七面鳥の悲劇

幼かった私と妹は、ある日手塚治虫の漫画でよく描かれている、
肉のかたまりを一度食べてみたいというようなことを話していました。
「ああいう大きな肉のかたまりは何の肉なんだろう?」
それを聞いていた父は、「それは七面鳥の丸焼きだろ。」ということで、
クリスマスのイブの夜、横浜関内の「梅屋」からローストされた七面鳥が買って来られたのでした。
(骨の先につける紙でできた装飾もついていました。)

当時7000円くらいだったと思います。
それを囲んで家族4人は、黙々と食べ始めました。
「にわとりより美味しいから有名なんでしょ?」
「漫画みたいにもっと原始的に手でかぶりつくように食べなきゃ。」
「にわとりとはやっぱり味が違う。」
「だって七面鳥だもん。」
「………美味しいの?」
「これが七面鳥という美味しさなのよ。」
「にわとりの方が美味しくない?」
「この野生臭さの良さがわからなきゃね。」
「……..。」
「もう食べられない。」
「大きいからね。」
「でも七面鳥の味はよくわかった。」
ということで、それでも2分の1は食べたでしょうか?なかなか食べごたえがあったのです。

母は、また明日食べよう、とそそくさと冷蔵庫に入れていました。
それがクリスマスのイブ。
次の日の夕飯、大鍋に骨と肉が入れられ、上品なポトフとなりました。
やはり味は鶏ではなく、七面鳥でした。
その次の日は、それがカレーに大変身。
父は「さすがにいい出しがでているからコクのあるカレーになった」と満足そうでした。
七面鳥の味はカレー味の奥に隠れ、食べやすくなっていました。

27日のお昼に、そのカレーはスパゲティーにかけられて出されました。
不思議なことに前の日よりも七面鳥の味がしました。
脳が味を覚えていて、せっかく隠れている七面鳥の味を舌の上でよみがえらせるのです。

28日のお昼には、それが季節はずれのそうめんにかけられて食べました。
何でも暮れの掃除をしていたら、まだ賞味期限の過ぎていないそうめんがみつかり、
それを今年中に掃除して欲しいというわけです。
そのころには正直言って、七面鳥はもうこりごりと思いつつも、
値段の高さに責任を感じて、黙って食べました。
カレーはそこで終わりました。

そして、29日、30日はどうだったのか忘れてしまいましたが、
口の中はこの七面鳥の味が1日中していたことは間違いありません。

でもまだ七面鳥の肉は冷蔵庫の中にあったのです。
31日にそれは年越しそばのつゆのダシとしてそばと一緒に浮かんでいました。
でも父には文句を言えませんでした。

そして迎えた元旦の日、
朝頂いた雑煮にも七面鳥のほぐした肉がもちに寄り添っていたのでした。
七面鳥の雑煮は、七面鳥のポトフと同じ味付けでした。
母にだけは、こっそり「もう七面鳥はうんざりだから。」と言えましたが、
それは母と私と妹の一致した意見でした。
父の感想は聞いていません。満足そうでしたから…..。

でも人間というのは1年たつとすっかり忘れてしまうものです。
次の年もその次の年も、この苦行が毎年繰り返されました。
「七面鳥」という言葉の響きと、クリスマスを家族で楽しく過ごすには、
あのスケール感は魅力的なのです。
それにくらべると、ローストチキンは何て小さく、そして美味しいのでしょう。
でも、やがて父は「七面鳥」を買いに行くのが楽しみになってしまったのです。

それは父の家族への深い愛情表現なのか、
単に買い物の優越感や自己満足を満たす行為だったのか、
今となっては本人に聞くこともできません。
この同じ食べ物を繰り返与えられる習慣は、
みかんと七面鳥だけではありません。
ユーハイムの砂糖がけのシフォンケーキ、モロゾフの大きなプリン、
和菓子攻撃、虎屋羊羹攻め、甘~いコーヒー、
牛乳たっぷりのミルクティ、ブランデー入りの甘く渋すぎるダージリンティ
などを思い出すことができます。

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