母への手紙ー自律のすすめ

先日画廊から、「お母様が寂しがっておられます」という連絡が届きました。
私に連絡がとれず、画廊に問い合わせをしたようです。
これまでも何度かあることなので、画廊のオーナーもよく心得て下さっていて、
大変助けられております。
連絡を受けて、すぐに電話した後に、
次の朝には手紙を添えて長野の和菓子を送りましたが、
手紙の内容が充分でなかったので、今朝改めて伝えたいことを書き、
先ほど郵便ポストに投函して来ました。
7枚の長文になりました(苦笑)。
私のことを多くの人に知って頂くためにも、また画廊への報告も兼ねて、
その全文をブログにアップしておくことにしました。

プライベートなことなので、お見苦しい部分も多々あるかと思いますが、
画家も生身の一人の女性であることを知ってってもらう意味でも、
また同じような境遇の人たちへ、よい意味でも悪い意味でも参考になるかと思い、
そのまま露出することにしました。

 

前略

こちらは、もう寒くなると13度くらいまで気温が下がります。
長野の高原の方では、今年初めて零下の日があったようです。
日を追う毎に冬の到来を実感します。
玄関先には、ハナミズキの大きな木があり、
赤い実を沢山付けて、真っ赤に紅葉しています。

お母さんが、画廊に電話することについて、あれからまたちょっと考えていたら、
そういえば、子供の時、よくお母さんは、
「お父さんが口をきいてくれないと、しょっちゅうくよくよ悩んでいたな」
ということを思い出しました。

その時は、子供だったので、お母さんは犠牲者で、
お父さんは冷たい人、病気なのだとまで思わされていました。
たぶん、「お母さんはまだずっとそう思い込んでいるだろうな」
「私もお父さんにそっくりと非難しているだろうな」
と思ったので手紙を書くことにしました。

私はそういうお母さんの悩みを聞くのが、子供ながらとても辛かったので、
一度お父さんに直接どうしてそういうことになるのか、聞いてみたことがあります。
その時には、子供だったので、あまりよくわからなくて、やっぱり、
ずっとお父さんは意地悪な人で、お母さんはかわいそうな人と長らく、そう思い続けていました。

でも今、歳をとって振り返ると、わかることがあるので、
お母さんにそのことを教えなければと思いました。

日本は戦争が終わって、急激に社会が変わりました。
お父さんも、お母さんもその渦の中に巻き込まれて生きて来ました。
そしてその急激な変化によって、大まかに言うと、二種類の人が混じったような感じになっています。
その二種類とは、「自分の意志や考えを持って生きられる人」と「自分の考えが全くない人」です。

私が、日本の社会を見た感じでは、まだそれが1対9くらいの割合かなと思っています。
お母さんくらいの年齢の女性では、ほとんどが「自分の考えが全くない人」です。
それで、おばあちゃんをはじめ、お母さんの姉妹や親戚を見渡しても、
どうも「自分の意志や考えを持って生きられる人」は見当たらなくて、
お父さんと、裕子と、私だけが「自分の意志や考えを持って生きられる人」です。

でも、お父さんにしてもやはり最終的には、「自分の考えが全くない人」の中に飲み込まれてしまって、
自分の自由意思で生きられなかった人になってしまったと、私は思っています。

日本では、まだまだ、「自分の意志や考えを持って生きられる人」になるのには、
本当に大変なことなのです。
なぜなら、「自分の考えが全くない人」が家族の中にいて、足を引っ張るからです。
そういう人たちは、「自分の意志や考えを持って生きられる人」を
変な人、自分たちの秩序を乱し、迷惑な人、自分たちを軽蔑する冷たい人と感じるので、
ことごとく邪魔をします。
それは、悪気はなくて、自分たちを守るために無意識でしてしまうことがほとんどです。

お母さんが、長らくお父さんに感じていたのは、その違和感なのです。
お父さんとお母さんの間には、そういう大きな溝がありました。
そのことをよく知らないでお互いに結婚したことは、とても不幸なことです。
しかし、この溝に気がついていない人は、まだまだとても多いです。

私がそれに気がつけるのは、ドイツで生活したために、
日本の社会が、世界から見て、どういう特徴があるかが、よくわかるからです。
ドイツでは、「自分の考えが全くない人」はまず一人もいません。
なぜなら、子供の時から「自分の意志や考えを持って生きられる人」になるように、
家庭でも学校でも教育されるからです。
ですから、ドイツをはじめ、ヨーロッパの国の人から見たら、
日本に沢山いる「自分の考えが全くない人」達は、尊重すべき人間ではなく、
まるで大昔の奴隷やもしかしたら犬やネコくらいの下等な動物くらいに見えるのです。

日本は戦後、急激に経済発展し、今では世界に誇れるような最新のファッションや科学技術を持ち、
都会の光景も変わったし、見た目には、皆りっぱに見えるのだけれど、
ヨーロッパから見ると、上っ面だけ整えただけの、
まだ中身は奴隷のママの人たちと思われています。

お父さんは、終戦後、北海道に戻って「なぜ生きて帰って来たんだ」と親戚中から避難されたから、
おそらく「自分とはいったい何のために生まれ、どう生きたら良いのか?」と猛勉強したと思うんです。
そのおかげで、人からは変な人と思われながらも、
結婚するまでは「自分の意志や考えを持って生きられる人」であったと思います。
でも、家庭を持つことで、やはり次第に自分の考えを無くして、
家族のために働くお父さんに成り下がってしまいました。
本当に残念なことです。
お父さんには、いろいろな可能性があったはずです。
それを私と裕子とお母さんのために犠牲にしてしまいました。

そのお父さんの犠牲を、無駄にしてしまってはいけないのです。
裕子も私も必死になってここまで、変な人として頑張って来たわけは、そういう思いからです。
お父さんが、親戚付き合いをしなかったのは、
私と裕子が「自分の考えが全くない人」たちの犠牲にならないようにするためでした。
そのように守られて、「自分の意志や考えを持つ人」に育つことができたのです。

それにしても、「自分の意志や考えを持つ」ことはとても大変なことです。
日本の社会では、ドイツのように教育してはくれないからです。

そういうわけで、「お母さん」対「裕子と私」には、大きな生き方の溝があるのです。
お母さんの目から見れば、裕子と私は、冷たく変な人で、
お父さんの病気を受け継いだ厄介な人に見えることでしょう。
しかし、私と裕子から見ると、お母さんもその親戚も、
全く古いどうしようもなく悲しい人たちに見えるのです。

そこに巻き込まれるのが困るので、親戚付き合いを敢えてしないのです。

そういう意味で、私から見ると、お母さんがこれまでくよくよ悩んだりしている姿は、
残念であり、かわいそうなことです。

お父さんもおそらくそういうお母さんの行く末を案じて、
お茶のお稽古に協力的だったのだと思います。
お茶は、禅の考え方をもとにして出来ています。
禅とは、「自分というものは全く無い」ということと
「自分はしかし今ここにある」という相反した矛盾を、
自分のものにすることだからです。
この両方を自分のものに出来れば、どのような社会であろうとも、時代であろうとも、
自由に生きることが出来ます。

そういう意味で、「ほどほどに」親戚と付き合うけれど、
「自分の生き方は自分の意志で決めたからには譲らない」という生き方は、
禅修行した私の生き方そのものです。

ですから、「ほどほどに」しか、お母さんとも接しないのです。

私もまだ志半ば(こころざしなかば)なのです。
せっかくこれまで積み上げて来た生き方を、ちょっとした油断で崩すわけにはいかないのです。
そのように考えられるのは、自分の意志や考えを持って生きて来られたからです。
お父さんに、そのことは感謝しても感謝し尽くせません。

「自分の考えが全くない人」は、常に他人との関係で自分があると思い込んでいる人たちです。
自分が子供に対して「親」であるとか、
社会では学校で働いている「先生」とか、
会社で働く「サラリーマン」である、という具合です。
お母さんの場合は、お父さんの「妻」であり、私たちの「母親」であり、
おばあちゃんの「娘」という役割で、
自分は意思がなくても存在を主張出来ます。
しかし、その存在の仕方は、とても弱いありかたなのです。

職場から退職した途端に、学校の先生も会社のサラリーマンも、
「自分とは一体何だったのだろう?」と悩みます。
夫が亡くなり、子どもたちが独立してしまうと、「私って何のために生きていたのだろう?」となります。
そこで一生懸命親の介護をして、自分を無くして最後まで尽くそうとしてしまうのが、
日本のおおかたの女性の行く末です。

それで、自分の親が亡くなってしまうと、
結局自分が全く何も無くなって、ただ死を待つばかりになります。
中には、お金をたくさん溜め込んで、お金が自分だと思い込む人や、
家そのものを自分だということにする人もいますが、
最後に病院に入院して、裸にされて手術されたりすると、
自分の存在に何の誇りも持てなく、惨めな思いしか残らない状態になります。

おばあちゃんが、かろうじて自分の存在を確かめられるのは、娘たちがいるからです。
しかし、介護施設に入れられて、一人ベッドの上で眠っているときに感じるのは、
全く「自分がない」ことの恐怖なのです。
それは死んでいるのと全く同じだからです。

この最後の「一人になった時」に「自分は、十分に良く生きて来たな」と思える人に
「無」の恐怖などありようがありません。
あるいは逆に、「自分など全くの無」であるということを徹底した人もまた、
「無」の恐怖はないのです。

私が、お母さんにお茶を大事にしなさい、
お茶の修行に専念しなさいというのは、このためです。

お母さんは、私から見ると「全く自分が無い人」です。
今から裕子や私のようには「自分の意思を持つ」ことはムリです。
でも、お茶の修行を積めば、「自分など全く無い」の境地に至り、その経験を積むことで、
最後の最後に人が感じなければならない「無の恐怖」の試練に打ち勝つことができる、
そう私は思っています。
そうすれば、安らかな気持ちであの世に行くことができることでしょう。

医者は安全を提供しますが、安心を与えることはありません。
安心は、心の通う人か精神的なものしか与えられません。
心の通う人をあてにすると、その人なしでは安心は得られなくなります。
それは麻薬のようなものです。
そうではなく、精神的なものを自分の中に用意しなければなりません。
精神的なものとして昔は宗教がありました。
今の人は心からそれを信じてはいないので、それもあてになりません。
ですから、死ぬまでに、「これは自分の精神的な支えになる」
というものを自分の頭の中に持っていなければならないと思います。
その精神的な支えが、それまでに自分なりに積み上げて来た知恵の数々です。
心に残った励ましの言葉や、人から受けた愛情、芸術から得た感動、
生きて来て本当に良かったと心の底から湧き出る喜び。
それらの経験の数々を死ぬ間際に、ひとつひとつ思い返し、
自分はしっかり生きられて来れたかどうか思い返すことでしょう。
その時に何ら悔いなく、「これで良かったのだ」と納得して安らかに死にたいものです。

娘に介護をしてもらい、やさしく見守られて眠るように死にたいとお母さんは願っていることでしょう。
しかし、それは現実にはそうならないのです。
それをお母さんは、おばあちゃんの姿から学ばなければならないのです。

いつ人間が死ぬかということは、誰にも本人にもわからないのです。
そして死の最後にとことん最後まで付き合ってくれる特定の人は、誰もいません。
たまたま担当した看護婦や医者は知り合いでも何でもないし、
夜寝ている時に誰にも知られず死ぬ場合もあるでしょう。
私にしても裕子にしても、自分の仕事で精一杯で、
社会的な責任もあるので、ずっと看てあげることはできません。
だから、お母さんは、最後に誰かがいなければ、さみしいとか悲しい、
というような心細い性格を直しておかなければなりません。

それで、お父さんも、裕子も、私も、ほどほどにしかお母さんと接しないのです。
自分の考えや意思が無くても、せめて自律くらいはして欲しいからです。
でも、お母さんは残念ながら、おばあちゃんの世界に取り込まれると、
たちどころに弱々しく、情けない感じになってしまいます。
お父さんは、今でもあの世で心配していると思いますよ。
「あいつはいつになったら、くよくよする性格を直して、
一人でも明るくりっぱに生きられるようになるんだろう?」って。

「いいかげんに、人をあてにしないで、自分らしく、自由にのびのび生きれば良いものを」と。

私はというと、おそらくこのままで行くと、最後は一人で何でもして一人で死ぬんだなと、
今から覚悟を決めています。
裕子がその時生きていようが、亡くなっていようが、
最後は誰にも迷惑をかけずに、一人でしっかり死を迎えたと思います。

去年骨折して救急車を仕方なく自宅に呼び、一人で病院に入院し、手術までしましたが、
その時に死ぬ時のよいシュミレーションが出来たと思いました。
死ぬことになりそうだという予感が起きたら、自分で真っ先に携帯から救急車を呼び、
「最後はよろしくお願いします」ときちんと病院に一言伝えて、
一人静かに死ねるように心の準備をしておこうと思いました。
病院のベッドで、死を迎える時も、誰にも看取られずに、
「ただひたすら自分を信じて画業に邁進した自分の人生を振り返りながら、
思う存分やったと自分で自分を褒め讃え」て、
ゆったりとした気持ちで心置きなく死を迎えたいと思います。

「アトリエで孤独死」は格好良いようで、
実はアパートの管理側からすれば、大変な迷惑だと思いますので。

アトリエも家も、そういう意味でいつ他人が入って来ても、
恥ずかしくないように心がけていますし、
目立った財産も持ち物もありませんが、
大きな作品だけは残されると、人はどうしてよいかわからないでしょう。
そういうことにならないよう、
作品がほとんど行くべきところに行き着くよう日々努力しなければなりません。

死に順番もありません。いつ誰がどのように死ぬか、誰にもわかりません。

ですから、誰もがその期(ご)に及んで慌てず、騒がず、人様の迷惑にだけはならないよう、
しっかりした心構えを持って「日々是精進」しなければならないと思っています。

この手紙を、何度も繰り返し読み、お母さんは残り少ない大事な人生を、
どう有意義に生きるべきかをよくよく考えるようにして下さい。

追伸:この手紙を書くために朝4時半に起きて3時間半費やしました。
しかし、電話ではうまく伝えにくいことが書けたと思います。
電話では、余計なことをお互い口にすることになるので、
そういうことは避けたいと思います。
用件がある時は、電話ではなく、手紙でお願いします。

                                           祐子

追伸:Facebookで、この記事を紹介したところ、とても反響がありました。
ご自分の体験を教えて下さる励ましのメッセージも頂きました。
ありがとうございました。
また、ご意見ご感想に応じて、この記事の補足もしました。
ご興味のある方は、Facebook の方でお読み下さい。

yuko2014

母への手紙

私の母は、自分の身の丈に合ったわずかながらのお弟子さんに、ほそぼそとお茶を教えて、それを心の支えに生活しています。母がお茶の世界に出会ったのは、曾祖母の影響だと聞きます。曾祖母は岩崎弥太郎家のご子息達のご養育係として勤め上げた人で、当時の女性のたしなみを全て心得ていた人だったと聞きます。

しかしながら母は次女ということもあるのか、その曾祖母の直弟子とは言い難い、どこか抜けたところのある人です。ましてや母が真剣にお茶の世界に入ったのは60才手前のことで、その前と後では人が変わったようになったものの、それにしても、母の抜け方は底なしで、このような人が人様にお茶の道を示せるのだろうかと思うのです。しかし、世の中はそういうものではないと、つくづく教えられます。母には、母のような人を必要とするお弟子さんが集まるのです。

それに気付いたのは、母のこんなたわいもない話しからでした。母のお弟子さんに海外旅行を頻繁にする人があって、母からすると大変羨ましく、その度にどこに行かれたのですか?と聞くようなのですが、毎回同じ答えが返って来るというのです。

母:今度は、どこに行かれたんですか?

その人:家族が連れて行ってくれるので、私は付いて行くだけです。今回行ったところは、何という国だったか...、さて、名前が覚えられませんので...。

母:じゃあ、どんな国でしたか?何を見て来ましたか?

その人:さあ...、どこの国も似たりよったりで、私などは区別もできません。

母:(唖然)。

私に、そのような人はつまらない人だと母は言いましたが、その話を聞いた私は、なるほどと思ったのです。母は身の丈に合ったお茶をしているのだと知り、安心したのです。いやいやそれどころか、何だか禅問答のようで、可笑しくて、これこそが母のお茶の境地なのだとむしろ感服した程です。そのお弟子さんも、なかなかの底抜けでいらっしゃいます。こんなささいな話しにも深い味わいがあって、考えさせられます。

母は、どこも悟りなど微塵もなく、親らしいりっぱなことも言わず、いわゆる普通の人として生きていますが、その生き方が、全て、私に反転させた人格を与えることになるのです。

昨日久しぶりに母に手紙を書きました。そしてこのような手紙の内容になるのです。

「拝啓
一昨日、昨日と一箱ずつ届きました。パン、冷凍の魚、靴下、そして手紙、確かに受け取りました。とても助かります。ありがとうございます。
ー中略ー
世の中不景気だとか、美術品はなかなか売れないと言われることが多いのですが、しかしそういう中でも着実に仕事をしている人が、本物です。私もその中の一人だと自負します。私よりも若くして人気が出た作家を沢山見て来ましたが、制作を続けて行くことのできる人は、本当にごくごくわずかです。ほとんどが、結婚や就職などさまざまな誘惑や妨害により、制作を中断してしまいます。私はたまたま、育ちが良く、周りの理解に恵まれ、それにも関わらず世渡りが不器用なので、それらが作家としてとても幸いしています。
ー中略ー
お茶の修行は進んでいますか?無事に80才を迎え、きっとこれからが本当のお茶の世界を示せる年齢に達したと言えるのではないでしょうか。余分なものを削ぎ落して、本当に大切なものだけに専念することができることでしょう。

絵もお茶もその人となりを示して、相手を喜ばせるという意味では全く同じ内容です。その人が毎日どのようなことを心がけて生活しているかが、そのまま絵に、作法に表われます。ですから、まずは自分が生活を楽しみ、かつ深い世界を持たなくてはなりません。

深い世界とは、一つの物事を、いくつもの解釈でとらえることが出来るということです。例えば人が不幸だと言っていることの内容をよく吟味し、そうはいうものの、実はその中に沢山の幸福の種を見出せるというような見方です。物事を一つの判断でしか見られないのは、そういう意味で大変不幸なことなのです。答が一つしか用意されていないような絵は、すぐにあきてしまいます。いつ見ても新鮮で、分かり尽くせることがない。人間もそのようにつかみ所がない人こそが、良いお茶を立てられるのではないでしょうか。そんな気がしています。

どうぞ、お身体充分にご自愛の程。」

知らず知らず、私は親に向かって教え導くようなことを書かされます。それが母の教え導きの達人たる所以なのです(苦笑)。

育った家、父のこと

今日は父の11年目の命日でした。この11年を振り返ると、胸が一杯になります。亡くなった父のことを思い出して、淋しいと思うことはそれ程ありません。むしろ、亡くなってしばらくは、こういう時はこんなことを言うだろうな、と想像できるほどに父の考え方や言い方が頭にこびりついていている自分に驚き、その影響の強さに煩わしささえ感じたくらいなものです。

それでも自分の足で、しっかり歩いて来れたのは、父の教育の賜物です。それで感謝の気持ちで胸が一杯になるのです。

私は、父のお陰で、とても恵まれた環境に育ちました。海も山もある土地で自然に包まれて、のんびり過ごすことができました。自宅には玄関先の庭だけでなく、中庭、裏庭もあって、梅、松、竹、夏みかん、車輪梅、浜木綿等が植えられていました。全て父が育てて手入れをしていました。

夏の暑い日には夕方になると水まきの音とともに、土ぼこりの匂いがして来て、ひんやりとした風を楽しみました。家の造りが少し変わっていて、天窓も床窓もある家で、至る所窓だらけでしたから、夏でも土が潤うと、涼しい風がどこからともなく入って来るようになっていました。

しかしながら、これが台風が来るとなると、大変な大騒ぎ。どんなに小さな窓にも雨戸がついていて、それをひとつひとつ閉めてまわるのが大変なのでした。特に我が家の天井は、少し変わっていて、どこも3m以上の高さがありましたから、天窓は、雨が降り始める数分のうちに長い竹の棒でするりと閉めなければなりませんでした。びしょびしょになってからでは、雨戸が重くなって滑りが悪くなるからです。

考えてみれば、網戸がつけられたのは、かなり後になってからで、それでもごく一部の窓だけでした。天窓も床窓も高さが20cm弱くらいでしたから、夏の間は後はどこもたいてい開けっ放しでした。父によると、吉田兼好の言葉の「家つくりようは、夏を宗とすべし」という考えに従ったのだということです。

夕方になると、どこからともなく蚊が入って来ましたが、窓を閉めるのではなく、蚊取り線香を炊きました。寝る時は、蚊屋を釣っていました。昔はのんびりしていましたし、いつでも父がいるから、不用心だなんて少しも感じたことがありませんでした。

我が家では、夏の大イベントがひとつありまして。。。それは年に一度だけ、コーラを家族4人で飲む日でした。その日のためだけに4つのお揃いのコーラフロート用のグラスがありました。それが並べられ、瓶コーラが均等に注がれて、最後に父がドライアイスをのけて、まだ固いレディーボーデンのバニラアイスを大きなスプーンですくって乗せてくれるのです。乗せた瞬間に泡がぶくぶく出て、コーラの香りが漂います。コーラフロート用の細長いスプーンで、アイスをすくいながら、少しずつコーラを味わいました。コーラとバニラアイスが混ざった泡のあたりが、一番香ばしくて、美味しかったものです。

コーラやレディーボーデンのアイスは、父の独断で子供の健康にはあまり良からぬもの、ということで、1年に1度しか頂けませんでしたが、その1度だけというイベントで、このコーラに関しては、どれほど美味しい思いをしたか知れません。

しかしながら、その他の甘いものを沢山買って来る父の病気は、なかなか手強く、私は幼少時は、ありがたいことに甘いものを欲しいと感じたことがありませんでした。コーラにしても、1年に1度だけ飲めるのは楽しいことでしたが、2回も3回も付き合わずにすんで、ありがたいとさえ思っていた程です。

本当は、あまり恵まれずに育った方が、幸せだったんじゃないかと思うことがあります。今でも、父の愛情過多の思い出は、私にとってくすぐったくもあり、またほろ苦い思い出でもあります。

沢山の買い物をして人生を謳歌した父でした。大量の本、硯、石、壷、仏像、骨董品、流木、盆栽、金魚等々が家中にあり、どれもこれも集め始めると止まらなくなる父の病気は、なぜかその当時は、夫婦喧嘩の種にはなっても、そのことで借金地獄になることもなく、それでも存分に贅沢して生計が成り立っていたわけで、この時代から振り返りますと、まるで貴族のような生活でした。

年に一度は家族4人で旅行し、妹はグランドピアノを買い与えられ、私はドイツに留学しました。母は娘二人が独立してからは、お茶の稽古に専念し、教えることが出来るまで、お金をつぎ込みました。父は誰にも遠慮することなく、存分に買いたいものを買い、食べたいものを食べ、老人になる前にさっさと亡くなりました。

その父の贅沢三昧の生き方を見て来た私は、「世の中には、このようなわけのわからぬものに価値を見出して、お金を使うことができる人がいるのだ」ということを身近に感じて育ったわけです。だからこそ、わけのわからぬ絵を描いても生きていけるのではないかと、思うような人間になれた、あるいは、なってしまったのだと思うのです。おそらくこの感性は、誰もが持てるものではないと思います。

こんなことを言うのも何ですが、自分の生き方というのは、自分がつくるのだ、というのが昨今の考え方だと思いますが、私は自分の人生はこうなるべくしてこうなった、としか思えません(ちょっと無責任かもしれませんけどね)。そして、もし父の実態を知った人があれば、誰もがこの親にしてこの娘あり、とすぐに納得してしまうに違いないのです。。。(苦笑)。仕方ありませんね。それが運命というものなのかもしれません。

さて、父が今の私の絵を見たら、いくらで買ってくれるでしょうか?たまには夢の中で父に会って、そのあたりのことをよ~く聞いてみることに致しましょう(笑)。

my-father

父の収集癖

昨年の夏、実家の借地契約がきれ、40年間家族が生活した家を取り壊しました。母も妹も私も、人生であれほどの決意をしたことはなかったかもしれません。

決意もさることながら、父の遺したものを処分する作業は、想像を絶する程につらいものでした。つらさとは、ものに対する執着ではなく、ものの多様さ、量の多さから生じる肉体的なエネルギーの消耗です。精神的な消耗が薄かった分、父に感謝しなければなりません。

遺された母娘には、ものへの執着はもはや何もありませんでした。

父の蔵書は、別館2階書斎、書斎下の収納部屋、旧書斎の3カ所に散在していました。このたぐいの収集は、そうめずらしいものではないと思います。

父の収集はこの本からはじまり本で終わるのですが、これに平行して、さまざまな収集の波がおとずれ、やがて「癖」へと構築されていきました。

まず最初に記憶しているのは、「硯」です。「硯」を買ってくるたびに夫婦喧嘩が絶えませんでした。当時小学校低学年だった私は思いあまって、父に宛て手紙を書きました。『わたしがおかねをだすので、けんかはやめてください。』封筒にはお小遣いをためていた3000円を入れました。ところがショックだったのは、次の日その3000円がケーキになってしまったことです。私は幼いながらも裏切られたような気持ちになって、それ以上かかわることはやめました。旧書斎の押し入れには、母も私も目をそらすほどの怨念が山のように積まれていました。

その「硯」のブームは、次の一言で下火になりました。「中国で硯に使えるような石がなくなっている」何か都合のいい言い訳だったのかもしれません。

次の波は海からやってきました。閑をみつけては娘と散歩と称して、荷車を押して海に出かけました。くる日もくる日も、浜で石拾いをしました。それを家に持ち帰り、水で洗い、磨きをかけたり、中には鑞や椿の実をこすりつけて、光沢を出すような作業もしていたようです。そして、「この姿がいい」というものには、手製の木製の台座をつくるのです。石がぴたっとはまるように、丹念に溝が掘られ、中には中国風に装飾された脚を取り付ける凝り様。最後に赤や黒の塗料で仕上げです。それらがいつしか相当な数になって来て、陳列を楽しむ波がはじまりました。

玄関、居間、書斎、床の間と、あちこち石だらけになり、異常な事態に。

やがて、たくさんの流木も磨かれ、それに加わりました。

そこでまたもう一つの波が来たのです。石だけでなく壷や皿が欲しくなるわけです。ここからさまざなな古道具屋、骨董屋めぐりが始まりました。鎌倉の小町通、横須賀の坂上、横浜、軽井沢。私も幾度か連れて行かれ、店の主人との会話を楽しむ父の横顔を観察していました。

象牙の置物、備前焼の壷、青磁の皿、ツゲの一刀彫の七福神...。

口癖は、「そのうち高値になるものもある」でした。某テレビ局の「◯◯鑑定団」が放映される前の出来事でした。この波はかなり長引きました。どうしても欲しいものがあると、それまで買った、いくつかのものと交換することもあったと記憶しています。のめり込んでいくと、その集中力のあまり、頭の中はそればかりのことで一杯だったようです。毎晩夕飯時に、母娘は骨董うんちくを聞いては、「ついていけない」気持ちでお腹一杯になるのです。父一人幸せそうでした。それが何よりも救いではありましたが...。

次の波は「金魚」でした。実家は、父が自らいろいろ研究して設計したもので、中庭や裏庭の景色を楽しむ渡り廊下がいくつもありました。その廊下の木目装飾模様の入ったガラス窓がある時、部分的に透明なガラスに変えられ、外に水槽が設置されました。廊下の中から金魚を楽しもうという趣向です。父が、2~3匹では満足しないのは言うまでもありません。その水槽には、毎週のようにいろいろな金魚が買い足され、高価なランチュウと呼ばれるへんてこな形のものまで見ることができるようになりました。

水槽には浄化装置もつけられ、絶えず透明な水が保たれていましたが、あまりたくさん入れるので追いつかないので、とうとう3日とあけずに、こまめに水が取り替えられるようになりました。こういう手間のかかる作業が、父のもっとも得意とするところなのです。金魚への愛情もさらに深まり、とうとう、手でさすりながら金魚とコミュニケーションをとるまでに。その溺愛が、たたって金魚に皮膚病が流行る始末でした。

その後に続く、仏像コレクション。こればかりは、処分に悩みました。人間の顔を持つ仏像というのを処分するとなると、なかなか勇気がいるものです。母が仏様を粗末にしたら、父の怨念が祟るのではないかと言うのです。確かに、父は草葉の陰で、コレクションの数々が処分されているのを歯がゆく見ている気がします。何か思い切れる答えはないものか・・・、ない知恵を巡らせてみました。「そうだ!お寺に聞いてみたら?」ということで、母が鎌倉の報国寺に電話。答えはとても簡単なものでした。「欲しい人に分けてもいいです。ただ処分に際して祈祷したいというなら、してもいいですよ。」というあっさりとしたもの。そういえば、禅宗では、仏像を仏にあらずと火にくべた話がありましたっけ。母娘は気持ちも吹っ切れ、古道具屋に処分をお願いした次第です。

人間の顔を持つ仏像というのを処分するとなると、なかなか勇気がいるものです。

すべての父のコレクションを始末して、9ヶ月が経ちました。今のところ何も悔いはありません。中には売れたものもありましたが、売り方が下手で、父の思うような金額にはなりませんでしたが、でも本当に十分です。長年の頭の荷が軽くなり、すべてが良い思い出になりました。笑って人に話すこともあります。

お父さん、いろいろな思い出を残してくれて、本当にありがとう。

仏像コレクション

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七面鳥の悲劇

幼かった私と妹は、ある日手塚治虫の漫画でよく描かれている、
肉のかたまりを一度食べてみたいというようなことを話していました。
「ああいう大きな肉のかたまりは何の肉なんだろう?」
それを聞いていた父は、「それは七面鳥の丸焼きだろ。」ということで、
クリスマスのイブの夜、横浜関内の「梅屋」からローストされた七面鳥が買って来られたのでした。
(骨の先につける紙でできた装飾もついていました。)

当時7000円くらいだったと思います。
それを囲んで家族4人は、黙々と食べ始めました。
「にわとりより美味しいから有名なんでしょ?」
「漫画みたいにもっと原始的に手でかぶりつくように食べなきゃ。」
「にわとりとはやっぱり味が違う。」
「だって七面鳥だもん。」
「………美味しいの?」
「これが七面鳥という美味しさなのよ。」
「にわとりの方が美味しくない?」
「この野生臭さの良さがわからなきゃね。」
「……..。」
「もう食べられない。」
「大きいからね。」
「でも七面鳥の味はよくわかった。」
ということで、それでも2分の1は食べたでしょうか?なかなか食べごたえがあったのです。

母は、また明日食べよう、とそそくさと冷蔵庫に入れていました。
それがクリスマスのイブ。
次の日の夕飯、大鍋に骨と肉が入れられ、上品なポトフとなりました。
やはり味は鶏ではなく、七面鳥でした。
その次の日は、それがカレーに大変身。
父は「さすがにいい出しがでているからコクのあるカレーになった」と満足そうでした。
七面鳥の味はカレー味の奥に隠れ、食べやすくなっていました。

27日のお昼に、そのカレーはスパゲティーにかけられて出されました。
不思議なことに前の日よりも七面鳥の味がしました。
脳が味を覚えていて、せっかく隠れている七面鳥の味を舌の上でよみがえらせるのです。

28日のお昼には、それが季節はずれのそうめんにかけられて食べました。
何でも暮れの掃除をしていたら、まだ賞味期限の過ぎていないそうめんがみつかり、
それを今年中に掃除して欲しいというわけです。
そのころには正直言って、七面鳥はもうこりごりと思いつつも、
値段の高さに責任を感じて、黙って食べました。
カレーはそこで終わりました。

そして、29日、30日はどうだったのか忘れてしまいましたが、
口の中はこの七面鳥の味が1日中していたことは間違いありません。

でもまだ七面鳥の肉は冷蔵庫の中にあったのです。
31日にそれは年越しそばのつゆのダシとしてそばと一緒に浮かんでいました。
でも父には文句を言えませんでした。

そして迎えた元旦の日、
朝頂いた雑煮にも七面鳥のほぐした肉がもちに寄り添っていたのでした。
七面鳥の雑煮は、七面鳥のポトフと同じ味付けでした。
母にだけは、こっそり「もう七面鳥はうんざりだから。」と言えましたが、
それは母と私と妹の一致した意見でした。
父の感想は聞いていません。満足そうでしたから…..。

でも人間というのは1年たつとすっかり忘れてしまうものです。
次の年もその次の年も、この苦行が毎年繰り返されました。
「七面鳥」という言葉の響きと、クリスマスを家族で楽しく過ごすには、
あのスケール感は魅力的なのです。
それにくらべると、ローストチキンは何て小さく、そして美味しいのでしょう。
でも、やがて父は「七面鳥」を買いに行くのが楽しみになってしまったのです。

それは父の家族への深い愛情表現なのか、
単に買い物の優越感や自己満足を満たす行為だったのか、
今となっては本人に聞くこともできません。
この同じ食べ物を繰り返与えられる習慣は、
みかんと七面鳥だけではありません。
ユーハイムの砂糖がけのシフォンケーキ、モロゾフの大きなプリン、
和菓子攻撃、虎屋羊羹攻め、甘~いコーヒー、
牛乳たっぷりのミルクティ、ブランデー入りの甘く渋すぎるダージリンティ
などを思い出すことができます。