癌摘出手術の経験と自己信頼

前々回のブログ記事に、エマソンの「自己信頼」について書きました。その時に、「そうは言うものの、そもそも本当に信頼に値する自己になっているのだろうか?」という素朴な疑問が後味に残ったのでした。つきつめて言えば、自己のどこに信頼を持てばいいのかという問題もあるように思えます。自分の至らないところばかりが鼻につくばかりでなく、そもそも不完全であるからこそ、他人とは異なる、固有の自己として存在出来ているとも思われます。その不完全さが、ある意味私の魅力となる可能性も無きにしも非ずです。

さてそのようなことを、ふつふつと考えていましたら、あることを思い出しました。私は2007年に初期癌がみつかり、二つ臓器のあるうちの一つを摘出する手術を受けました。この時に、ある選択を迫られました。「癌の転移のリスクを考えて、もう片方と周囲の臓器を含めて全摘出することもできますが、どうしますか?」という判断を自分でしなければならなくなったのです。癌が怖いというよりも、むしろ自分でその答を出す事に自信がなく、そのことに恐ろしささえ感じた程でした。

その判断が正解ならしばらく生き延びられ、誤った判断をしたら死への近道を選ぶことになると、そう思ったのです。居ても立っていられなくなり、当時ウェルネス相模原の医療関係図書の閲覧室に毎日通い、その関係の本を必死に読みあさりました。並ぶ本のタイトルからは、自己の正しい判断を教えてくれるような本がみつかりませんでした。例えば『がん告知 これで大丈夫ー正しい自己判断の指針』というような本があればと思いましたが...。しかたなく、様々な人たちの経験の中に、きっと良い判断のコツのようなものが書かれているかもしれないと、手当たり次第読みました。ところが辛い、辛いということしか書かれていません。

ところが、答というのは、もうダメかもしれないと半ばあきらめて脱力した瞬間に、思ってもみないような場所から発見されたのです。それは,癌患者さんたちの経験談からではなく、ある医師の巻末あとがきの経験談にぽろっと書かれていたのです。それを読んだ時には、思わず「これだ!」と叫びたくなった程です。

その内容をかいつまんで書きますと、「ある癌患者さんを受け持って、完璧な癌摘出の治療を行った事がある。しかし、最善を尽くしその時は完治したにもかかわらず、しばらくすると、また違う場所から癌が発見されてしまった。何度もその繰り返しだったが、その度に患者さんも根気づよく手術に挑み、医師たちも複数の科で連携して万全の体勢で次々と癌摘出手術を行った。どの手術も成功したが、最後癌をようやく克服したと思われた矢先に、この方は交通事故で亡くなられた。その時、人には決められた寿命があること、人は必ず死ぬ運命にある事を悟ると同時に、医師が出来る事は、多少その寿命を延ばす事というよりも、その患者に誠意を尽くし、生きようとする意欲に応えることが大切なのだと思い知った。」

私の記憶ですから、多少文章のニュアンスが違うかもしれませんが、このような文章を拾い読みし、まさに私が求めていた答えがここにあると思いました。

結果、私は生きようという意欲を持つ自分の運命にゆだねることにしたのです。ですから、最初から全摘出という自己判断はやめ、手術の間、細胞審にかけて、もし残りの臓器にも癌が発見された場合は、両臓器とその周囲の全摘出をする。その細胞診の判断に、一か八か賭けることにしました。どういう場合が起きても、それが私の運命と思うことにしたからです。

とても静かな気持ちで手術を受けることができました。迷いも苦悩も後悔も何もありませんでした。そして若い担当医師の方々がとても神々しく見えました。手術前に全身麻酔をかけられたので、目が覚めた時には、ただもう手術は終わっていたのでした。

結果、片方の臓器を摘出したのみで、こうして無事に5年生き延びています。

この経験を度々思い返しますが、ある時ふいに「もしかしたら、あの手術の前に自分の答えが見つからなかったもう一人の自分は、もうとっくに死んでいるのかもしれない」と思うようになりました。弱い自分という別の人格が別の世界に存在し、自己の存在を強く信じることのできない魂は、あの時にその弱い人格を選び、それとともに別世界で消滅して行ったと想像してみるのです。

そう考える内に、これはあの手術の経験に限らず、毎日毎日眠りから覚めると同時に、その朝の自分の魂がそれに見合った自分を選んで生きていると考えるようになりました。

自己は信頼するに値するか?この答えは、ですからこうです。「自己を信頼出来る魂が、信頼出来る人格を選んで生きている」
「日々の幸運な状況が魂を慰め、鼓舞するのではない。活き活きと生きようと意欲する魂が、生きる人生を選んでいる。」

もしこれを読んでいるあなたが、現在弱い自分として生きているように思うなら、強い自分が生きている世界を想像し、その人格に乗り移ってみる。例えば、明日朝起きた時に、その人格に乗り移って、生き始めてみることができるはずです。明日から違う世界に移行するのです。

さて、このことを考えながら、「自己信頼」とは、「自己の存在そのものを強く肯定して信じること」ではないかと捉えてみました。「自己存在」といえば、ハイデガー...。最近読んでいる『ハイデガー=存在神秘の哲学』は、とても思い切った切れ味の良さで、ハイデガーの「存在論」を解釈しています。目からウロコです。それに関して、とても重要な文章がありましたので、一部引用致します。

「存在はモノ(存在者)ではない。モノではないから、現前しようがない。現前しないからそれを所有(記憶・補足・記憶・保存・把握)することができない。所有できないから当然、失いようもない。財布を落としましたと警察に届け出ることはできるが、財布の〈存在〉を紛失しましたと届け出るわけにはいかない。なぜならそもそも財布の〈存在〉を、ぼくたちは所有などしていないからだ。つまり存在は、所有の対象にならない。存在を、どんなかたちであれ、持つことなどできないということだ。」

興味を持たれた方は、是非この本をお読み下さい。この文章の先には、また驚くようなことが書かれていました。「神が存在なのではない、存在が神で〈ある〉」というのです。

自己の存在を強く信じた私ですが、それが神を信じることになると言われているようにも思え、そして確かに信仰とはそういうものかもしれないと腑に落ちるから驚くのです。

自己の存在そのものを私はどのようにも手を加えることができません。しかしどのような存在でろうとするかは、ずっと選んで来たように思います。そして、その存在の要は、自己の生きる姿勢というか、気持ちの持ちようというか、俗に魂というようなもので確かに左右されていると思えてならないのです。

そう思うと、私はもうこれまでに何度も死んでいて、様々な生き方を生きているのかもしれません。その内の「私」と意識している今ここにあるこの自己の存在は、画家であろうと必死に生きる自己を信じている自分です。その自分が選んだ世界が、ここに繰り広げられています。

画家を諦めた自分という者があるとすると、それはこの世界とは違うどこかで、それを生きているのかもしれない。それを選んだ自己はこのようにブログは書かずに、それに見合った世界で生きているのかもしれないのです。

そして、自分がどうありたいのかは、自分がまさに今ここで選んでいるわけですから、せっかくなら画家として大いに楽しみ、力強く、貪欲に出来うる限りの可能性を追求し究めて大往生したいと、そう考える今日この頃です(苦笑)。

さて、先に書きましたように「自己を信頼出来る魂が信頼出来る人格を選んで生きている」この考えの延長に、ある一人の人の悩みを解決する糸口が見えて来ました。

その方は、ある有名な版画家の作品を所蔵している方で、そのエディション番号違いの同じ版画作品がある美術館の所蔵となったことをとても誇りにされています。そして、その鑑識眼で、私の作品の中から、後世に傑作とされる作品を買ってみたいと思われているわけですが、その手前でずっと悩まれ続けています。

この話を最後に書くのは、これまで書いて来た「自己存在の信頼」からこの解決の糸口になるのではないかと思ったからです。

その方が、朝目覚めた時に、その魂が素晴らしい作品に出会える準備があれば、それに見合った作品との出会いが用意されるというのが、私の答です。そして私にしても、私がある朝目覚め、その魂が自己の目指す画家の求めるところに従ってキャンバスに向かい描くものは、その魂の求める世界にあって、その作品が求める人との出会いが用意されている。そしてその作品を所有した人の魂の選ぶところに従って、その人に何らかの報酬がもたらされる。

それは絵画から得られる個人的な至福の喜びかもしれないし、あるいは多くの人と共有出来る歓喜の嵐かもしれない。それはその人の魂が絵画に何を求めるかによって決まるということです。美術館に所蔵される事が最高と思えばその価値基準の世界が用意され、そうではなく名作とは実は個人が手放さず、密かに隠し持っているもの、という価値基準があればそのような作品と世界が用意されるという事でしょう。

そしてここにあるひとつの矛盾があることに気付きます。版画は同じ図柄で複数枚あるので、その作品が美術館に所蔵されるにふさわしい作品であることを立証出来ますが、しかし唯一無二のキャンバス作品は、それを立証する事は有り得ないということです。喩え似たような図柄の作品があるとしても、その細部はやはり同じようにはできていないわけですから。それの何が優れているかなどは簡単には言い当てられないものです。つまり正解は永遠に与えられません。しかしそもそも、美術館にしても全てが傑作かどうかという問題もあるわけで、そのようなことで自分の鑑識眼を測ることは無意味にも思えて来ます。

むしろこうとも言えます。自己の鑑識眼を信じてみようと思うからこそ、その信じ方の度合いに応じて、それに応え得る作品が与えられるのではないでしょうか?

私が出来る事は、私という画家の生きるべき姿勢を毎朝正し、キャンバスに向かい、その誠意を尽くし、描き続けるという他ありません。その私に、作品を買って私の生活、制作を支えようとする人との縁がもたらされるということだと信じて、ただひたすら制作するしかないのです。

今制作中の30号の作品はなかなか完成しませんが、題名はもう決まりました。「白への情熱」です。

追伸:このブログサイトの読者様から、キャンバス作品をご注文頂きました。これまでに画集や通信誌をお買い上げ頂いておりますが、まだお会いしたことのない方です。本当に感謝の気持ちで一杯です。この場をお借りしまして、お礼申し上げます。

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