ヘーゲルと「精神」ー 私の使命

制作をしながら、その合間に今読んでいるのは、『歴史哲学講義』からはじまる長谷川宏訳の一連のヘーゲル著作『美学講義』『哲学史講義』です。長谷川宏の翻訳については、賛否両論が極端なのですが、私は迷わず賛同派です。確かにヘーゲルの本を必要とするのは、大抵研究者であって、研究論文の引用のためには使えない本かもしれない。しかし、私のように芸術活動の傍らに哲学や美学を学ぼうとする者にとっては、翻訳の微妙な解釈よりも、ヘーゲルの躍動するような言明を読むことの方が、はるかに価値のあることなのです。

「講義」とあるように、これらの講義本は、ヘーゲルが直接執筆したものではなく、大学の講義に出席した人たちのノートを集めて編集されたものです。従って、ヘーゲルの口述での語り口が、残されていて、厳密さは欠いているところがあるかもしれませんが、むしろヘーゲルの伝えたい意図がとても明確に読み取れるのです。
ドイツ語を日常会話程度できる人にとって、ドイツ文を聞いた通りの流れの順番で意味を読み取っていくことは自然の流れであって、長谷川訳は、かなりその流儀に近いように感じ、「講義」ということも幸いして自然に内容が頭に入りやすい著作になっています。

なぜ、ヘーゲルを読み始めたかは忘れましたが、これらの著作に囲まれることになったきっかけがあります。『歴史哲学講義』の上巻の半分は序論についやされていますが、それが終わると最初に来るのが東洋の世界なのですが、そこに衝撃的にも東洋にはそもそも精神などないのだというようなことが書かれていたのです。これには、正直言ってかなりショックでした。

東洋と言っても中国とインドペルシャが述べられているもので、日本という国の事など何一つ出て来ませんし、この講義が行われた時代背景の問題もあるのかもしれないとは思うものの、はたと立ち止まり、そもそも「精神」って何だろう?私には「精神」があることになっているだろうか?と考え始めたのです。また、日本人が精神だと思っている事が、実はヨーロッパから見たら、とるに足らない精神でしかないのであったら、と思うと尚更わからないままにしておくことはできません。

ヘーゲルは東洋の精神というのは、「共同精神が権威としてあらわれたもの」だと言います。なるほどと確かにそういう実感があります。日本の社会では「和をもって尊しとなす」は鉄則だからです。では、それは精神ではないのかと言うと、ヘーゲルによれば、それは精神とはならないのです。それは「内面的なものが外から強制されている」「命令されている」だけだというのです。これもなるほどと思います。日本の社会で個人というのがいつまでも自立しないのは、この「命令」と「束縛」に守られた「依存」によって成り立つ社会だからです。そこでは「命令をくだす意志は存在するが、内面の命令にしたがって義務を実行するような意志が存在しない」。そして「精神が内面性を獲得していないために、精神は自然のままの精神としてしかあらわれません。」とあるのです。とまあ、まるで子供扱いです。この内面の命令とは何か?これは歴史の範疇ではなく、やはり哲学の問題になります。

長谷川宏翻訳本には、他にヘーゲルの『精神現象学』というのがあるのですが、これは長谷川本にしても難解な部類に入ります。少し読んだだけでは、知りたいこと以前のところでつまずいて、なかなか先に到達しません。そこで『歴史哲学講義』の下巻を読み終わるか終わらない内に、『哲学史講義』を見つけ出しました。

『哲学史講義』もこれまた序論が長く、いかに哲学史という学問が重要なものであるかが書かれているわけですが、そういう順序を踏まえなくても、自分の必要な哲学からランダムに読む事も可能です。私は中巻のアリストテレスから読み始めました。そこから方向転換してその前のプラトンに戻りました。そこにとても重要なことが書かれていました。

プラトンの「理念(イデア)」についての説明に書かれていたことです。

ディオゲネス・ラエリティオスにこんな話があります。「プラトンがテーブルらしさやコップらしさを論じたとき、キニク派のディオゲネスが『わたしにはテーブルやコップは見えるけれども、テーブルらしさやコップらしさは見えない』といった。プラトンは答えた。『そりゃそうだ。テーブルやコップを見るための目はきみにあるが、テーブルらしさやコップらしさを見るには精神が必要で、その精神がきみにはないからね。』」(『哲学史講義(中)』p.32)

精神が思わぬところから確かめられることに驚くばかりです。「テーブルらしさやコップらしさ」だなんて!ちなみに、ディオゲネスを日本人に置き換えて、文章をつくってみましょうか。

「プラトンがテーブルらしさやコップらしさを論じたとき、日本の凡人が『わたしにはテーブルやコップは見えるけれども、テーブルらしさやコップらしさはうまく言えない。けれど、テレビや雑誌には、毎日のようにテーブルらしいものやコップらしいものは沢山紹介されているし、町にはそういう商品が溢れている。皆がそれらしいと思うことは何となくわかる。』といった。プラトンは答えた。『きみにあるのは共通の感覚だけれど、そこにはきみの感覚は埋没してしまっているね。きみ独自の精神はどこにあるの?』」

「らしさ」とは何か?ごく簡単に言うならば、現実のその一例にすぎない存在の背景にある、普遍的な真理。理想の姿。というところでしょうか。そういうものを想い描く力がなぜ必要かというと、これを考える事がより新しいものを創り出すための源泉になるからです。逆に言えば、日本の社会で新しいものが出ないとすれば、これを考える意欲、まさしく個人の精神が欠如している、またはもともとないかもしれないとも言えるかもしれません。

ヘーゲルの考え方から推測するに、東洋では、かつて芸術を作ったのは、それを作らせた権力があり、その命令に従ってこれまでの美術文化が残されているそういう歴史だけです。これらにそれを作り上げた一個人の精神など、ほとんど意味を勝ち得ていません。確かに芸術活動は、社会の意志というものを反映しているものですが、その社会そのものに個人が意欲的に関わっていないという現象が日本にあるわけです。「束縛」と「依存」によるしがらみのようなものが日本の社会であるなら、そのようなものが芸術に反映しても、ヨーロッパの方から、芸術作品として見るに値するのかと思うのです。おそらくエキゾチックな民芸品のようなものにすぎない。アニメ文化を代表とする昨今のクールジャパン等も、おそらくそのたぐいに過ぎないのです。「自分たちに精神はない」のだ、といくら居直ったとしても、おそらく芸術の領域には加えられることはないだろうと思うのですが、どうでしょう?

そういえば、「現代美術らしい」作品は、たしかに巷に溢れています。しかしそれにしても、それは「現代美術」というカテゴリーのスタイルや様式を共有しているだけで、本当にこの時代を代表するような精神や理念を勝ち得た作品になっているのでしょうか?

さて、ヘーゲル(1770-1831)という人は、ちょうどゲーテ(1749-1832)と同時代。そしてベートーヴェン(1770-1827)とは同い年です。日本では葛飾北斎(1760−1849)が同時代の人です。日本では、長く江戸幕府の太平の世の中であるのに対し、ドイツはヨーロッパの中にあって後進国のポジションにあって、シェ−クスピアをはじめとする文芸文化、科学や産業の発展するイギリスに遅れをとっているだけでなく、隣国のナポレオン率いるフランスが押し寄せて来て、ドイツ国民としてのアイデンティティが危ぶまれ、必死に骨身を削っているような時代であったように思われます。ゲーテのまさに「疾風怒濤」の時代です。そういう時にこそ、人間は底力を発揮して、全能力を開花させるものなのかもしれません。この3人のドイツ文化への貢献は、はかりしれないものです。

先の逸話はプラトンのものですが、ヘーゲルがこれを掘り起こし、哲学史としてまとめて行くその背景には、ドイツにヨーロッパの歴史の流れに立脚した彼自身の哲学というものを打ち立てようという意志があるからで、そのあらわれの断片として引用されているものです。

日本の現在の社会は、物質的には確かに恵まれているのかもしれません。しかし、その裏表には、見過ごされている「精神」の欠如もしくは未熟があるのです。それをそのまま表現する薄気味悪い「ネオテニー(未成熟)」というカテゴリーのまま、それを繰り返すだけの文化でよいのか、私ははなはだ疑問です。本来、そこを超克するのが、現代の日本の芸術活動に果たされた使命ではないかと思うからです。「精神」を勝ち取った個人としての存在を問う作品が残されなければなりません。それが私の制作活動の理念と使命でもあるのです。ヘーゲルの『美学講義』をよく読みつつ、「精神」の表現について思索を深めながら、制作していきたいと思っています。

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