メルロ=ポンティの絵画論における身体性

先日購入したフランスの哲学者メルロ=ポンティの芸術論を集めた『間接的言語と沈黙の声』は、芸術に関心のある人には、お勧めの良書です。

おそらく芸術関係の人は、余程の変態(笑)でない限り、手に取らないであろう、題名からは内容がわからない芸術関係図書が、結構あるものなのです。この本はその1冊です。なぜ単純に『芸術論』としないのか、さっぱり意図が掴めません。逆に芸術系はどうせ本を読まないから、消費者対象外とされているかもですよ。。。

知人曰く、「芸術に関しての本が売れないのは、たとえ素晴らしい内容が書いてあったとしても、それを読んだからといって、素晴らしい芸術を生み出せるわけではないから」ですって、なるほど、一つの真理かもしれません(苦笑)。

しかし、一方でさまざまな賢人が「思考が現実を実現化させる」という真理があるならば、一読の価値があるのではないかと、私などは純粋にそう信じて疑いません。

まだまだ世界には、隠され、埋もれた知恵が潜んでいて、それを必要な時に与えられるに違いないと、本を読み続け、見落としがないようにと祈りながら、この世界を見つめ続けるのです。

メルロ=ポンティの素晴らしい言葉を今日は一つだけご紹介致します。

余談ですが、私は、美大生にかつてこのメルロ=ポンティの『眼と精神』と『知覚の現象学2』をあげてしまい、先日『知覚の現象学1』を売ってしまったのですが、なぜか、この『間接的言語と沈黙の声』には、『眼と精神』が同じ木田元氏の訳で収録されていました。また読みなさい、という事なのでしょう。

『画家は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、<精神>が絵を描くなどということは、考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。』(『眼と精神』より)

この言葉を読むと、なぜかとてもホッとするのです。以前から、「自分は器であって、そこに入って来るものを絵にするのだ」というようなことをたびたび私は言って来ました。私という存在は、どこかとても頼りなく、弱々しく、何の確固たる信念などそもそもありません。

しかし、描きたいという衝動と、描くことで、自分のこの不確かな存在を確かなものとして味わいたい、という強い気持ちがあることは確かなのです。

自分を支える文化背景や生まれや育った環境などというものは、確かに自分の記憶の中に存在しますが、それはとても刹那的で、人類の普遍的なものとして取り出せるものは、ほんのわずかなものでしかないような気がしてなりません(このあたりに、仮の姿とか、身体を貸すというような概念に納得してしまうのです)。

それでも、それをひとつひとつ吟味して、自分の味として出す事は可能だとしても、それはどこまでも味であって、真理というような確かな手ごたえになるまでに、自分自身がそれを感受できるかどうか....、それがまた不確かなものなのです。

人の仕事を横目で見て、そういうことは客観的にはわかるのですが、自分のことは案外誰でも盲目的であったりします。

ですから、結局、自分が案外自分の表現の妨げになっているようなところがありまして、下手な判断をしない、無欲というか、判断をむしろ投げ出す、自然のなりゆきにゆだねる、という他手段がないことばかりなのです。そういう意味では脱力ということも大切です。

そういうと、その人の主体的な表現が全く無いのか、という話しになりますし、そんな脱力で意志薄弱な性質では、やはり絵は描けないですね。。。しかし、どんなに放り投げても、無欲になったつもりで、純粋無垢に絵を描いても、必ずその人そのものとしか思えないような一種の匂いと言うか、癖というものがあるから不思議です。そういうものが、取り出せるまで、絵を描くことがまず大切なのだと思います。

メルロ=ポンティの「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。」という言葉は、その癖とか匂いというのが、身体性と密接に関係していることを示唆してくれています。

先ほどの「思考が現実を実現化」するという言葉の「思考」もおそらく身体にもっと深く染み込む程の思考を言うのだと思うのです。単なる観念的な、概念やアイデアというもの以上の身体から湧き出る程の強い意志を持った思考、そういう力が、画家には必要なのです。

この思考は、ですから、頭でっかちな理屈のようなものではないですね。メルロ=ポンティのこの『眼と精神』を最初に読んだのは、今からちょうど20年程前のことになります。当時、禅や老荘思想について関心がある時だったので、この「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。」という文章の部分に「万物斉同」という状態?と、付箋にメモ書きして挟んだ記憶があります。

世界とひとつになったり、自分を世界に開くという境地、そのような状態で画家は普遍という境地をつかもうとするものだと思います。そこからその人が、天から与えられたものとしかいいようのない、啓示のようなものが与えられ、それによって独特の世界がつくられていくのではいか、と当時思ったものでした。それがやがて様式(スタイル)として次第に形成されて行くのでしょう。

先に様式があって、そこに自分をあてはめたり、無理に押し込めているような作品は、やはり、どこか無理があって、創る方も見る方もどこか窮屈なものです。

なんだかわからない、模索するような混沌とした中から、自然に生まれる、そういう熟成の時期を根気づよく待たなければなりません。

絵がその作家の唯一の絵になるまでには、長い年月を必要とします。そういう温かい目で、日本の社会が画家を育んでもらえる時代が待たれます。必ずそのようにして社会が育てた絵は、長い年月の後には、多くの人にアイデンティティや文化基盤として貢献する力となるはずなのですから。

若く画家を志す人たちが沢山います。しかし、多くは挫折し、社会のしがらみから自由になれず、才能があるにも関わらず、苦悩しながら断念してしまいます。出会った画家が身近にいるのであれば、是非温かな励ましや、見守り育む心を多くの人に持って頂ければと願ってやみません。

さて、絵は本当に奥が深く、汲めども尽きぬ泉のようです。あるいは底のない沼地であるかもしれません。そのそら恐ろしいような深淵に一人果敢に画家を貫き通す...、何の因果でしょうか(汗)、しかし、そのような途上にあって、先人は、道の先々に多くの糧を残してくれています。

最後に、メルロ=ポンティのこの本の「セザンヌの疑惑」から一文。
これはセザンヌの言葉です。

「彼らは絵を作っていたのだが、いまわれわれは、自然の一片を作ろうと試みているんだ。」

セザンヌは、そうしてこの見ず知らずの遠い日本の時代をはるかに超えた女性画家にも、そっと微笑み、「われわれは」と、語りかけてくれています。

私はこの言葉に励まされ、制作のあいまに、文章を綴らずにはいられなくなりました。

今日は、メルロ=ポンティをご紹介しながら、画家の世界を少しだけ垣間見て頂けたでしょうか(笑顔)。。。

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