古本屋あちこち

確か以前、ドイツ語学習の父と称すべき関口存男についてご紹介した記事で、少々触れた古本屋について書いておくことにします。このドイツ語学習の本をとりそろえて紹介して下さったのが、横須賀市の安浦町の港文堂です。当時の店主は、私が大学を卒業する少し前に亡くなられました。今では娘さんが継いでいるのかもしれません。

当時は安浦駅という名前も今では県立大学という名前に変わったようです。各駅電車しか停まらない小さな駅でした。駅から歩いて15分くらいだったでしょうか?小学校に行く前くらいから、父に連れらて度々行ったものでした。自宅の本はほとんどが、ここから取り寄せたものでした。父が研究している内容を少し話すと、それについて膨大な情報が店主の口から次々と機関銃のように発射されるのでした。その勢いたるや、圧倒されるも何も、早口すぎてほとんどが聞き取れないのでした。ありとあらゆる情報を頭に入れた、さながら歩くWikipediaなのでした。

「それ」について調べるには、どれとどれの本を読まなければならない、そしてその著作の評判はどうなのか?情報は確かなのか?実は廃刊だがどこからその本は取り寄せられるか?そしてありとあらゆる分野を網羅していたことが、圧巻でした。父の専門とする書道理論、書道史の専門書もどこでどうやって調べて来るのか、みつからない本というものがありませんでした。語学については、英語はもとより、中国語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、オランダ語、ロシア語、そしてエスペラント語に至っては、その協会に所属して普及に努めた程。どの言葉も全て使いこなして、洋書の注文まで応じておられました。ですから、語学をどう学習するかということも永遠と話しが続くのでした。

話しによく耳を傾けていると、どうも頭に中に本棚が沢山あって、その一つ一つの棚にきちんと本が並んでいて、その本を抜いて開くと、その中身が全て再読出来るというような脳をお持ちのようでした。そして、その本棚は、いろいろな部屋に分かれていて、国会図書館であったり、神田の古本屋の一軒一軒であったり、あるいはまた、ある著述家の家の書斎であったりするのです。それらの書庫を行ったり来たりして調べられるので、面白いように次々とわくわくするようなお話が聞けました。

幼い私と妹が行くと、必ず絵本を用意されて、帰りがけにやさしく下さるのでした。店内にはお風呂屋さんのような一段高い番台がありまして、そこは畳2帖ほどの広さに周りが低く木の柵で囲われていまして、その中央に主の姑が和装で新聞を読みながら、典座してされておりました。あまり立ち読みが長過ぎると、新聞に落とす老眼鏡から上目使いに目をぎらつかせて、睨みつけ、「ちょっとそこ、お兄さん、そうあんただよ、あんた。いいかげんにおしよ!」と言うのです。物差しだか孫の手かを持っていて、ぴしゃっと畳を叩くことも。こめかみには、小さく小さく正方形に切ったサロンパス。えり抜きにふんわりとスカーフを入れ込んで、手を擦りながら火鉢の炭の火を起こし、釈然とまた新聞に目を落とす。そんな光景があったのでした。凛とした素敵なお婆さんでした。私が行くと、「大きくなったねぇ。」といつでもやさしい笑顔で迎えてくれるのでした。

聞くところによりますと、その店主が若かりし時から店に出入りしていたのを、そのお婆さんが見初めて、是非「内の養子婿に」と二人の有無も言わさずに、結婚をとりまとめてしまったということでした。ですから、店主は「大学に行って勉強をしたかった」が口癖だったようです。

ある時、家にその店主が珍しく尋ねて来ました。「先生のところに、同じ本が2冊あるのに、先生は3冊も内から買っているんだけど、その本をどうしても他の人が探しているから2冊引き取りに来ました。1冊あれば足りますよね。」と言うのです。父が、「そんな変なことがあるわけない。」と書斎と物置を探しに行くと、本当に3冊出て来たのでびっくり。驚きながら2冊手渡すと、「実は2冊目3冊目と気づいていたんだけど、悪く思わないで下さいよ。高く買い取りますから。」と言われたそうです。どこに何を売ったかも、全部頭に入っているということでした。

この本屋は、市内の小中学校の図書館に本を下ろす仕事もしていましたが、本も高額なものはなかなか動かないということで、店内の角の隅の方にアダルト本や漫画本のコーナーも置かれていたようで、そこからの収入で何とかなっていると話されていた記憶があります。私が港文堂の話しをすると、人によってはそちらの方で必要とされている本屋でもあったということは後から聞いたことです。それを聞いた時は正直ショックでした。あれだけの天才的な記憶力と博識は、何の為にあったのか?

店主は、癌で50代にして亡くなりました。近くの防衛大には医学部があって、そこの学生が必要とする専門書を扱っていましたから、医学にも詳しい人なのでした。医者のカルテからすぐに癌だと自ら悟り、やり残す事がないようにと、店の後のことも全て整えて、倒れる間際まで仕事をされていたそうです。

亡くなった日のことは今でも忘れません。その1週間前の朝に、妹が「港文堂のおじさんが家に絵本を持って来た夢をみたんだけど...。大丈夫かな..。」と言うのです。妹は同じように家に出入りしていた文具店の店主が文房具を持って家に来た夢を見て、その1週間もたたない内に、店主の訃報があったので、そのことを気にしていたのです。その妹の心配はあたってしまい、1週間もたたない内に訃報の電話が入りました。家族は皆驚きました。父は意気地がなくて、引きこもりでしたから、母がお悔やみに行くことになりました。

それが不思議な話で、まずその人の名字を初めて知ったのですが、その名前が聞いた事もないような名字だったので、家族皆で忘れてしまって思い出せません。そして無宗教で、お葬式がなく、お花も飾らないので無用です、ということでしたので、何をしたら良いのか分からず、取り敢えず伺うことになりました。行くと、玄関に入ったところに奥様がいらして、部屋にはお線香もお花も祭壇も何もなく、ただただその奥さんの相手をしてそれで帰って来たということでした。

その店主のことは今でも忘れられません。少なくともその人のお陰で、このように本を読む習慣を身につけることができました。そのことに深く感謝するとともに、その人の魂が安らかなることを願ってやみません。

ジャパンエキスポ・漫画文化・小田ひで次

たまには、立て続けにブログを書いてみることにしました。最近は、肝心なことは書かなくて、それ以外の内容になっていると思いますが。。。夏休み企画ということでお許し下さい。

つい最近、フランスとアメリカで、ジャパンエキスポが開催されたことが、サイト等で騒がれていました。日本のアニメや文化が海外でとても注目されているのです。

昔の記憶を辿ると、ちょうど20年以上前にドイツに留学した時に、語学学校のクラスメイト、ベルギーの人から真面目な顔で「日本の漫画は素晴らしい。ベルギーでは子供の教育に、とても重要視されてきています。」とドイツ語で言われて、何だか恥ずかしいような信じられないような気持ちになった経験があります。

日本では長らく、子供の教育に良からぬ影響があるものとして、漫画が大人達から批判されていることを知っていたからだと思います。私自身子供の時に、漫画を読むのも描くのも禁止されたことがあるくらいです。それでもこっそり読んだり、真似して描いたりしたものですが(苦笑)。

その後ずっと後になって、2006年にドイツのフランクフルトのブックメッセを見に行った時に、漫画の特設コーナーを見かけまして、その時から日本の漫画が日本の文化としてかなり重要視されて来ているという実感を持ちました。そして、その周辺に中国や台湾、韓国の漫画もちらほら置かれていて、日本の漫画の影響力が周辺のアジア諸国に広がりつつあることも、知りました。

中国は中国風の筆のタッチなどが面白く、絵も上手いなぁと思ったものです。韓国の漫画はほとんど日本と区別がつかない程になっていて、韓国のアイデンティティとはどのあたりにあるのだろう?と感じた程でした。

現代アートでも、アメリカのロイ・リキテンシュタイン(1923-1997)が、コミック漫画の1ページをそのまま拡大してキャンバスに描くというような表現が、既に1960年代初頭に発表されていまして、ファインアートが漫画表現を取り入れてから半世紀も経っています。当時は眉をひそめる類いの画期的な表現でしたが、今では教科書にも掲載されている程、極有名な表現のひとつです。

今では日本の漫画・アニメは世界に誇れる文化のひとつという意識が確立されつつありますが、これにしてもよく考えてみると、アメリカの「バッドマン」や「スーパーマン」のようなコミック、あるいはデズニー映画がなかったら、またこれほどには発展しなかったかもしれないと私などは思います。

よい意味で、漫画文化がアジアの諸国や世界を結びつける架け橋のようになったらと思います。グローバリズムと各国のアイデンティティの尊重は、なかなか両立するのが難しい課題ではありますが、自分の文化のルーツをしっかり認識した上で、世界に向けてプローチできるような漫画が、今後増々重要視されて行くに違いありません。模倣が進み、様式化した時点で、ひとつの表現形式は使い古され、魅力のないものに陥るからです。

さて、このようにジャパンエキスポという言葉が、なぜか最近シンクロしていまして、図書館の特設コーナーで何気なく手にした本『なぜ今どきの男子は眉を整えるのか』に、なぜかジャパンエキスポのことが書かれていて、びっくりでした。かなり詳しく、フランスでのタタミゼ(若い日本文化愛好家のこと)のことが紹介されていました。この文章を読みますと、漫画やアニメを越えて、母系社会に育った日本人の若者のセンスがいかにフランス人をはじめとする世界の多くの若者達の心を鷲掴みし、痺れさせているかを知って、驚くばかりです。日本人はおそらく、まったくもってそのことを知らないのではないでしょうか?まぁ、それが日本独特のクールジャパンの様相そのものなのかもしれませんが(苦笑)。まだまだ日本人には世界に誇れる固有のセンスが隠れ潜んでいます。それらは磨き輝く時を、じっと待っている国の宝と言えましょう。

そうそう、久しぶりの宣伝もしておきましょうね。漫画家小田ひで次さんの『夢の空地』には、私の作品と作家活動がちらりちらりと紹介されています。この本は2005年10月31日に、日、仏、英、西、伊、蘭6カ国語同時刊行されました。もうかれこれ6年になりますが、そろそろ日本現代画家の存在も漫画とともに広く世界に知られても良い頃でしょうか(笑)?いやいや、リキテンシュタインの絵が日本の美術の教科書に載るくらいですから、後50年もすると、フランスの教科書に掲載されることがないとも限りませんよ(大笑)。

小田さんは『拡散』という漫画で、フランスで高く評価された希有な漫画家です。この漫画は、哲学的な虚無の世界観を、美しい繊細なタッチで抽象性を損なうことなく表現することを可能にしました。小田さんは、この作品に全人生を全て注ぎ込んでしまったために、自分自身がしばらくは真っ白な状態が続いたようでした。そういう苦労話をぽろぽろ話してくれます。私は世界のどの漫画よりも、この作品が好きです。おそらく50年もすれば、歴史的な珠玉の漫画作品として、もっと広く知られるようになる違いありません。フランスの若者達が、これに痺れてしまう理由がとてもよくわかります。これはすでに娯楽の域を超えた、視覚的な哲学表現なのです。漫画の最大の特徴である物語性を最小限に抑えて、しかしながら停止した絵画表現とはどこまでも平行線を辿りながら、漫画と哲学という大きな課題に挑戦した珠玉の作品なのです。漫画にはそのようなハイソな内容がすでに織り込まれて来ているのです。

小田さんは、私が1998年ころに銀座の暗い地下で個展をした時に、人のうわさでぶらっと見に来られて、それから交友を持つようになりました。偶然同い年で、お互いに考え方や、感じ方が手に取るようにわかるところがあります。いつの日にか、私の作品に囲まれて仕事するのだと、会う度に言って、励ましてくれます。

小田さんの今後のご活躍が期待されます。哲学シリーズの漫画作品、是非また拝読させて頂きたいです。未発表のあの作品、是非刊行して欲しいなぁ~(微笑)。
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斎鹿逸郎

『斎鹿逸郎・木下晋 二人展 えんぴつ画』9月15日~25日 Gallery ジ・アース(tel.0427-25-5235 鎌倉市雪の下1-6-22)の斎鹿逸郎氏の作品を見に昨日出かけました。斎鹿氏の作品は、以前『アクリラアート』という雑誌で紹介されていた記事を読んで知っていましたが、今回はじめて直接作品を見ることができました。

鳥の子という和紙に胡粉を塗り、鉛筆で描き、また胡粉を塗り重ねるという作業をしながら、次第に画面の奥から「形なき形」が浮かんでくる作品です。私がこれを「形なき形」と書いたのは、生命がまだ生命を帯びる以前の死と生との未分化の状態を私自身が感じるからです。それは胡粉(貝を砕いてつくられる日本古来の地塗り材)の白と鉛筆の亜鉛の黒が、無機質な静けさを醸し出すのに成功しているからかもしれません。しかしそれだけ
でなく、斎鹿氏の形なき形をつくり出すセンスに品性が備わっているからだと言えます。

黒を使うと、暗く陰湿、奇妙でシュールな形態が出て来やすいものですが、氏の作品にはそれはどこにも感じられません。おおらかでやわらかな空気が画面全体、そして画面の奥にまで染みわたっています。(作品、画歴などはこちらで紹介されています。http://www.soufuu.net/

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2階展示室の斎鹿逸郎作品部分

幸運なことに、直接斎鹿氏と画廊内でお会いし、お話を伺うことができました。その一部をご紹介します。

K:作品は床に置いて制作されているのですか?
S:床に紙を置かないと、胡粉がうまく塗れません。胡粉はすぐに乾き、その上にベニア板等を置いて描いていきます。

K:紙に胡粉を塗ることで、紙がグニャグニャおどりませんか?
S:麻紙にしないのはそのためです。麻紙が一度しわになりはじめると、ただではもとにもどりません。鳥の子はその点強いですが、胡粉が乾くとき、随分縮みます。

K:きっと多少紙がおどっているのでしょうけれど、描いたものが目の錯覚で凹凸があるように見せているのか、紙が本当に凹凸になっているのか、その両方が錯綜して画面に厚みが出ているのでしょうね。
S:私の作品は図版ではよくわからないのです。ですからそれが損していることもあるけれど、かえって直接見たいと思ってくれるのなら、結果的に良かったってことだね。

K:そうです。図版で何もかもわかったような気になるような作品だったら、今日こうしてわざわざ作品を見に来たりしません。
S:ぼくはそれを魚釣りに例えています。作品に何かを仕掛けることができれば、ちゃんとその餌に食いついてくる人がやってくる。

K:その餌がとても魅力的だったので、ここまで来てしまいました。斎鹿さんの作品にはやわらかい奥行きがあるので、そこに吸い込まれていきます。画面を平面的に処理している作品とはそこが違います。わかりやすい作品を図版で見て、わかったような気持ちになって安心したい人が多い時代かもしれませんが、それはとても残念なことです。もっと作品の深さを楽しむ人が増えるといいなと思います。
ところで、こういう作品の場合、どこで完成とするのでしょうか?
S:白い作品の場合、黒に対する白さの度合いが自分の中であらかじめ決められています。それでそれ以上黒かったり白かったりしないようにします。全体のバランスから部分部分の白さの度合いが決まってくるんです。

K:完成した後からまた手直しをするということはありますか?
S:無いです。もう見るのも嫌になります。
K:どこかを直したらまた全体が崩れてしまうかもしれませんね。

氏とはこの後も話がはずみ、中心性網膜剥離になって、それを克服された話や、最近白血病で倒れたにも関わらず、無事回復して、すべての血液が入れ替わったせいか、とても身体が調子良いという話をうかがうことができました。結局あたりは日も暮れて、一杯飲みに行こうと誘っていただきました。後から画廊のオーナーの若山さんも加わり、ゆっくりとした時間が流れていきました。

白血病で倒られた時に、1週間程生死をさまよったそうですが、死なずにすんだのは、崖を上っていて、誰か男の(画家のようなきがする)人に後ろから引っ張られて、こちらに戻ってきたということでした。そのあと、さまざまな妄想がとてもリアルに目の前に見え、それは克明に記憶に残っているそうです。あまりに奇想天外なので、文章に残したいということでした。その一端をここに記しておきます。

その1:気づくと松尾芭蕉がお金持ちの弟子を自分に紹介したそうです。その弟子がいかにお金持ちかというと、金ぴかのトイレにしてしまったというのです。それを見せて、松尾芭蕉はいかに困ったことかと、何かいい訳のようなことを自分に向かって言っていたというのです。

その2:看護婦さんが実は中国の薔薇と牡丹を紋章にしている金子という民族の王族の娘で、その娘さんが今度18才になるので、中国に帰って王女になるのだと言っていたそうです。

その3:氏は気づくと、中国の洞庭湖の北の方にいたそうです。そこで、詩人で有名な李白に会い、何か詩を書かないかと勧められたそうです。そしてりっぱな詩は石に彫るものだから、あの石を使いなさいと石を見せられたそうです。そこでもう一人詩人を訪ねていくのですが、その詩人も何か言い訳を自分にしてきたそうです。

もっとその妄想は続くのだそうですが、途中から私が書道の話を伺ってしまって中断してしまいました。さて、氏と私はこの中国の妄想の話から、中国の明清の書家や日本の良寛の書、はたまた横山大観の書に至るまで話題が盛り上がってしまいました。そして、書道の臨書の模倣を弊害と考える点や、書道の歴史が実は絵画を制作する上でとても重要なことを伝えていると感じていた点で、意気投合しました。

私は、このように書について語ることのできる作家と出会ったのは初めてです。私が斎鹿氏の作品に魅かれる理由が、その作品の底に中国や日本の伝統文化を水脈とする大きな川の流れがあって、そこから水を汲み上げるかのように作品をつくる方法をご自分で自然にあみだされているからであり、それは私の作品制作ととても共通している点であることを知りました。ふと、帰りがけ、私は韓国の画家イ・ウンノ(1904-1989)http://www.ungnolee-museum.org/2004/main.aspと、もしお会いすることができれば、これと同じ話をすることができるに違いないと思ったのでした。そして、斎鹿氏はこの作家をご存知だろうか?とも思ったものです。
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