断捨離ー執着と妄信

今年も残すところ2ヶ月となりました。早いものです。
そして『クィンテット展』の作品集荷が、8日に迫って参りました。
この2年間に取り組んだ作品と共に過ごす日もあとわずかです。
その後、小休止もなく来年2月に予定されている個展出品の小作品の制作を始めます。

今年の年末も気を抜くことがなかなか難しいことが予想されます。
そこで今から大掃除を少しずつ心がけているところです。
断捨離は、かなり気分転換になります。
大切なものを見極めるためにも、余計なものを持たない生活はとても重要です。
「日々の生活がそのまま人格や制作にそのまま表われるもの」とも思い気をつけています。

人間というものは弱いですから、知らず知らず執着したり盲目的になるものかもしれません。
ものを整理したり捨てる際に、必ずこのことに気付かされます。
ある価値観から自由になるためにも断捨離の習慣は良い修養になります。

最近巷から流れて来るニュースの一つに、『日展』の不正審査の話しがあります。
これなども「いまさら何を言っているの...」と呆れています。
昔から皆周知のことだと聞いていましたから。

審査する方も、そもそもどうでもよいような存在でしかないけれど、
そんな不透明な権威に審査されようとする方もどうかしている。
そんな感じで長く受け止められていたことではないでしょうか。
どちらも崇高な芸術のイメージとはかけ離れた世界の話です。
純粋に美術に取り組んでいる人たちにとっては、とても迷惑なことなのです。

芸術の世界において、すでに権威などどこにもありえません。
あまたの美術団体のどこにも、もうそれはありません。
そして現代美術というジャンルにおいてさえも。
なぜなら、社会そのものに、どこを向いても権威などなくなっているのですから。
せいぜいあるのがブランドなのでしょうが。
しかしそのようなものにすがるような人間が、そもそも独創的なものをつくれるはずがありません。
ちょっと考えれば誰でもわかることです。
現代は、個々人が各々の物差しを持つ時代なのです。

「人がすぐには認められなそうにない」既成概念を打ち破ることをするから芸術家なのです。
その生き様が多くの人に勇気を与えるのだと私は思います。

だから芸術を志すのであれば、楽な生き方がありそうなところには近づかないことです。
人間はそれほど強くはないからです。
そういうところに近づいた瞬間に、勘違いし、妄信し、執着しはじめるのが人間と言えましょう。

ただし意欲的に公募展に出すこと、そのこと自体は尊いことだと思います。
多くの人に作品を見てもらうことで、パブリックな感覚が身に付くからです。
そして、「賞をとらなくて本当に良かった」とほっとするくらいが健全なのです(笑)。

あのような化石のような世界とは対象的に、
どこにも群れずに、自主的、主体的に美術活動をする作家が存在します。
私もその一人です。

来年の損保ジャパン東郷青児美術館で開催予定の『クインテット展』には、
そういう作家たちにスポットがあてられます。
皆様是非、このように自律した作家活動に目を向け、応援して下さい!

『クインテットー五つ星の作家たち』展

出品作家:児玉靖枝、川田祐子、金田実生、森川美紀、浅見貴子

会期:2014年1月11日(土)~2月16日(日)
開館時間:10:00 – 18:00 入館は17:30まで
会場:損保ジャパン東郷青児美術館

〒160-8338 東京都新宿区西新宿1-26-1 損保ジャパン本社ビル42階
Tel. :03-5777-8600(ハローダイヤル:美術館利用案内)
観覧料:一般500円(400円)、大学・高校生300円(200円)、中学生以下無料*(  )内は20名以上の団体料金
主催:損保ジャパン東郷青児美術館、朝日新聞社
協賛:損保ジャパン
アーティスト・トーク
1月11日(土)14:00〜児玉靖枝、川田祐子、森川美紀
1月18日(土))14:00〜、金田実生、浅見貴子

自戒ーアメリカの「国益」発言から学ぶ

たまに、せっかく書いたブログ記事を、下書きのまま公開しないことがあります。
今回の記事もそうなるでしょうか?

このところ寝る前に必ず第一次、第二次世界大戦について、書かれている本を読むようにしています。

そして分からない点はWiki検索をして調べます。
動画に上がっている見識者の発言や、塾の講義などもチェックしています。

知っているつもりのことが、案外いい加減な知識しかないことに気づき、近現代史を疎かにしていたことを反省することもあります(汗)。

エジプトに一体どんな問題があるのか?
シリアって、どんな国だったろうか、どうしてこんなことになったのか?

エジプトのイメージは、残念ながらほとんど頭の中がスフィンクスとピラミッドとクレオパトラ。
せいぜい最近知った大砂嵐という力士のことぐらいが旬の知識です(苦笑)。

シリアにしても、ドイツ留学当時に、語学学校の同じクラスにダマスカス出身のシリア青年がいたくらいしか知識がありません。
この青年の名前はすっかり忘れてしまっているのですが、とても好印象の記憶があります。
日本人くらいの小柄な人で、黒髪、目鼻立ちがはっきりしていて、いつもにこやかで明るく、気さくでした。
他のアラブ諸国の人たちの中では、着ている服装も何ら欧米諸国と変わりはありませんでしたし、宗教的なしがらみがありそうにありませんでした。
たしか法律を勉強するためにドイツに来たと言っていたと思います。

1984年当時クラスには、イスラエル、クェート、ベルギー、韓国、アイルランド、イタリア、アメリカ、イラン、インド、トルコ、ギリシャ、ハンガリー等、様々な国から若者達が集まって来ていました。

終末に皆が集まるパーティもありました。
たしかに最初は楽しかったのですが...(汗)。
宗教によって、ダメな食べ物があるのです。それが結構面倒でした。
お酒は飲まないとか、豚肉あるいは牛肉はダメだとか、そもそもラマダンで夜何時以降でないと食べないとか...(汗)。
ラマダンということもはじめてその時に知りました。
そうなると、「呆れた、わがままだ、付き合いきれない」という悪い空気も起きて来て、
いつも私は皆の言い分に挟まれて、クッションの役目をしていたように思います。
日本人は、何でも美味しいと言って食べますから、いい人だと思ってもらえるのかも知れません。

それぞれが食べれそうなものを持ち寄せ合って、食べることにしたこともあります。
イタリア人はパスタ、韓国人はキムチ入りカレー、クウェート人はサラダ、アメリカ人はポテトチップス、そして、シリア人は、クスクスというのを持って来ていました。「小麦粉から作る粒状の粉」です。
本人は、美味しいものだと言っていて、私も興味津々でしたが、「付け合わせのスープ料理をつくらないと美味しく食べられないね」と言って引っ込めてしまいました。
後にも先にも、クスクスを見たのはその時だけです(ちょっと心残り)。

その青年は、ドイツからシリアに帰ったのでしょうか?
今はどうしているでしょう?

どの人もいい人ばかりでした。
そして皆、日本人に興味津々でした。
いろいろ聞かれましたが、うまく説明出来ないこともあって、そういう時には、
余興に「ずいずいずっころばし」などをした時もありました。
すごく受けていました(笑)。
一人ひとりの拳の中に鬼の私が指を入れて行きます。
「チューチューチュー」って言うところに来ると、クスクス笑いながらくすぐったそうでした。

日本人に後でそのことを言ったことがあるのですが、「よくやるなぁー」と赤面されてしまいました。
???(苦笑)
言葉よりもスキンシップだと思うのですが、何か問題でも??

そういえば、アメリカ人はまじめで、正義感が強くて、清潔で前向きでスカーッとしていました。
イタリア人は、おおらかで、ラフでおしゃれさん。
イスラエル人は、頭良さそうな才女タイプ。
ギリシャ人は、ハスキーボイスのボーイッシュな美人。
イラン人は、苦労してドイツに来たと言っていました(雰囲気が俳優の藤田まことさんに似ていました)。
韓国人の親友ユニエルは、寂しがりやで人なつっこい人でした(女性同士で手を繋ぐ程仲良くなりたがりましたが、これは韓国人女性の日常的な習慣です。決して変な意味ではないそうです)。
クウェート人は、アメリカナイズされていて、テレビっ子でした(『奥様は魔女』など、日本人と同じアメリカのテレビ番組が放送されているらしく、共通の話題が持てることに驚いたものです)。

どの人も良い人でした。

ここで唐突ですが、なぜ、戦争は起こるのでしょう?

そのことをずっと考えていて、あることに気付きました。
今日のNHKニュースサイトに『米「軍事行動は国益の観点で判断」』という見出しがありました。
「国益」という「欲望」によって戦争が起こるのだということが露骨に表現されているように思えてなりませんでした。

その「欲望」はどこから来るのか?
シリアの人たちの救済という正義を建前とする、自国の経済的な利益としか映りません。
「もっともっと」という飽くなき欲望に取り憑かれて行く内に、孤立し、妄想に取り憑かれていくアメリカ。
それは良い人、立派な人であろうと思えば思う程、起きて来るという矛盾。
そういう絵が見えて来て仕方ありません。
そして、これは、かつての日本、ドイツ、ロシア、イギリスも同じように歩んだ道であることを忘れてはなりません。
日清戦争がどうして起きたのかを中学生に説明する優れた講義がアップされていました。
これと同じことが、今シリアで、エジプトで起きようとしています。

このような価値観の世界に巻き込まれないように、これからは注意深く生きて行こうと自戒しました。

「もっともっと」ではなく、「分」をわきまえよう。
「立派な人」ではなく、「地道に生きる人」であろう。
「積極的」ではなく、「冷静」であろう。
「攻撃」ではなく、「愛を与える」人であろう。
「目先の正義を叫ぶ」のではなく、「美徳」や「深い洞察」で考え続ける人であろう。
自分の「欲求を満たす」ための人生ではなく、人の「幸せを祈り願う」人生を生きよう。
人へのおせっかいは、ほどほどにして、まずは自分を正そう。

「不安や恐怖」は自分の他にあるのではなく、それを感じる自分の中に問題がある。
その問題を素直に受け入れ、自分を変えることに一生懸命になろう。

そして、解決を急がない。

これは、決してアメリカに対して言っているわけではありません。
オバマ大統領の記者会見の発言を見て、つくづく自分のこれからのこととして、改めて考え直したことなのです。

損得勘定でものごとを判断する価値観が人との争いを招きます。
「得にならないように見えること、すぐには実りになりそうにないことを一生懸命しよう」そう誓いました。

時代はまさに「メルトダウン」ーメダルド・ロッソ再考

メルトダウンと聞くと、あなたは炉心融解(ろしんゆうかい)を思い起こすでしょうか?
3月11日以来、耳にタコができるくらいに、この言葉を聞いて来ました。

しかし、ここ最近の国際的な金融の動きも、専門用語で「メルトダウン」と言うらしいのです。

時代の風潮はまさにこの言葉に集約されている。
あるいは後世になってから、「日本で原発がメルトダウンしたまさにその年に、国際的な金融の一連の動きもまたメルトダウンした...云々」と記述されることになるのかもしれません。

メルトダウンということをひとつの表象と捉えるならば、私はすぐにイタリアの彫刻家メダルド・ロッソ(1858-1928)の作品を思い浮かべます。

メダルド・ロッソは、知る人ぞ知る、近代彫刻史上に重要な功績を残した人ですが、同時代のフランスの彫刻家ロダンが、あまりにも日本ではクローズアップされているために、ご存じない方も多いのかもしれません。

私自身も、15年前にローマ近代美術館でいくつか作品を見た記憶があるだけで、日本の美術館で見かけた覚えがありません。しかし、一度見ればどの人も必ず脳裏に焼き付くほどの個性的な作風なのです。

大抵はブロンズの頭部の彫刻がゴロンと置かれていたりします。そして、その顔の目鼻立ちは、何だかはっきり致しません。まるで薄いベールで覆われているかのような、あるいはブロンズが溶けてしまい形を失いつつあるような、そのような彫刻表現になっています。

ブロンズ作品よりもむしろ石膏に蜜蝋などを使った彫刻を見ることができましたら、よりロッソの彫刻の良さを実感するはずです。独特な透明感と粘るような鈍い光沢を放つ彫刻を楽しむことができます。

詳しく調べたことはないのですが、一度細密に具象的な形を作り上げてから、蜜蝋を熱で溶かしていくような行程があるのかもしれません。

昨晩、煌々と輝く月の光を窓辺で浴びながら、なぜメダルド・ロッソはあのような表現を100年以上も前に残したのだろうか?その意図としていること、あるいは現在の私たちがそこから何を啓示として得ることができるか、そのようなことを考えながら眠りにつきました。

不確実性、記憶の喪失、境界の排除、。。。従来の価値や想定の崩壊。。。メルトダウン。いろいろな言葉が脳裏をよぎります。

その彫刻は周りの光や空気というような環境をも取り込み、不安定な変化の中に包まれる人間存在の不確定性を露呈しているかのようです。

それは決して力強い作品とは言えません。どちらかと言えば、移ろい行く世界の中で、ただ盲目に耐え、時の流れに消え行くような人間の哀れさ。。。

ひいては近代の科学への妄信に伴う人間性の喪失への警告。。。

これらがあたかもメダルド・ロッソの彫刻に宿ったのではないか。。。。そんなことを考えさせるのです。

さて、幼虫は蛹へ、そしてやがて蝶になるように、この蛹の中身は、不定形のドロドロの溶液で満たされています。その蛹の殻を破り、蝶になるとはどういうことなのか、それはいつなのか、今晩はそんなことを考えて眠ることにしましょう。

眠れる日本の新しい美術ーギリシャ問題に思う

しばらくご無沙汰していました。本格的に暑くなって参りましたが、いかがお過ごしですか?
私は梅雨前に立御簾というのを買い込みまして、南側の窓に設置しました。
風の通りが良い家なので、「今年は冷房無しで過ごせるかも」と今から期待しているところです。

この御簾は高さが3m近くあり、自分で買って手で持ち帰られるというものではありません。
最近は、ネットで何でも注文して、自宅3階まで配送業者さんが運んで下さるので、本当に便利です。
3本まとめて買ったので、配送料無料でした。
近くのホームセンターで買うと、配送料は別途1000円かかってしまいます。

そんなこんなで、水、味噌等食料品から生活用品、画材にしても、どれもこれもネットで買うようになってしまいました。その結果かどうかわかりませんが、とうとう近くのドラッグストアが2店たて続けに閉店しました。
世の中厳しいものです。震災後は商品が姿を消すほどの繁盛ぶりだったのに。。。。
そもそもドラッグストアが、自宅の南北東西ぐるりと、ひとつずつあるという程の激戦区ででしたから、無理もありません。結局、古くから地元に馴染みのあるお店が勝ち残ったのでした。

ポイントカードやら、安売りチェック、こまごまと工夫すると、それなりに安価な商品を買うことができたのでしょうが、私はあまりそういうのは苦手な方です。2店舗のドラッグストアさんには、本当にお気の毒でした。

最近つくづく思う事は、「適正価格って何だったっけ?」ということです。
確かに安い事はありがたいけれど、本当にその価格で、社会は成り立っているのでしょうか?
誰かが無理をしていたり、犠牲になっていたら、何も幸せな気持ちになれません。とても心配になります。
自分だけが得すればいい、なんていう生活の先に見えるのは、決して良い世の中ではないように思うのです。

日頃から不要なものは、捨てるよりも、なるべく必要とする人に安くお分けしようと、ヤフオクなどを利用します。
ですから、中古のもので十分なら、とてもリーズナブルに必要なものを買うことも出来る時代です。

本にしてもAmazonで中古本をチェックして買いますから、新品は余程の利点がないと買わない人が多くなっているかもしれません。ものを大切にすることは良いことではありますが、一方で著作料で食べている人には申し訳ないと思う事も多々あります。リスペクトや感謝に対して、対価を支払うという基本的なマナーを失ってはいけないように思うのです。

一方で価値をつくるということも、またこれがとても大変な仕事です。
日本はこれからいろいろな意味で、価値あるものを生産し、世界に向けて売るという事をしないと、まずいんじゃないかと、漠然とした実感があります。
何ら資源のないこの国で、これまで海外に売り込む商品を開発して来ましたが、時代の節目節目にその生産品を切り換えながらここまで経済が発展しました。そろそろもう車だけでは無理じゃないかと、感じるのは私だけでしょうか?

昨日まで高価だった電化製品の多くが、あっという間に低価格で店頭で売られてしまいます。
売るために必死になって、自ら首を絞めてしまう、この体質はいつまで続くのでしょう?
どこかでそれを止めるには。。。

そう、希少価値のあるものをつくる以外にないのです。
誰にも真似の出来ないものを生み出すのです。その一番の典型的な例が美術品なのです。

時代が変わっても、民族の違いがあっても、普遍的に流通するもの。それは古来から美術品でした。

美術品は、本当に明白です。誰の目からも、ああこれはとてもいいものに違いない、と思わせる何かがあるからこそ、美術品であり、それはどんな理屈も説明も必要としないのです。

そして、国際的な問題になっているギリシャの現状から、もうひとつ私は次のような事を感じます。
過去の美術品の良いものは本当に限られたものしか残っていないのです。
その大半は、博物館に収まってしまって、貿易の対象にはなりません。
ですから、新しい美術品をつくる人を見出し、育て、大切にしなければならないのです。

ギリシャ人がかつて築き上げた輝かしいギリシャ文化、その美術品は、もうすでに大半が略奪同然で、国外に安値で流出してしまっています。国内にかろうじて残されているのは、遺跡等の観光資源。
あとは、レプリカ等のお土産物くらいなものです。
ギリシャの美術家には、スペインで活躍したマニエリスムの画家エルグレコ(1541-1614)やイタリア近・現代彫刻家エミリオ・グレコ(1913-1995)という人が有名ですが、両者共に海外で活躍し、自国には何も作品は残されていません。

このギリシャのあり方と、対照的なのがイタリアです。イタリアが、ブランド品に伝統的な職人の技を活かし大切にして来た歴史に見習う点があるかもしれません。

また、近代以降今尚、イタリアの美術、デザインを含めて、世界の人を魅了し続けています。

私の好きなモランディに至っては、祖国のボローニャから生涯一歩も出る事がなかったため、ボローニャには、世界に誇る立派なモランディ美術館が遺されることになったのです。

日本の美意識は、世界に新しい価値を提供出来るだけの力がまだまだあると自負します。

ところが、日本はそれを眠らせたままなのです。そしてその適正な価値を見出す人が現われなければ、価値の無いまま、埋もれ、あるいは安価に流出して失ってしまいかねません。

「眠れる森の美女」はそれを愛する人にしか、目を覚ますことができないことになっているのですから(苦笑)。

追伸:このような募集をみつけました。自戒、自責をする時間があったら、外に希望を向けてはいかがでしょう?今こそ大志を抱くチャンスです。

経済産業省クールジャパン海外展開支援プロジェクト公募
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地震雲ー3月12日午前8時頃相模原西の空で確認

昨日3月11日の大地震の時には、近くのスーパーマーケット、ヨークマート付近にいました。
船に乗っているような揺れでした。
地面があれほど動くとは、ほんとうにびっくりしました!!!
道を歩く人は、皆立ち止まり、不安げに建物から落下物が落ちて来ないか、上を見上げていました。
その近辺は、特に崩壊した建物や道路はありませんでした。
とりあえず、急いで帰宅。

お陰さまで、自宅アトリエに被害はありませんでした。
本が2冊本棚から落ちたのと、電子レンジ上に置いてあった耐熱プレートが落下して割れていました。
ガスが止まっていましたが、地震緊急用の安全装置が働いた模様。
ツイッターで止まったガスの復旧の仕方を教えている人がいたお陰で、すぐにガスは復活。
電気もガスも水道のライフラインに問題はありませんでした。
作品にも何も影響はありませんでした。本当に、良かった。。。。
夜何度も、相模原市のヒバリ放送が聞こえて来ました。
市内の一部で停電が起きているとのこと。
16号等道路の渋滞のため、車で帰宅するのをやめて職場で待機している人もいたようでした。
またJR横浜線は、完全ストップ。

今朝は8時頃から運転が開始されたようです。
本日朝8時過ぎに、付近の様子を確認するために外に出てみました。
近くの農協の建物付近の西側の空低くに、地震雲らしき雲を発見しました。
縦に糸のように立ち上る白い1本のやや大きめの雲でした。
画像を撮っておけばよかったです。
帰宅してネットで地震雲を検索。
同じような画像をいくつもみつけました。
やはり、このように竜のように立ち上る雲は地震雲のようです。

昨日の地震の影響なのか、これからまだ起きる前兆なのか、判断する情報はありませんでした。
まだしばらくは、余震も続いていることですし、まさかのときの避難の用意をして備えています。
近くのコンビニは、昨晩の内に、めぼしい食料はほとんどすっかり売り切れになっていました。
缶詰や水、薬品、タオル、寝袋、貴重品等を登山用リュックに詰めてあります。
携帯の充電器は忘れないようにリュックの近くで使っています。
相模原は市内の小中学校が避難場所になるようです。
いざという時のために、懐中電灯を常に手の届くところに置いてあります。