制作のあいまにー読書録

先週は岩手の東和町の萬鉄五郎記念美術館にも駆け足で行って来ました。
その日1日だけ天気も良く、暖かでした。

久々に萬鉄五郎の作品に、私なりのある発見があり、感化されて帰って来ました。
制作に活かして行きたいと思っています。

また、今週は今月22日から始まる東京国立近代美術館の『マチエールの魅力展』のための、
資料となる作品のCCD撮影に立ち会い、
あらためて自作の画肌の仕組みを人に言葉で伝える難しさを実感するとともに、
言葉よりもCCDの撮影画像のはるかに説得力のあることを思い知らされました(苦笑)。

この画像は、展覧会会期中に、作品と一緒に掲示されるそうです。
肉眼では感知出来ない、スクラッチの線の構造がはじめて明かされます。

このブログでも、追々、以上の内容をもう少し細かくご報告出来ればと思っています。

しかし、このような外出はめったにないことで、
大抵は、制作をしつつ、たまに本を乱読している、そんな毎日です。

フナオカの膠塗りのキャンバスロールを木枠に張ったり、
昔に手を掛けたままのスクラッチ作品にハッチングを加えたり、
プリント作品の紙を求めて、和紙を含めたさまざまなサンプルを取り寄せたり、
本形式の作品の構想を練ったり、
押し入れや本棚の整理をしたり、
そしてAmazonで本をチェックして、読書する。

そんな感じでしょうか。

自分のこの状況を喩えると、大海に漂流していて、
ふと淋しくなると、大きな鯨を遠くに発見し、
「あぁ、私は一人で生きているわけではない。
あの鯨もこうして人知れぬところで悠々と波と戯れている。」
と感じるような光景を思い起こします。

あるいは、実は私の一生というのは、
どこか見知らぬ国の誰かが、夢描いている人物なのであって、
私という実態などどこにもなく、
あるのはその人の想念としての自分を、自分として思い込んでいるだけの私ではないか、と思ったりします。
(ややこしいですけどね)

この誰かとは、毎日何の刺激も楽しみもないような人物なのかもしれないし、
あるいはもしかしたら耳や目が不自由で、言葉すら発することのできない、そういう境遇の人が、
唯一の楽しみとして思い描く空想上の人生が、自分の人生なのではないかと想定してみるのです。

すると、画家として生きているこの奇な境遇を楽しまないと、
申し訳ないような気になって来ますから不思議です。
なるべくその人が、面白いから続きをもっと見たい、と思ってくれるような人生にしたいものです。

こんな夢想をしていると、ページをめくる本からも自ずと興味深い言葉を探すことが出来、
それが制作への活力となります。

最近はニーチェが気になっています。

ニーチェは「神は死んだ」という言葉で有名ですが、
私にとっての興味は、むしろ、芸術家が常に臭わせるニヒリズムの由来を、ニーチェの書物に訪ね、
そのニヒリズムの犯している罪とは何かを探るような読書の仕方です。

でも今のところ、あまり罪を感じないのです、実は。。。。
『ツァラトゥストラ』を読むと、むしろニーチェの高揚する語調に、ニヒリズムのかけらも感じず、
むしろ妙にハイなので、こちらがニヒルになっちゃうのですね(苦笑)。

なので、もう少し勉強しようと思って、ハイデガー著の『ニーチェ〈1〉』を読んでみました。
するとこれも、力強い!彼はしきりにニーチェの「力への意志」という言葉が何であるか、
を一生懸命説明しています。

そしてこの「力への意志」の生の表現が芸術作品によって純粋な形で、
私たちは見ることが出来るとか、そもそも創造的に生きるということはすべて芸術活動なのだから、
この「力への意志」は生きる私たちにとって、とても重要な言葉なのだということを一生懸命書き綴っています。

だから、今のところ私自身は全然ニヒリズムには至っていません(笑)。

どういうところから、ニーチェが人生や神に失望するようになってしまうのか、
今のところは読みとれていません。

私が『ツァラトゥストラ』を読んでいて、とても感動した部分をちょこっと書き出してみますね。

 精神がもはや主とか神とか呼ぶことを欲しない大きな竜とは、どのようなものか?この大きな竜は、「なんじ、なすべし」と呼ばれる。だが、シシの精神は「われ欲す」と言う。
「なんじ、なすべし」が、この精神の行く道のかたわらに、金色にきらめきながら、横たわっている。それは一匹の有隣動物であって、そのうろこの一枚一枚に、「なんじ、なすべし!」が金色に輝いている。
 これらのうろこには、千年の諸価値が輝いている。

(ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)p.48~49より)

なんて凄い場面でしょう!力強く、想像力をかき立てます。

と同時にこのシーンを私は夢で昔見たことがあって、驚きました。
デジャブというのでしょうか?
あの夢はそういうことだったのかと、まさに目から鱗(笑)!

このような作品を描いてみたいものです。
作品を観る人に力強く「なんじ、なすべし!」と伝えられるような作品を。。。

私の作品は、見る人によっては、竜のようにも獣のようにも見えるものもあるようですしね。。。

絵画制作には、常に「力への意志」が不可欠です。
どこから制作への意欲を沸き立たせるか、
画家としてもモチベーションを常に高いところで維持出来るのか、
創作を掻き立てる力はどのようにして生まれるのか。。。枯渇することがあるのか。。。どうか。。。

そんなことを考えつつ、さまざまな先人の残した書物をめくります。
まだまだ、出会っていない素晴らしい言葉が、どこかに書かれているのではないか。
それはごくありふれた言葉かもしれないけれど、それを必要とする者にとっては、
命が救われるような、生きる活力となるような言葉というものが存在すると思うのです。

絵画作品にも、そういうことが出来るかどうか。。。そんなことを思索しながら制作しています。

絵画制作では、自己の存在をどうとらえるかが、決定的な問題になって来ます。
なぜ描くか、という問いは、そのまま私とは何かという問いに繋がり、
そして、結局私が出来ることは何なのか、という問いに戻って来るからです。
これが、哲学です。哲学のない絵画などありえません。
浅いか、深いかの違いはあるにしても。。。

ということでその他に、同時並行して読んでいる本は下記のとおりです。

ベノワ・B・マンデルブロ著『禁断の市場 』
フラクタルという言葉の創設者です。フラクラル理論を知りたくて読んでいます。
昨年亡くなり、近々、『フラクタル幾何学』という本が刊行されます。
この本のはじめの序文で、感動してしまいました。研究者の力への意志を感じ入ったからです。

岩渕潤子著『美術館の誕生―美は誰のものか 』 
美術館の成り立ち、展覧会とは何かを、とても詳しく紹介されています。
そもそも美術館て何?展覧会っていつごろからするようになったの?
あらためて美術館の存在について考えてみたいと思って読んでいます。

最近面白く、すぐに読めたのは、
宮下規久朗著『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』
帯の裏のこの言葉に目からウロコでした!
「自分を捨てる すべてを捨てる 
ウォーホールの個性否定や自己の無化は、ある意味、キリスト教の隠修士的態度に通じるようだ。...」
そのような目で作品を見たことがありませんでした。しかし、確かに納得してしまったのです。
ウォーホール作品は、個人的にはあまり欲しいとは思いませんが、そのコンセプトは素晴らしいと感じることができたのでした。

この間、丸善本店で立ち読みして、どうしても読みたいと思っている欲しい本は、
ハイデガー著『言葉への途上』素敵な泉の詩が紹介されていて、その解釈が忘れられません。もう一度読みたい。。。手に入れて、読みたい。。。絶版になる前に。

まだまだ沢山、本については書けますが、この辺で。

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