福島の少女のことー「困難」や「限界」の創造性

早朝、ラジオから「福島」の情報が聞こえて来ました。

現状を伝えるドキュメンタリーをつくった女性が「福島の人たちは、ただお金を与えられても、生きる気力を失って、どう生きて行けば良いかわからなくなっているんです。」と力を込めて伝えていました。

福島という場所に、私は一度だけ行ったことがあります。
立ち寄っただけなのですが、確かに一晩泊まりました。
たぶんあれは、1989年か90年だったと思います。

私は当時1989年から1992年までの間に、毎年夏になると北海道のあちこちを旅していました。
函館、支笏湖、小樽、札幌、旭川、釧路、根室、知床半島、稚内、利尻島、礼文島...。

ドイツ遊学で知ったバックパッカーの生活を思い出すようにして、寝袋と生活に必要なわずかなものだけをリュックに詰めて放浪する、貧乏旅行です。
青春18切符か、郵船を使っていました。
北海道には、ライフラインが整ったキャンプ場があちこちあって、よく利用しました。
でも大抵そういう場所は、かなり辺鄙なところにあります。

函館では、キャンプ場が遠すぎて、ヒッチハイクしたこともあります。
小樽では、港の公演のベンチで寝て、かもめの声で目を覚ましました。
暗い所で、寝袋に入り顔まですっぽり被ってしまうので、気付かれることがありませんでした。

とにかく1日中歩き続けます。
休みたくなると、スケッチブックを取り出して、簡単なスケッチをしました。
食事は、トウモロコシとかジャガイモなどを1個買いして、リュックに入っているアウトドア用のコンパクトな鍋とバーナーで料理していました。

当時、中国からインドに仏典を求めて歩いた玄奘三蔵に憧れていたので、その練習のような気持ちがあったかもしれません。
それは、絵を描いて生きて行こうと決意するちょうど1年前であり、実際に作家活動する5年程前のことでした。

そんな旅を終えて、北海道から鈍行電車を乗り継ぎ、ちょうど福島駅で次の朝まで電車を待つことになりました。
とても大きな駅で、行き交う人がほとんどなくても駅周辺はいつまでも明るく、がらんとしていました。
寝場所を探すのに苦労しました。
それでも人の波が途切れるまで待って、寝袋に入ることにしました。

と、そこへ一人の女の子が近寄って来ました。14〜17才くらいでしょうか。
「どうして、こんなところで寝れるの?」
逆に私は
「どうしてこんな時間に女の子が駅前をふらふらしているんだろう?」と思いました。
風天な娘かもしれないので、少し警戒しました。お互い様でしたでしょうが(苦笑)。

私:「北海道から横浜に向かって鈍行で帰って来たら、電車がなくなったから、ここで寝るのよ。北海道でもこういう風に寝ていたから。」
少女:「どうして?」
私:「お金を節約しながら、なるべく長く遠くに行きたいから」
少女:「北海道で何をするの?」
私:「1日中歩いて、たまにきれいな場所があると休んで絵を描くの。」
少女:「いいなぁ、私もそんな生活してみたい。私、家にいるのがつらくて、こうして夜になるとこっそり抜け出すの。」
私:「何で?」
少女:「私、家の人に相手にしてもらえないの。お父さんもお母さんも、仕事仕事で、私のことなんかどうでもいいのよ。」
私:「家の人なんか気にしないで、自分らしく生きたらいいじゃない。」
少女:「私ここにいるのが辛いのよ。人も町も、ある時から変わってしまって...。小さい頃はこんなじゃなかったのに...。」
私:「何か、自分がしてみたいことないの?」
少女:「わかんない。お姉さんは、何?」
私:「ギクッ!私も、旅をしたり、絵を描いて探しているってところね(汗)。」
少女:「そっかー(笑)」

その時彼女の言っていることは、この駅が大きく真新しいことや、駅周辺ががらんとしているのに明るいことと、何か関係があるのかもしれないと思ったものでした。

私は「福島」と聞くと、この少女のことがまず頭に浮かびます。
そして、あの3.11の時にまず気がかりだったのも、この少女のことです。
あれから北海道に行けただろうか?
家の人とはうまくやっているのだろうか?
自分らしく生きているだろうか?

ラジオからは「人はお金だけでは生きられないんです。」という言葉が流れていました。

そう、「人はパンのみにて生くる者に非ず」。

皆、自分らしく生きることを求めているのです。

話しがちょっと変わりますが、前回の記事で、私のことを心配された方から「生活保護を受けてはどうか?」というアドバイスを頂きました。
「日々の暮らしの経済的な不安の中で、落ち着いて制作出来ないのではないか?」という危惧からです。
私自身も一時そう思い、生活保護について調べ、市役所にも相談に行ったことがあります。
そして結論として、受けることが出来そうにないこともわかりましたが、同時にリスクが大きいことも知りました。

一度受給し始めると、断ち切れそうにありません。
毎月入って来るお金を止められないように、ある収入以上のお金を稼がなくなります。

絵画を制作する人にはいろいろな人がいます。
作品はそもそも売れないと割り切ってしまう作家。
一般受けする作品を、販路を手広く持つ画廊で発表する作家。

私の場合は、そのどちらでもなくて、自分にしかできないような絵を、細々と何とか売りながら生活することが理想です。
売れ筋の絵が売れることよりも、一般受けしそうにない絵が売れることが、どれ程の励ましになるか、はかり知れません。
その励ましと収入をエネルギーにして、次の制作へと向かう「循環」が起きて来ます。
この循環が、「生かされていく」という自然の摂理と一体化することになるのだと思うのです。

私はまだ完全ではなく、自分を信じる力が足りません。
過信しない程度に、自分を信じる、その度合いが掴めていないからです。
それは徐々に自分で確かめながら、経験的に知るしかありません。
自転車で言うなら、ご寄付は補助輪です。
何とか支えて頂いています。
しかし、作品が日常的に売れる経験を積んで行けば、次第にその「循環」が自然に定着して行くのではないかと感じています。
ちょうど補助輪なしで、何度も転びながらバランスを体得して自転車が乗れるようになるように。
だから、いつ誰から寄付が送られて来るかが分からない方がいいし、おそらく自然に寄付が絶えたとしても、作品からの収入で生きられるようになるのではないかと、希望的観測を持ち続けるようにしています。
そして、与えてもらったものは、必ず何らかの形で自分も与えられるようになるはずだと思ってやみません。

人はたいてい「困難」や「限界」をなるべく避けて安定を求めてしまう。
しかし、そのことで失われるのは「実存」です。
漠然とした、自分の存在を確かめられないという悩みが始まります。
ひとつの問題が解決されると、次にはまた別の違う問題を見つけて悩み出すのが人間の常なのです。

そして、制作にはこの「実存」は欠くことのできないものです。
実存のない作品とは、誰が描いても同じだと言っているような作品です。
何か「のっぴきならない」自分を制作を通して確かめようとするからこそ、その人らしい作品が出て来ることになるのであって、その「のっぴきならない」心情が、この「困難」や「限界」で生まれるものだと思います。

ですから、「困難」や「限界」にこそ創造性の源泉があるとも言えるでしょう。
それは自ずと誰にでも与えられます。
ただ、それに対峙して、飛び込まなければならないのです。

それを上手に教えてくれる動画をご紹介します。
これはアーティストの生き方だけを教えるものではありません。
どのような人も、「ハンディを受け入れる」ことや「限界に目を向ける」ことで、その人特有の「困難」を克服し、それを個性として、創造的に生きられることをこの人は教えています。

フィル・ハンセン TEDトーク『震えを受け入れる』

*PCでは、日本語訳テロップが読めるようになっています。

ドイツ時代ーその6

ドイツを含め、ヨーロッパは中世の時代から、学生が各地の大学へ師を訪ねて遊学するという歴史があります。このような教養を身につけた放浪の旅人を市民が敬い、喜んで自宅に招いて、各地の情報を口伝えで知ったのだそうです。出版物を気軽に市民が手にする以前は、彼らから貴重は情報を得ることが、喜びや娯楽のひとつでもあったとも言われます。そういう話しを幾度か耳にしたり、本で読んだ覚えがあります。

私自身も、どこへ行っても大変親切にして頂きました。いまでもそのご恩を忘れることはありません。

例えばバーゼルの美術館では、ウルス・カウフマンさんという警備員の人が、親しく声を掛けて下さり、休憩時間に美術館のレストランで食事をご馳走になりました。大きな身体で、どこかルーカス・クラナッハに似ている雰囲気の人でした。食後にデミタスコーヒーを飲んだのは、それがはじめてで、沢山砂糖を入れる飲み方を教わりました。美術の勉強をしていて、美術館巡りをしていると言うと、「世界に誇れる美術館に勤められて、私はとても幸せなんだ」とおっしゃっていました。

聞けば、奥さんを早くに亡くされて、娘さんが一人と軍隊に入っている息子さんが一人いるということでした。でも犬の調教をしていて、犬と生活しているから寂しくはない、ということでした。調教師さんたちが集まる協会のクラブレストランに誘われて見学し、ワインを頂いたり、美味しいデザートまでご馳走になりました。挙げ句の果ては、ユースホステルまで車で送って下さいました。いたりつくせりで、本当に私は調子がいいったらありません。

こういうことは、これまであまり人に滅多に話しませんでしたのは、「女性が一人でふらふらして、誘拐でもされたらどうするんだ」とか「そういう甘い話しをして他人に返って悪影響を与えるから、そんな話しは若い女性にしない方がいい」と言われかねないからです。

しかし人というのは、自分の気持ち次第です。そして他人は自分の鏡だと昔から思っています。ですから自分にとって最も大切にしている美術の勉強を心がけている限りは、間違いが起こるはずがない、そう私は昔から信じて疑いません。それは私にとって,ある種の信仰のようなものとなっています。

そういうことですから、カウフマンさんからは、別れ際にとても素晴らしい話しが聞けました。私のドイツ語力も不確かなところがありますから、この話が事実かどうか、まだ確認した事はありません。しかし私が聞いた所によると、バーゼル美術館の裏手にはピカソ公園という名前の小さな公園があるのですが、これはピカソに対するバーゼル市民の敬意から、名づけられた記念公園だそうで、その由来にとても心を動かされました。

ある年、バーゼルに住む人のプライベート飛行機が墜落した事件が起き、その時に乗っていた人たちが全員亡くなり、飛行機の持ち主が遺族に膨大な慰謝料を支払うことになったそうです。しかし持ち主は、その資金繰りに大変苦慮していました。そこへ助け舟を出したのが、ピカソでした。彼は以前からバーゼル美術館から作品の所蔵の依頼を受けていたことを思い出し、充分な慰謝料になるだけの分の作品数を美術館に売り、その報酬全額を遺族たちに寄付したというのです。飛行機の持ち主だけでなく、美術館も、市民も、その遺族の人たち誰もがその話しを歓迎し、大変感謝したそうです。そこで、あの記念公園とともに、ピカソ作品のための特別展示室がバーゼル美術館に設置されたのだ、ということでした。

私はこの話しを聞いた時、美術にそのような人助けをする力があることをはじめて知り、大変驚きました。それまで美術は、自分の中でとても小さな個人的な楽しみとしてあったからです。社会的な役割とか人の役に立つ美術があることを知る機会もありませんでした。私はその話しをいつまでも忘れないために、ノートにカウフマンさんの名前とともに、私が聞き取った話しをメモして、今でも大切にしています。

あれから繰り返しこの話を思い返します。それにしても、未だに私の作品からそのような力は発揮出来ないままでいます。しかし、いつの日にかそのような精神で、作品を人のために役立てることができたら...、そういう気持ちをずっと心に秘めて制作しているのです。

ドイツ時代ーその5

昨日の記事に記録した美術館は、リンク先を見ても分かりますように、主にオーソドックスな古典的な絵画が見学出来るようセレクトしたものでした。

一つの目的として、ドイツルネサンスの画家、ルーカス・クラナッハの絵画をなるべく多く見ようという計画がありました。というのは、クラナッハの絵画約1000点はドイツ国内のみならず、ヨーロッパ各地で所蔵されていまして、それを目指すだけで、主な美術館を巡ることになるからです。また、1984年の滞在時に、クラナッハの板絵を初めて見た時に、テンペラと油絵具を混合した絵具の発色と質の良さ、そして線描(ハッチング)の繊細さにとても魅了されました。また硬い板に描かれているものは、やはりキャンバスという柔らかい布地に描かれているものとは、かなりニュアンスが異なるものです。

絵画は、より大きな画面を求められて、ルネッサンス以降、それまで壁や重厚な祭壇画から自由に移動可能な持ち運び自由なスタイルへと進化して行きました。そこで開発されたのが、船の帆からヒントを得て、布地を木枠に取付けるキャンバスです。この画材の登場で、より大きな画面が可能になり、大胆で大掛かりな描写が人々を圧倒させることに成功します。その例のひとつとして、ルーベンスの絵画などをあげられるでしょう。あの肉感的な人体のボリュームと躍動感のある表現は、柔らかなキャンバス地の上を滑る軽妙な筆さばきに由来するように私などは感じられます。そして大胆さや躍動感のある板絵というのはまず見た覚えがありません。その代わりに、何か緻密なミクロの世界が宿っていたり、丁寧で硬質な表現が魅力的なのです。

このような古典的な絵画を見たいと始めた旅でしたが、実はそのスタートからまったく相反する気持ちが生まれました。私の記憶に間違いがなければ、アントワープの美術館で、『20世紀近現代抽象絵画展』という展覧会を偶然見ることになったのです。それらの作品はだいたいどれも100号くらいのサイズに統一され、教科書でしか知らなかった、例えばイタリアのフォンタナのキャンバスを切り裂いた作品や、モンドリアンの格子のように見える作品、カンディンスキー、フランス抽象主義絵画、ピカソやブラックのキュービズムの作品、パウル・クレーなどのバウハウスの作家たちの作品、ダダイズム、ミニマリズムな作品等々、ずらりと紹介されていました。そしてそれらの作品にすっかり魅了されてしまったのです。がしかし、それらはままりにも範囲が広く集められていたために、「自分がこれらのどういうところに興味を持っているのか」がよく理解出来ませんでした。そして、「なぜそれらに魅了されるのか」を説明出来るようになりたいと思いました。

この気持ちをずっと抱きながら、古典的な絵画を見続ける旅になりました。その間に考えた事は、例えばこういうことです。古典的な絵画の多くはキリスト教やギリシャ神話を主題にした絵画なのですが、それらの話しを知る事は興味深いにしても、日本人の自分にとって、そういう宗教的話しや神話はあまり必要がなく、共感がしにくいということです。例えばギリシャ神話に出て来る女神ディアナをルーベンスがボリューム一杯にはち切れそうな女性の肉体表現で女神として描き切っている作品を見て、確かに凄いなと思っても、今の自分に心当りがあるとすると、イギリスのダイアナ妃がこの名前に由来して、やはり狩りの女神のような強さを感じるかもしれない、くらいの共感があるくらいです。

むしろ抽象的な絵画の表現の方が、あまり余計なものに惑わされずに、絵画の画面を直視出来るようにさえ思ったものでした。どのような絵画が私にとって心地よく、興味を持って向き合えるか。不思議さや神秘性をずっと抱き続けられるような絵画とはどういうものか。そういう絵画に出会いたい。そういう気持ちで旅が始まったのでした。

ドイツ時代ーその4

1986年のドイツでの生活は、イザローンという小さな町での生活からスタートしました。そこにもドイツ語学校ゲーテ・インスティトゥートがあったのです。ブレーメン校にすれば親しい人たちが居たのですが、また同じ生活になるのも考えものでした。

イザローンはデュッセルドルフの東約70kmにあり、ケルンやアーヘン、ベルギーの美術館に出かけられると思ったのです。ここで2ヶ月過ごした後に、ブレーメン校に移動しブレーメン大学の学生寮で2ヶ月暮らし、最後は大学で美術史の講義を聴講することも兼ねてハンブルグで半年生活しました。拠点を移動させながら、小旅行を重ねました。

小さな旅行用のノートが3冊が残っています。それをもとに旅行の足取りを記録しておきます。

1986年
5月18日 ドイツ ハンブルグ クンスト・ハレ・ミュージアム

5月28日 ベルギー アントワープ 王立美術館
5月30日 ベルギー ブリュッセル ベルギー王立美術館

6月 2日 ドイツ アーヘン ズエルモント・ルートヴィヒ美術館

8月 2日 ドイツ ベルリン ダーレム美術館 絵画館

8月 8日 ドイツ ブラウンシュバイク アントン・ウルリッヒ公爵美術館
8月 9日 ドイツ ハノーファー ニーダーザクセン・ランデス・ギャラリー

10月1日 ドイツ ミュンヘン アルテ・ピナコテーク(絵画館)

10月18日 ドイツ ニュールンベルグ ゲルマン国立博物館
10月22日 ドイツ ケルン ヴァルラフ=リヒャルツ美術館
10月22日 ドイツ フランクフルト シュテーデル美術館
10月23日 ドイツ ダルムシュタット ヘッセン州立博物館
10月23日 ドイツ アッシャーフェンブルグ 市立ギャラリー
10月24日 ドイツ コーブルグ/クロナッハ バイエルン国立博物館 フレンクリッシュ・ギャラリー

1987年
2月 3日 ドイツ ブレーメン 美術館
2月 4日 ドイツ カールスルーエ 王立美術館
2月 5日 フランス ストラースブルグ ノートルダム大聖堂美術館
2月 6日 フランス コルマール ウンターリンデン 美術館/イーゼンハイム 修道院
2月 7日 ドイツ バーゼル 美術館

2月10日 オーストリア ウィーン 美術史美術館分離派美術館
2月11日 オーストリア ウィーン アカデミー絵画館
2月12日 オーストリア インスブルック チロル民族博物館
2月13日 オーストリア インスブルック 聖ヤコブ教会

2月15日 ドイツ ミュンヘン
2月16日 イタリア バリ/ブリンディシ
2月17日 ギリシャ行き船アドリアティカにて宿泊
2月18日 ギリシャ パトラス
2月19日 ギリシャ アテネ(国立考古博物館
2月20日 ギリシャ レヴァディア
2月21日 ギリシャ デルフォイ(神殿)
2月22日 ギリシャ アテネ/パトラス
2月23日 イタリア ブリンディシ
2月24日 イタリア ローマ
(聖ペトロ寺院、キリナーレ宮、システィーナ礼拝堂、ヴアチカン、ボルゲーゼ美術館、国立絵画館)
2月25日 イタリア ナポリ(アンジェ家の城、国立博物館、カポデイモンテ国立美術館)
2月26日 イタリア フィレンツェ
(ドゥオーモ、洗礼堂、ジョットの鐘塔、ウフィツィ美術館バルジェッロ美術館ピッティ宮殿等)
2月27日 イタリア ヴェネツィア
(サンマルコ寺院、ドゥカーレ宮殿、コッレル美術館、アカデミア美術館、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会、フランケッティ美術館等)
2月28日 イタリア ミラノ
(サンタ・マリア・デルラ・グラチェ寺、ブレラ美術館アンブロジアーナ美術館
3月 1日 フランス パリ(ルーブル美術館

3月11日 ドイツ 西ベルリン(ヤクト城)
3月12日 旧東ドイツ ドレスデン(ツヴィンガー城 、ゼンパー美術館、ドレスデン美術館
ライプツィヒ(ゲオルギ・ディミトロヴ美術館、ライプツィヒ美術館
3月13日 旧東ドイツ ワイマール(聖ヘルダー教会、城、クラナッハハウス、聖ヤコブ教会)
3月14日 旧東ドイツ ゴタ(クラナッハハウス、フリードリッヒスタール宮殿)
エアフルト(アンゲル美術館、聖アウグスティン教会)
3月15日 旧東ドイツ ウィッテンベルグ(ルターハレ、アウグスティーノ修道院、ザクセン候の城)
東ベルリン(ボーデ美術館
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ドイツ時代ーその3

1984年のドイツ滞在は2ヶ月間のとても短い期間でした。目的は語学研修でしたから、美術館を思うように見て回れなかったのです。その後悔から翌々年の3年次(1986年から1987年にかけて)に、約1年の再渡航を決意したのでした。その間の1年はとにかく日本でできるかぎりドイツ語を勉強すべく、下記のようなスケジュールになっていました。好きなことができれば、疲れなど感じない性質で、眠い、辛いと思ったこともありませんでした。教員免許も学芸員資格もとりました。大学の授業は1日だけ休んだのみです。忘れもしません。その1日とは、博物館でのアルバイト後、南極の氷での飲み会に参加。私としては不覚にもつぶれてしまい、博物館の宿直室に泊まることに。それでも翌朝どうにかこうにか東銀座まではたどり着きましたが、二日酔いに負けて帰ったその1日なのです。

5:00 起床。
6:00〜8:30 電車内にてドイツ語予習。
8:40〜9:40 大学近くのファーストフード店でアルバイト
10:00〜17:30 大学授業
18:00〜20:00 青山ゲーテインスティトゥートにてドイツ語授業
20:00〜22:30 電車内にてドイツ語復習
23:00〜24:00 大学の課題制作、レポート作成
24:30 就寝

日曜日や大学の休みの日は、博物館でアルバイト。そして平日土曜日の早朝アルバイト。これらのお金を全てドイツ語学校の授業料に充てていました。

そしてさらに、留学奨学金制度にも挑戦したのですが、補欠に留まる結果となりました。八方手を尽くして、それなりに努力しての結果でしたので、その姿を見兼ねて、父がある朝口火を切りました。「他人のお金で勉強しても身に付かないという話しもある。」と意味深な発言。その発言はそこまでの話しで終わりましたので、どういうことなのか、しばらくピンと来ないでおりました。

例によって、なぜ自分がこの時期にドイツにまた行きたいのかを、自分に問い、やはりどう考えても「ドイツ美術をテーマにして卒業論文を書きたい、だからどうしても今ドイツに行き、出来る限り直接美術作品を見て回りたい」そういう気持ちが抑えきれなかったのでした。とは言うものの、父に自分の考えを打ち明けて、相談することも出来ないでいました。しかし、父は父なりに私がドイツ語を勉強する姿に思うところがあって、先ほどの言葉は、その助け舟のようにも解釈出来たのです。

そこで思い切ってこう頼んだのです。「私はどう考えてみても結婚には縁がなさそうです。世間の親は娘の結婚式・披露宴に貯金をしているものだと聞いたことがあります。もしそのような貯金があるのでしたら、結婚式にではなく、私の留学のために是非使わせて下さい。絶対に結婚式をしたいと一生言いませんから。」この話しは、その後何度も家族の冷やかしの種となりました(苦笑)。そしてその約束は、ずっと頑なに守られ続けております。私としては、今となってはそのような約束は、とっくに忘れてしまいたいところですが、その言葉があまりにも真剣だったので、呪文のようになってしまい、ずっと呪いがかけられたまま?なのかもしれません(笑)。

私はとても良いタイミングに恵まれました。日本はまさにバブル期に突入し始めた頃だったのです。当時母は隠し財産を持っていました。その株券は、ありがたいことに毎日うなぎ上りに上昇しました。妹はグランドピアノを、私はドイツ留学という夢にそれらが使われました。父と母はその夢を買うことが幸せ、と考えてくれたのです。

私はこの期間に語学習得や大学に拘束されずに、思う存分美術館巡りが出来るように計画を立てました。もちろん贅沢な旅行は出来ません。節約に節約を重ねて、学割のユーレールユースパスや1日の宿泊代が当時1600円のユースホステルなどを利用し、街ではバスを使わずに必ず足で歩くと決め、ドイツのみならず隣接するベルギー、デンマーク、フランス、イタリア、スイス、オーストリア、そして旧東ドイツ、遠くはギリシャへと、何回かに分けて可能な限り旅をしたのでした。

ドイツ時代ーその2

1984年の夏に、はじめてドイツに一人で旅立ち、とても恵まれた旅であったことを前回書きました。ドイツに降り立った最初の地はフランクフルトでした。夜中についてしまい、とりあえず朝の列車を待つまでマクドナルドで時間をつぶしました。ドイツのお店というのは、ほとんどが5時きっかりにどこでも閉まってしまいます。例外は、マクドナルドと駅の売店くらいで、本当にハッキリしていて、驚く程です。それは当時の事ですから、多少今は違うのかもしれませんけれど...。余談ですが、それではデパートやスーパーのレジで5時を迎えた時どうなるかといいますと、本当にぴったり5時にレジが閉め切られ、それ以降の人は買い物を諦めて、品物を返します。

そのようなことですから、夜にフランクフルトに到着しても、不便この上ないのですが、フランクフルトの飛行場から駅のある場所まで移動するために、市内の地図を確認などしているとあっと言う間に時間が経ちました。はじめての渡航で、興奮状態でしたし、何を見ても新鮮で、マクドナルドのメニューがドイツ語で書かれているだけでも感動してしまうような状態でした。そこで朝を待ち、インターシティという急行列車を利用してブレーメンへ向かいました。

語学学校には宿舎も用意されていて、先にそこに向かったと記憶しています。2人部屋で、同室者は、イタリア人のアレッサンドラ。黒髪の少し年上の静かな魅力的な女性でした。初日からは上手く話しができず、彼女のイタリア語訛りのドイツ語がさっぱり聞き取れませんでした。おそらくアレキサンドラと書くのだと思うのですが、この「アレッサンドラ」という発音を認識するのでさえ、何度も聞き返す程でした。

それまでの私のドイツ語学習歴というのがどの程度だったかといいますと、大学1年時は、関口ドイツ語のテキストだけで自習をしていました。通っていた大学には残念ながら、当時ドイツ語の授業がなかったのです。大学へは自宅から2時間半、往復5時間をかけて通っていましたので、その通学時間をドイツ語学習をする時間に毎日充てていました。ですから、テキストを読み、文章を丸ごと暗記して、辞書を引く程度が限界でした。次第にそれでは発音して実際に話す練習が足りないと思うようになり、アルバイトをしながらお金をためて、大学2年の春から東京青山のゲーテ・インスティトゥートに通うことにしました。その前期入門コースが終わって、後記コースに入るその中休みの時期に、思い切ってゲーテ(ブレーメン校)での語学留学を申し込んだのです。聞く力が身に付いていないのも致し方ありませんでした。

寄宿舎2日目の朝は、まだ語学学校が始まる前で、観光をするため町に出ました。メイン通りは、ブレーメンの音楽隊の銅像が設置されている市庁舎とアルトシュタット(古い町という意味)のほんの一角なのですが、どこも赤いレンガの石畳で、細い裏通りには昔ながらのドイツスタイルの建物がよく保存されていて風情のある街並が楽しめます。夕方からは、ガス灯に火が灯って、少し暗めの照明の中、レストランで夕食を楽しむ人たちで賑わいます。

ところがその2日目は、そのような観光をするだけの力がなく、そもそも地図を見ながら目的地へ行くこと自体が不慣れで、もたついているような状態。街角に立って大きな地図をひたすらじっと見ているだけで、時間が矢のように過ぎてしまうようなありさまでした。そこで見るに見かねたのか、一人のドイツ人女性が声をかけてきました。「どこに行きたいのですか?」簡単なドイツ語でした。顔を上げてみると、赤ちゃんを抱いているいかにも北ドイツ人らしい、すらっと姿勢の良い金髪の女性でした。私が簡単なドイツ語で地図上のアルトシュタットを指差すと、「そこならすぐ近くなので、まずは私のうちに来て、お茶でも飲んでからにしませんか?」と言われて、お言葉に甘えることに。

赤ちゃんを連れている人に悪い人はいないように思いました。彼女の名はヘルガ、当時34才、中学校の英語の教師をしているということでした。自宅は、集合アパートの3階。だいたいですが7畳のキッチン、8畳の寝室、洗濯機脱衣場2畳付きのバスルーム、15畳程のリビンググルーム。そのリビングルームの一角に仕事机、その上には電動のタイプライター、窓一面に棚を作って、観葉植物がたくさん並べられていました。

とても分かりやすくゆっくりドイツ語を話して下さるので、次第に耳も慣れて話すうちに、寄宿舎ではなく、ここから語学学校に通いなさいということになったのです。彼女は夏はバカンスで娘とアメリカに行くので、その不在中に観葉植物の世話をしてもらえばよいこと、中学校の自分のクラスで日本について簡単に紹介して欲しいということ、土曜日に南アフリカに牛を送る寄付を集めるボランティア活動をしているのでその手伝いもしてくれれば無償で良いからと、ホームステイを申し出てくれたのです。

ちなみに彼女は、単身で娘のインゲちゃんを育てていました。事情はうまく聞けませんでした。当時詳しく聞く力がなかったのです。彼女はいつも2時くらいまで勤務して帰って来るのですが、その間に赤ちゃんの世話をするベビーシャッターがいました。その階の下の同じ名前のヘルガという女性です。その人に赤ちゃんを預けて働いていました。そのヘルガはお姉さんとお母さん当時は3人暮らしでした。お姉さんの名はドルティア。彼女はいかにも南ドイツ人らしく黒髪でスラブ系の顔立ち、背の低い女性でした。上の階のヘルガとは親友で、同じくボランティア活動に参加していました。当時は旅行会社に勤めていて世界中を飛び回っている時期で、沢山のスナップ写真を見せてくれたことがあります。ヘルガの不在時期は、家族ぐるみで私を心良くもてなして下さり、私は甘えて北方の海や郊外の古民家博物館などへのドライブ、オペラ、映画鑑賞などあちこちに連れて行ってもらったのでした。2回目のドイツ滞在では、ドルティアが中心になって私の留学に力を貸してくれました。

ヘルガの話しでは、ブレーメンは古い街並も大切にしながら、一方で外からの人を受け入れる空気があって、とても暮らしやすい地域ということでした。私は出会いにとても恵まれて、この4人の女性からドイツのライフスタイルの多くを学ばせてもらいました。土曜日は街角に立って、「南アフリのために」と声をあげて、寄付を集めました。日本人の女性は目立つし珍しいということで、お金がよく集まると喜んでもらえたり、ヘルガがアメリカから帰る時期に世話をして来た観葉植物のホヤが見事に白い花を咲かて、それはとても珍しいことだそうで、私も嬉しかった記憶があります。

ドイツ人は、夜は火を通して料理をしないカルトエッセンが習慣です。赤ワインにパン、生ハム、チーズととても質素です。料理に時間をかけることは、日本では美徳のように捉えるところがありますが、ヘルガ曰く、ドイツではなるべく女性が夜をゆっくりくつろげるように簡素にすることが美徳だということでした。ドルティアのキッチンには、真っ赤なシチュー用のお鍋があって、当時ステンレスの鍋しかしらなかった私にはとても魅力に感じたものでした。それがフランス製のルクルーゼの鍋と知ったのはずっと後の事です。とても美味しく料理が出来る、ドルティア自慢の鍋でした。ドイツにはまな板というのがなくて、野菜を切りながら鍋に入れて行きます。その手さばきや、ジャガ芋の皮むき器具のピーラーというものもはじめて目にしました。ゴミの分別やリサイクル意識が20年前に既に出来上がっていましたが、当時の私にとっては、何もかもが素晴らしいことに感じたものでした。

本から知る事と、実際にドイツで生活しながら学ぶこととの間には、とても大きな開きがあります。百聞は一見にしかず。当時の私はまだ画家になろうとか、どのように生きて行きたいかというような道がはっきりと見えておらず、まったく頼りない足取りであったのですが、ドイツで知り合った彼女達が、私に問いかける「あなたはなぜドイツに来たのか?」「なぜあなたは日本の美術でなくてドイツの美術を知りたいのか?」というような率直な質問が、私というものを次第に形成して行く力になったことは確かです。日本人は、人にとやかく質問をぶつけることを、批判をしているという意味に捉えがちです。これらの質問を「何もドイツに来なくてもいいじゃないか」とか「なんで日本人なのにドイツの美術に興味を持つの?日本のことをもっと勉強したら?」というように。でもそういう気持ちから質問するわけではないのです。相手をもっとよく知ろうという気持ちで問うのです。そのような習慣が実は、子どもたちが早い時期に、自分の進路を考えさせる重要な教育になっているとも言われています。実際ドイツでは、小学生の時に、自分が職人としてマイスターを目指すか、大学に進学するか自分で決めて進路を選ばなければならないのです。

私がこのようなドイツの生活に最初から直接触れることができたのは、とても幸運でした。私が何かをしようとする時に、この「なぜ?」という言葉がどこからともなく頭の中で聞こえるようになったからです。なぜ自分がそうしたいのか?その「なぜ」を自分で一生懸命考え、答を見つけようとします。ハイデガーは、この「問い」を続けることの重要性を度々論じておりますが、それはハイデガーというよりもドイツ人のもともとの習慣や気質、文化そのものから発している哲学と、私には感じられます。

私は彼女達のおかげでドイツ特有の「問い」の文化を身につけ、それに導かれるようにして自己を形成しながら、ドイツ滞在中に画家への道が次第に見えて行ったとも言えるのでした。

ドイツ時代ーその1

ブログ記事を読んだ方から、いろいろなメールを頂いています。個々に返事を書く中で、ドイツでの生活や美術館巡りの話しの断片を書くことがありますが、振り返ってこれまで詳しく記事にした事がありませんでした。なるべく皆様のリクエストやニーズにお応えすべく、少しずつ記録して行くことにします。

思えば、海外にはたびたび行く機会に恵まれました。一番最初は大学2年生の夏1984年にブレーメンのドイツ語学校(ゲーテ・インスティテュート)に夏の2ヶ月間留学したことから始まりました。その時の経験があまりに恵まれたものでしたから、海外に出掛けること、生活することに味をしめてしまいました。

日本から往復飛行機チケットを格安で買い、と言っても当時は25万円くらいしたかもしれません。それでも格安の方でした。飛行機は忘れもしないパキスタン航空。必ずカラチの空港で足止めされて、ホテルに連れて行かれます。往復2回、計4回これまでに利用しましたが、当時4回ともそういうことになりました。最初は、どんなことになるのか、緊張して何も言えずに他の旅行客について行くだけでしたが、最後はホテルで思う存分美味しいものを無料で食べて、泊まって満喫するまでになっていました。海外での旅は重ねる毎に、めきめきサバイバル力が身に付きました。

今こうして平然と長野で暮らして行けるのも、実は一重にこの旅の経験によるところが大きいのです。旅では、常にどこの場所に居てもぐっすり眠れること、危険予知の本能を磨き、いざという時に自分がどうすれば快適な方向に向かえるか、そういうことばかりが試されます。

例えば、私はこれまでに海外で盗難にあったことがありません。悪名高きイタリア中を歩こうが、スペインの裏道を歩こうが、何も事件が起きませんでした。それもそのはず、そもそも荷物がほとんどない。お金もない。人が欲しがるような物は身につけなかったからです。いつもそこで生活している人の顔をして極力旅行者であることを悟られないようにしていました。

1986年のある時、ドイツの東ベルリンで、向こうからいかにも怪しい黒いサングラス、真っ黒づくめの服装のアジア系の男の人が歩いて来ました。私はとっさに日本人だと直感しました。向こうは少し戸惑いながら「日本人ですか?」と訪ねて来ました。モンゴル人の振りをして、やり過ごそうと思いましたが、その声があまりにも情けないようなニュアンスだったので、仕方なく「どうかしましたか?」と聞き直しました。

「実は恥ずかしい話しなのですが、ポーランドでロッカーに荷物を入れた時に暗証番号を後ろから見られていたようで、荷物を全部盗られたんです。それで大使館に行ったら、仮のパスポートと帰りの切符、少々のお金をもらって、飛行機が出るまで少し観光することにしたんです。トホホ」

見れば、荷物らしき物はなく、手にしているのはドイツ語の生活用語で「テュテュ」つまりレジ袋のみだったのです。そこに仮パスポートを入れて持ち歩いているということでした。旅の途中で、日本人に関わると大変なことになるとはそういうことで、大抵トラブっていて助けてほしいという話になります。ですから、「気の毒でしたけど、日本に無事帰れそうですし、身の危険がなくて良かったですね。では,私は先を急ぐので。」と簡単に挨拶して別れました。

当時私の荷物の最も高価なものはNikonの一眼レフでしたが、これも常に小さなリュックの底に入れて、身体からリュックを離すことはしませんでした。着替えはワンセットのみ。それ以外に持ち物はノート1冊にペンだけでした。宿泊は常にユースホステル。寝る時はリュックを布団の中に入れ、シャワーの時はベッドの足に錠前で固定することもありました。

旅行中の食事は、朝はユースホステル。大抵コーヒー、ミルク、トマトジュースかオレンジジュース、外が硬くて歯が立たないカイザーと言うパンに、ナイフをぐさっと差し込んで切り分けて、それにたっぷりのソフトバターとジャム。運の良い時は、ハムやゆで玉子が食べられるのでした。また食べ放題のミューズリーにヨーグルト、さらにフルーツが添えてある場合もありました。昼食用にパンを多めにもらうことが出来たり、それは禁止と書かれていたり、場所によってさまざまでした。

周りのバックパッカー達の様子を見ながら、次第に食事の節約方法も身に付きました。彼、彼女達は、トマトやキュウリを市場で買って、夕飯は野菜を中心に食べているようでした。また、私はお昼に、その土地の大学の食堂を訪ねるようにしていて、学食メニューを食べていました。とても安く、最安値のメニューはミルクライス。甘いホットミルクのおじやの上に缶詰のフルーツが小さく刻んでのせてあるというもので、当時1マルクメニュー、100円もしなかったのです。これに私の好みがぴったり合って、飽きることがありませんでした。

このように学食巡りをしている内に予期せぬ幸運に出会うこともありました。ウィーンの美術アカデミーの学食で、留学中の日本人と知り合うことになり、フンデルトワッサーの研究室を見せてもらう事になったのです。フンデルトワッサーは自然との共生をテーマに建築も手がけていて、それが見事にその研究室にも結実されていました。古い伝統ある学内に、ジャングルができていて、その植物と植物の木の影に、学生が自分のテリトリーをつくって作品を仕上げていたのでした。

そのような旅の途中でも、つい魔が指してしまうことも...。ベルギーのブリュッセルの王立美術館で、あまりに素敵な雰囲気で、ついレストランに入ってしまいました。それでもギリギリで支払える計算だったのですが、食べてしまった後に気づいたことに、その国は税金がとても高かったのです。そのことをレジに来てわかり、持っていたお金のほとんどを使い果たす事になってしまいました。その日がその旅の最終宿泊日でした。復路の電車のチケットは既に買ってありましたが、でもユースホステルの宿泊代が500円程足りません。銀行は閉まっている時間。翌朝に何とかしなければ、ユースから出ることができません。私は仕方なく、郵便局で記念にお土産として買ったヤン・ファン・エイクのゲントの祭壇画の美しいマリアの切手を売ることにしました。

駅の切符売り場の前に立ち、機械から出て来たおつりの小銭を掴んだその瞬間、その「人の優しそうなおじさん」につかさず声を掛けてみたのです。おじさんは、「何で切手を売っているの?」という顔をしましたが、切手というのは、分かりやすく数字で値段がついているものですから、まず人は疑う事なく換金しても良いと思うようで、取り敢えずその場をしのいだのでした。

このように旅での話しは尽きません。この当時私は『地球の歩き方』を愛読していて、出来る限り節約の旅を心がけていました。そして旅の目的はいつも美術館。訪れた町の美術館に必ず直行しました。美術館では、どこでも静かで快適で、危険が起きる心配もありません。やがてたまに町で画廊を見かけるようになり、遠慮がちに入れてもらい、現代アートにも関心を持つようになって行ったのです。

美術館で古い作品ばかりをずっと見ていると、少し変わったもの、新しいものが見たくなって行くものです。また、美術館の中には、その土地のゆかりの風景画ばかりを沢山集めている展示室というものもあって、そういうものもしっかり見て行くと、いかに名画が名画といえるものなのか、ということが肌で感じるようになって行きます。それは理屈や本に書いてあるから、という理由ではなくて、ありきたりな風景とそうでない名画の風景との間にどのような感動の違いがあるかを、自分の身をもって体感することになるからです。ですから美術作品は、理由とか理屈抜きで、とにかく沢山見る事です。その積み重ねから、自分の見る力が鍛えられて行き、やがて振り返ると美術作品から多くの恩恵を得ている事に気づく時が来ることでしょう。

京都への旅

4月3日~4日京都に滞在致しました。
ツイッター繋がりで、京都市美術館での展示を@tomo3141592653さんが見に来て下さいました。
量子論がご専門で、不思議な魅力を持った人で圧倒されました。近くの細見美術館でワインを飲みながら会談。

13:00~15:00は講評会に参加致しました。版画は技術と情感を重要視する世界であるというお話しが印象的でした。

その後明治神宮に建築キュレイターを目指す@kondoyukoさんが登場。

午後は@tomo3141592653さんのお知り合いの女性も展覧会に見に来て下さいました。胎教になったでしょうか?

@kondoyukoさんとは近くのあんみつ屋さんで会談。親知らずを抜いたばかりというのに、熱心にまじめにご専門の話しをして下さいました。

夜はその繋がりで、次々とお知り合いをご紹介下さいました。

4月4日は、午前中に京都国立近代美術館の『My Favorites とある美術の検索目録/所蔵作品から』
(無料入館日)を @kondoyukoさん、@tomo3141592653さんと一緒に観覧し、一人では得られない楽しいひと時を過ごしました。とてもお気に入りの美術館になってしまい、今後は気軽に京都に行こうと思っているところです。

@HIMA_personさんと京阪三条→平安神宮→水路閣→京阪三条を散策しながら会談。
とてもダンディな方で、物腰の柔らかい方でした。桜に集まる人の波、そして物理の世界の混沌とした海に溺れそうになりました。。。。(笑)

京都の皆さん、本当にお世話になりました。温かく迎えて下さり、心からお礼申し上げます。

追伸:京都で考えたことは、@HIMA_personさんのブログのコメントに書き込みました。
http://himahimakomatta.blog117.fc2.com/blog-entry-41.html#comment38

平安神宮の桜
明治神宮桜

只今『anamorfosis-symmetry-月の庭』が、京都市美術館で展示中です。

日本版画協会 第78回版画展京都市美術館
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/kmma/
2010年3月31日(水)~ 4月18日(日)
AM9:00~PM5:00 入場PM4:30まで
休館日:4月5日・12日(月)

ANAMORFOSISーSYMMETRYー月の庭-s@@

蔵王へ

蔵王の樹氷を見に、旅に出ました。

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山に囲まれて思う。
山は遥か遠くにあるのではない。

空がますます蒼くなり、山はしだいに迫り来る。
かつて爆発し、切り立った山は、なだらかになろうと今も動く。

山でさえ、土に還りたがる。
空に向かうのではない。底の方へ、奥底へと踏み込んで行く。
雲が乱れ、散り、流れゆく。山は黙し、ただそこに在る。

山が流れ、雲が不動になるは、如何なることか。。。
風に乗り、山を見下ろし、時も我も忘れて主客併せ持ち、
自在に宙(そら)を遊ぶこと。


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軽井沢へ

軽井沢  karuizawa

秋深まる軽井沢に、格安チケットを手に入れて、旅しました。

セゾン現代美術館では、『宇佐見圭司展  還元から大洪水へ』の展覧会を訪ねました。
1960年代の作品に惹かれ、チケットを頂いたことに感謝しました。

常設展示にドイツ現代作家のキーファーの巨大な作品があり、うれしく思いました。キーファーの作品は、一昨年、ベルリンのハンブルグ駅美術館(ハンブルグがベルリンに駅のプラットホーム丸ごと寄贈し移築して出来た美術館です)で、巨大作品群を見て以来です。腐食してゆがむ鉛色にドイツの空気感が重なり、いつも圧倒されます。今の時期にぴったりの作品でした。

旧軽井沢の秋の閑散とした別荘地を歩き、万平ホテルで暖をとり、駅に向かった頃にはみぞれがちらつき、駅からは雪景色を楽しみました。