と聞かれたのです。

送られて来た画像を見ると、遠くの山に霧がかかり、手前に川の流れのある風景画でした。
『黒部渓谷源流』という題名は裏書きされているようです。

サインは、Yoshiiまでは読めるのですが、その後に文字が続いているのか、読み取れず、
素人鑑定としては、作家をネットで検索して調べあげるところまでは出来ずじまいでした。

本当に世の中には、沢山のさまざまな画家が存在しますので、
時代や地域、テーマ購入経路など詳しく調べていかないと、作者がみつからないものです。

一昔前の作家は、特にネットに情報が記載されていないケースが多いので、
ごく一部の顕著に知られている画家の名前しか出て来ないのです。

しかしだからこそ、埋もれている画家が、どこかで息をこらして誰かの発見を待ち臨んでいる....
かもしれませんね。

この話しを、なぜブログに書くことにしたかといいますと、
作品の価値は一体どこにあるかを、あなたと一緒に考えてみたい
と思ったからです。

その絵を持っていた人は、「たぶんそれほど大した絵ではないのでは...」
というようなことを言っていたのですが、果たしてどうなのかしら?
と、そこで私は立ち止まったのです。

「大した絵」って、何かな?と。

それで、やはり、画家がどうとか、高いものらしいよ、ではなくて、
そこに何が描かれているか、それをまず見て感じたいと思いました。

そして、
その絵画がその人にとってかけがえのない関係というものがあるとしたら、
それは何か?そういう目で絵画を見ることが大切ですね。

絵の奥の霧に包まれる静かな山の表現と、それとは対照的な手前の川の源流の水しぶきの荒々しさ。。
自然の持つ勇壮さや荘厳さを表現しようとする画家の意図が、気持ちよく見る者に伝わって来る油絵です。

実際に見たら、筆のタッチや絵具の質感から、より多くのことを受け取ることでしょう。

きれいごとを並べるわけでもなく、なるべくありのままに、
しかし「黒部渓谷の源流が持つ厳かな秘密のようなものを、
この風景からどうしたら取り出せるだろうか?」というような描き手の声が、
絵の向こうから聞こえて来るようです。

まず、山の麓の川の源流を描こうとした画家の意欲に強く惹かれたのでした。

「源流」、普遍的で良いテーマじゃないですか。

そして次に、私はこの作品をたった1枚選んで購入し、家の応接間に掛けた人の気持ちに、
強い興味を抱いたのでした。

「源流に遡る」ということは、風景だけの話しではなく、
自分の生い立ちや、生命の源を振り返る「メタファー」すなわち隠喩であったりします。

そして、「われわれはどこから来て、どこへ行くのか?」
川は遡るだけでなく、その行き先をも指し示すのです。

そのような作品が昔からその家で大事にされている。
その家の持つ願いや、思いが、全てその1枚の絵に凝縮されているように思えてなりません。

人は皆、故郷を持っているものです。

自分とは何者か?を問う時、私たちは、そのつど育み、活かし、限定しているところの水源、
すなわち故郷に立ち返ります。そして自分が既にそう有ったところの「既有」ないし「由来」
が自己として告知されるものなのです。

かのハイデガーは、

「故郷を発つ、すなわち騒々しく殺到する非故郷的なるものが、
行く手をはばみ遮る時、われわれは自身の既有と由来から力を汲みつつ、
静かにこれを迎えうたねばならない」

と提言しています。

故郷こそが非故郷すなわち新地へと向かう力になる、という事実。

川が源流に遡りかつ、山から海に向かって流れ行くこと。

海は、命の源「生み」であり、「産み」であるということ。

その1枚の絵が、その人に語る内容は果てしないものです。

このように、1枚の絵を我が家に持ち、毎日ともに生活する、ということが、
絵画を真に経験すること
なのです。

たまたま今回出会った絵画は、期せずして、二重の故郷の意味を持って存在しています。
故郷の家にある、源流というテーマの絵画。

しかし絵画そのものが、故郷をテーマにしていなくても、
実は絵画そのものが、その人の故郷になることがあるのです。

建物は、時間の経過とともに朽ちていくのですが、
絵画はその家での経験をすべて背負って、ともに引っ越ししてくれます。

そんな絵画をお持ちなら、是非一生を懸けて、愛しんで下さいませ(笑顔)。
青い鳥を窓の外に求めていませんか?

家の外に美術や芸術があると思い込んでいませんか?

青い鳥こそ、我が家に翼を休めているものです。。。
我が家で日々、絵画に育まれる力。

その底知れぬ力を、是非多くの人に気づいてもらいたいものです。
そして、まだその1枚に出会えていない方がいるようでしたら、

是非、あなたの故郷、源流となるような1枚に出会える日が来ますように。。。。

日々の思索

ハイビスカスが、次々と赤い花を開いています。
ねじれて咲く花は、1日限りの命。
花からも生き様というものを考えさせられます。

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制作の毎日は、淡々と同じことの繰り返しなのですが、
その単調な作業を支えるものが、自分の信念であったり、
強い衝動、情熱というような、わけのわからない想念であったりします。

このようなわけのわからない想念というのは、ではどこから来るかというと、
過去の自分の生き様と言えるかもしれませんが、
こと芸術という普遍的な仕事に常に身を置いていますと、
個人の枠だけでの経験ではどうにもこうにも問題になりません。

恋愛とか、巷の刹那的な人間模様のようなものは、
小説や文学作品にはなり得ても、
美術作品の存在を根底から支えるものにはならないものです。

もっと普遍的なテーマでないと、長く多くの人の目に耐えうるものにならないからです。

ですから、アウトプットばかりでなく、インプットも大切なのです。
私の場合は、「画家は万巻の書を読み、万里の道を行く」という言葉に従って、
読書と旅行は欠かせません。

今年は既に、山形と京都へ旅行しました。
遠く離れた場所に、話しを聞いてみたいという人がいるということは、
とても素晴らしいことです。
自分の存在がいかに限られ小さなものであるかを思い知ります。
また、その土地にしかない空気を五感で捉え、身体に刻むことは、
大きな制作の糧になります。

旅は空間に向かって自己を広げて行くような経験と言えましょう。

そして、今夢中になって読んでいるのが、哲学書です。
私には、『哲人』と尊敬する人がいて、
その人と出会い、親交を深めながら、これまで枯渇していた哲学の世界が、
突然豊かに広がり始めたのです。

最近は、ハイデガー『野の道での会話』、ベイトソン『精神の生態学』、
ユング『赤の書』、道元『正法眼蔵』、『ウパニシャッド』、
マルチン・ブーバー等々を時々の気分で読み散らかしています。
ハイデガーの全集は102巻あるので、
これから死ぬまで毎日読み続けていくのが楽しみです。

わからないながらも、ほんのわずかな休息の時間に、
文章をひとつひとつ丁寧に味わって読む時間は、
他に代わるものが考えられないくらいに、尊く気高い時間に思えます。
そして、その集中する時間はそう長くは続かないのですが、
集中の途切れた時に、急に沸き上がって来る何ものかがあったり、
ごく簡単なたわいもない一文が、大きな発見や感動のツボにはまって、
涙すら流れて来ることがあります。。。変人ですね(苦笑)。

テレビを売り、まったくラジオを聞かず、喧噪から離れた生活をしていますと、
このようなことが日常のことになって、
時間や自己というものを超越して生きている自分があります。
それらの哲学の内容が、直接制作の糧になるということではなくて、
そのような時間を生きることが、
芸術という時間を超越して存在するものを生み出す原動力になると思うのです。
哲学書を読むことで、
時間や個の存在を超越した自己、
というものを認識する
、かけがえのない時間となるのです。

この世界は、人の情という部分からは、かなり遠い場所にあります。
音楽は限られた時間の中で情緒や情感に訴える即効力がありますが、

美術は永遠に続く普遍的な世界を扱うために、
人間の存在を強く押し上げて行くような、
じわじわと長く続く力強さがあるものなのです。

私自身の作品にも、そのような力を注ぎ込むことが大切なのです。

ですから、美術作品は、時間を忘れて作品を観ることが出来たり、
時間をずっと経った後から、その存在の意味がわかるということが起きます。
そういう時には、圧倒的な感動で、
自己の存在や見ている世界をも、全く変えてしまうということが起きるのです。
「何てつまらない概念に自分は縛られて、世界を見ていたのだろう?」というような。。。

少なくとも、私は美術を長く愛して見て来た経験に、
幾度となくそのような経験を持つことが出来たために、
今こうして画家である、ことになったのかもしれません。


その人が日常考えていることが、その人そのものであり、
そのつくるものも、その人そのものなのです。


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誕生日の決意

今日で48歳になります。
自分でも信じられません。もう少しで半世紀です。。。
誕生日に当たって、朝からブログを書き、心をあらたにしようと思いました。
子供の時から、もしかしたら生まれた時、いえ、生まれる前から美術が好きです。
音楽を聴いたり、読書も好きですが、
しかし何といっても子供の頃から自然に手が動いて絵を描いたり、
手工芸と呼ばれる、ありとあらゆるものをつくるのが好きでした。
あまり知られていませんが、彫刻刀や、のこぎりはもちろん、
女性らしく針や編み棒を使うのも結構上手なんですよ。。
もちろん、あらゆるジャンルの美術作品を観るのも好きです。

この48年の間には、
ヨーロッパ(ドイツ、フランス、デンマーク、ベルギー、イタリア、ギリシア、スペインなど)、
アメリカ、中国、韓国と、
あちこち歩き回っては、直接美術作品を観てまわりましたし、

国内でも、美術館の展覧会や常設展はもちろん、画廊での展覧会も沢山見て来ました。
おそらく、美術というものがなかったら、私は自分自身の存在を確かめることが出来ません。
美術というものを与えられて生きていられることの喜びを、ひしひしと味わう今日この頃です。

しかしながら、美術に関して言うと、私のこの至福感とは別に、本当に悩ましい事実があります。
それは、「美術はわからない」という言葉と、あまりに美術が特別な存在過ぎて、
美術館や画廊以外では、あまり良い作品を見ることができないということです。

「美術がなくなったら、死んでしまいそうだ」という人にもめったにお会い出来ません。
残念なことです。

そこで、私は決意したのです。
これからは、美術館や画廊で発表するために作品を制作するのではなく、

「暮らしの中にアートを根付かせる活動」を目指して行こうと。

そのために、「芸術に捧げる作品」と、「人々の喜びに捧げる作品」との、
両方を制作して行きます。

私はある時何気なく、ある新書を読み終わって、小さな細かい文字が枠の中に印刷されていることに気づきました。
何冊も新書は読んでいたはずなのに、その時はじめて目に止まり、よく読んでみたのです。
要はこのような内容が書かれていました。

あるとき、古本屋で私は1冊の本を棚から抜き、何げなく開いてみたら、
「私は本が好きで好きでしかたありません。でもお金がなくて買えません。あぁ、もっと本が読みたい」
と書かれていた紙切れがはさんであったのです。
もしかしたら、お金に困って、その本ですら、古本屋に売ってしまったのかもしれない、
こんなことでは日本の文化の将来は暗い。教養を求めている人に、
等しく広く情報を伝えるのが出版・印刷技術の役割ではないか、
そう思うといたたまれなくなって、ある決意をしたのです。
それが、誰もが安価で気軽に専門書と変わらぬ内容を読める新書版をつくるということだったのです。

アートは生活にゆとりや、潤い、人との和をもたらすものと、私は信じて疑いません。

どこのお宅にも、最近は、たいてい額縁に入った絵ぐらいは飾ってあって、
いろいろな作品を見て楽しみ、世間話しをしている内に、最近のアートのことが話題となったので、
アートをもっと知りたくなって、休日はゆっくり美術館に行きました。。。。
そういうライフスタイルが定着したら素敵だなと思います。

 

引っ越し奮闘中

新しいアトリエの窓から見える丹沢は、これまで見て来た丹沢とは、印象がかなり違います。以前の場所からは、景色を見渡すようなスケール感がありましたが、ここでは、丹沢が押し寄せて来るような印象があります。景色の一部から、まるではみ出すようにです。そして、その存在感は、威圧感というよりは、やさしく包み込むように、私を見守ってくれているようです。

個展のため中断していた引っ越しがはかどらず、落ち着いて制作に取り組めませんが、そのような中でも丹沢のことを想い、わずかな時間を大切にして制作を続けています。

博物館と私

 大学1年の時から10年間程、横浜馬車道にある神奈川県立博物館(現神奈川県立歴史博物館)でアルバイトをしていました。建物は、旧横浜正金銀行当時の外観を残していて、重要文化財になっています。明治建築の重厚な雰囲気が好きで、授業のない休みの期間に雇って頂いていました。

 仕事内容は、いろいろな学芸員の資料整理のお手伝いです。当時、神奈川県立博物館は総合博物館で、歴史、民族、考古、植物、動物、昆虫、地質等、いろいろな分野の学芸員がいらっしゃいました。浮世絵を収納するマットのカット。昆虫、動物担当の学芸員とは、横須賀まで、東京サンショウウオを発見しに出かけたこともあります。歴史関係の資料は、主に地下の銀行当時の金庫にあり、そこに集められているさまざまな古物の番号と資料とを照らし合わせる作業。博物館には、専門のカメラマンが常勤していて、撮影された写真資料のナンバリングという仕事もありました。

 博物館というのはこのように、雑多で地味なものがたくさん集められていて、それをまず、分類したり、ひとつひとつがどういうものかを、記録する仕事から始まるわけです。博物のそれぞれの記録(=誌)を残し、その点と点を比較したり、結び合わせるような研究によって、次第に重要な事象を立証していくことになります。ということはとても地味な人たちが暗い顔で研究しているか、というとそうでもなく、当時本当にいろいろ変わった人たちが集まっていました。そしてそこに、美大生の私がたまにお邪魔して、ここではちょっと公開するのがもったいないような、日頃の研究の中から生々しく飛び出す話の数々に耳をそば立て、おまけに武勇伝まで残してしまいました。

 ある日クジラを研究されている学芸員が南極の調査から帰って、研究発表後にお土産に持ち帰った氷でウィスキーを飲んだ日がありました。南極の氷には何千年も前の空気が閉じ込められていて、それがウィスキーの中でプチプチ音をたてて溶け出すのです。随分飲んでしまいました。あげくのはてに、博物館で朝を迎えてしまったのです。この日は、ものすごく大切な授業があって、二日酔いを押して大学に行きましたが、途中自分自身が電車の中でかなり酒臭く、はっと靴をみたら、そのアルコールでぴかぴかに光っていました。

 ………とまあ、このように、実は博物館で私は酒の飲み方を伝授されたのです。夜毎、さまざまな分野の研究者がどこからともなく、酒のにおいに誘われて、この研究機関に集まるのです。そして、お酒の力で饒舌になった勢いで、よもやま話しに花が咲きました。

 博物館は、まず地道な研究が基本にありますが、実はもっと大切な仕事があるのです。それは、情報や物を持つ人を集める仕事です。昆虫にしろ、歴史にしろ、それをみつめる人間があってこそ研究は成立します。一人ですべてをこなすのではなく、ネットワークをつかんでおかないと、良い研究は出来ないのです。そのために、凄腕の学芸員は酒で本領を発揮していました。展示する仏像にしても、すべて博物館に収蔵されているわけではあるません。頭を下げても借りることの出来ない貴重な美術品もあるのです。これをどのように円滑に調達するか、それは人間と人間とのやりとりの中から可能になる、ということを学ばせてもらっていました。

 しかしながら、こういう黄金期はそう長くは続かなかったようです。皆年をとるごとに病人,怪我人が続出しました。私はその後、この伝授された「快活に人と飲める術」をあちこちで活かしていきました。しかしながら、最近日本ではあまり相手の方が飲まないケースが増えましたね。机上の知性ではなく、リアルな体験から引っ張ってくる知的な話題を肴に飲む機会には、なかなかめぐりあえないものです。あの時の人間の勢いや面白さというのは、多分に時代的な色があったのだと思います。当時日本はバブル崩壊前でした。いろいろな好条件がそろった一瞬だったのかもしれません。

みかんが食べられない理由

「好き嫌いは?」と聞かれると、私は躊躇なく「みかんを食べることができません。」と答えます。
そして必ず、父の話をすることになっています。
たぶんこのような「みかん嫌い」な人間は世の中に、私と妹の2人だけに違いありません。

父の愛情の深さは、時として私と妹を苦しめることがありました。
私が生まれて離乳食期に入るやいなや、
手押し式のジューサー機具を買ってきて、
1日に何度も飲ませたそうです。
それは親戚中が心配するほど。
そして私が物心ついて、ある日みかんの色を見たり、香りがするだけでムカムカ気持ち悪くなり、
どうしても耐えられなくなって「いらない」という言葉がやっと言えるまで続けられました。

その愛情は性懲りもなく、次に5歳年下の妹にも同様に向けられました。

私は、「みかん」という言葉を書くのも実はあまり心地よくありません。
でもグレープフルーツ、レモン、バレンシアオレンジジュースなどは何のためらいもなく飲めるのです。
逆に好物だったりします。
ところで、父の一極集中型の行動は、「みかんジュース」にとどまるものではありませんでした。