大腿骨頸基部骨折回復記録−4

お陰さまで、家の中は不自由なく歩けるようになって来ました。
制作への集中力もまた元に戻って来た実感があります。
しかし、くしゃみと寝返りには、激痛が走る瞬間があり、困らされています(苦笑)。

ほぼ毎日のように、お見舞いのメールや美術館での展示を見に行って下さったご感想を頂いています。
返事がなかなか書けず、失礼しており、申し訳ございません。

「風はみちびく」については、送った方からこのようなご意見を頂きました。
ありがとうございます!

「風はみちびく」良いタイトルですね。
以前も申しました通り、私はタイトルはあまり気にしないタイプですが、
今回は、川田さんのお手紙にもありました、
「新しい道をきっと風がみちびいてくれることを願ってやみません」
のお言葉も手伝ってか、心に響きました。
すると不思議なことに、頂いた絵も、無題で見る場合と違って見えました。
風の音とか、季節とか、天気とか、周りを舞っている、葉っぱとか、花びらまで感じられました。
ただの線だけではなく、有機的な情景も感じられました。
タイトルも絵の一部を担っていると、充分思いました。

これまで、絵だけで純粋に表現しようと思い過ぎていたところもあり、たまにこういう作品があってもいいかなぁと考えられるようになって来ました(あまり文章やタイトルに頼り過ぎてもいけないとは思うのですが)。

感想を下さった方には、作品の題名の由来を書いてお返事しました。
ここでもご紹介したいと思います。

「風はみちびく」は、最初は仮題として「枯れ木に花を」と名付けていました。
「花咲か爺さん」のお話しが頭の隅にありました。
お手紙の最後に、
「この作品を見る人が、自分なりの花を咲かせて下さるように、あえて花は描きませんでした。
どうぞ、この枯れ木に心の花を咲かせて下さい。」と書きました。

しかし、下書きをしている段階で、送り先の年配者の方たちのお顔が浮かび、
「枯れ木」は失礼とも思い、削除し、作品の説明文から
「風はみちびく」という言葉を捻出しました。

「花咲か爺さん」の話は、私の制作にとても通じる内容を読み取ることが出来ます。
正直な気持ちで、キャンバスに向かい、自分の中のポチが、
「ここ掘れワンワン」と鳴く声に耳を傾けて、
キャンバスに塗られた絵具層をスクラッチ技法で掘り進めるからです。
自分が正直でなければ、ガラクタの山、正直であれば、宝の山が築けます。
ポチは正直でないお爺さんに殺されて、骨になりましたが、
それを正直な爺さんが枯れ木に撒くと花が咲きました。

誰もが心の中に正直な爺さんと、そうでない爺さんを持っていそうです。
あるいは、正直爺さんとは無意識のことであり、
正直でない爺さんとは意識のことかもしれません。

向月台」というブログ主様からも、沢山の感想をお寄せ頂きました。
謹んで拝読させて頂きました。
そのほんの一部をご紹介させて頂きます。

「風はみちびく」は、ほんのりと赤茶色の色合いであることに気づきました。これが黒一色であれば、先の見えない荒涼とした不毛な真冬のような情景になってしまいます。しかし、かすかに暖色方向の色であることによって、期待や希望の萌芽・向日性などを内包していることが感じ取れます。(これがピンクや赤であったら、能天気で無分別であったり、ギトギトしてトゲトゲしい欲望むき出し、になってしまいますが…笑)
良いことも悪いこともあった様々な経験を経た上で、今がある。選択されなかったもう一方の自分自身の欲望が心の奥から突き上げてくる事もあるけれど、それもこれも肯定的に飲み込んで、白と黒の枝が複雑に絡み合うようにしながら、今の自分自身は構成されている…。まっすぐ天に向かって伸びているのではなく、風雪に横ざまに吹き付けられて今の姿はあるけれど、新芽はまっすぐに伸びる…!今現在はそんな事を想起させられる「風はみちびく」ですが、5年後10年後はどんなであろうか…?

ブログ主様は、「秩父25番・鬼女」の写真を私にご紹介して下さいました。
「鬼女」怖いですね〜(苦笑)。

私は、次のような画像とともに我が家に言い伝えられる次のような「鬼子母神」の話しを書いてお返事にしました。

私の母は、3歳の時に、丹毒という病気にかかり、全身が腫れ上がって、死にそうになったのですが、曾祖母がこの鬼子母神に拝みに行って、一命をとりとめたそうです。
その一命をとりとめた時に、曾祖母は裏のお稲荷さんの上空を、鬼子母神を祀る寺に向かって、長く大きなしっぽを持つ白い狐が飛んで行ったのを見たそうです。
母の生れ育った三浦は、今でも陸の孤島と呼ばれていて、昔からの言い伝えと現実とが混在するような場所です。
私はそういう話しを沢山聞いて育ちました。

しかし、お写真の鬼女はもっと怖いような、リアリティのある像ですね。

不気味なもの、恐ろしいもの、そういうものから目をそらせてしまいがちですが、逃げれば逃げる程、それは襲いかかって来そうです。
むしろそういうものと対峙して、なぜそれが自分にとって恐ろしいのかを、問わなければならないような気がします。
つまり恐ろしく思える自分の中にこそ、恐ろしさがあると自覚しなければならないのでしょう。

実はこういうことがありました。
もう20年くらい前の事ですが、私はその日横浜の繁華街で、ぼーっと歩いていたところ、突然自転車が目の前に突っ込んできました。
その瞬間、スローモーションのように自転車があたるであろう部分に、先に痛さが生じたのです。
そして、その自転車は、私にぶつかる事もなく、すっと避けて行きました。
その時に気付いたのです。何かがぶつかるから痛いのではなく、痛みというのを自分の意識か身体がつくっているのだと。
痛みは確かに先にあったのです。しかし、安心した瞬間にさっと消えました。

今回骨をおりましたが、自覚がないほど痛みがなかったために、私は救急車を呼ぶということを考えられずに、
治療を先延ばしにしてしまい、返って悪化させたかもしれないと言われましたが、
こういうことも全て自分の意識がつくっているとしたら、それは一体どういう意味があるのだろうかとずっと考えているところです。

また、何かはっとわかるようなことがありましたら、ぜひブログに書いてみようと思います。

伊豆大島波浮港の松の思い出を重ねて「風はみちびく」のご感想を書いて下さった人がいます。
この方は、「嵐の中に堂々とそびえ立つ黒松」を見て、このような松のように生きようと誓った時のことを書かれていました。そして、復活祭(Easter) の日にとして、次の文章が添えられていました。

人は自然という現象を見ながら生きていく意志や心、優しさや愛、厳しさや無常、美、ときには神などを感じることがあります。
あなたの「風はみちびく」にはどのような予感が込められているのでしょうか?

素晴らしいご感想を私だけのものにしてはもったいないと、皆様に了解を得てブログに掲載させて頂く事に致しました。本当にありがとうございました!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です