ハイデガー芸術論『芸術作品の根源』『技術への問い』など

本日、鍵付き未公開のコメントを頂きました。ありがとうございます。
見ず知らずのお客様から、励ましのコメントを頂くと、ブログを長く書いて来て、本当に良かったと実感します。
自分の作品のことはあまりうまく書けないものですから、読書のことばかり書いております(苦笑)が。。。
どうぞ末永く『画布に雨を。。。』をご愛顧の程、よろしくお願い致します。

最近は、ハイデガーの『芸術作品の根源』を再度読み直しています。
技術への問い』に出て来る、ギリシャ語のピュシス(自然)やポイエーシス、テクネーという言葉のニュアンスがとても興味深く、ハイデガーの芸術論をもっと深く読み取りたくなったからです。

ハイデガーの文章は、画家にとって、制作を鼓舞するような、不思議な高揚感を与えてくれるところがあります。

例えば、『技術への問い』の付録「芸術の由来と思索の使命」(1967年にギリシャ政府から招待を受けて、アテネ学芸アカデミーで行われた講演で朗読されたノート)の文章は、まずそのアテネの人々に向けて、このように始まるのです。

「....われわれは、ここ、アテネで、かつてこの都市とアッティカ地方との守護者であった女神アテーネーに、助言と同行とを願おう。この女神の神性の充実は計り知れない。われわれは、ただアテーネーが芸術の由来についてわれわれに語ることだけを探求したいと思う。
(略)
アテーネーは、人間たちがなにかを生み出し、なにかを明るみにもたらし、なにかを成し遂げ、なにかを実行に移し、さまざまに行動するところの、どこにおいても支配している。それゆえ、アテーネーは、ヘラクレスが行動するとき、彼のために助言し、助力する女友達であった。
(略)
...支援するときでさえ目に見えず、しかも同時にその神性のはなはだしい懸隔ゆえに遠く離れている。アテーネーは、家財道具、容器、装飾品を製作する男達に特別な助言を授ける。製作にたくみで、自分の仕事に精通し、その処理を掌握できる者はみな一種のテクニテースである。このギリシャ語を「職人」と訳すなら、われわれはその意味をあまりにも狭く解しすぎている。建物を建築したり彫刻を制作する人もテクニテースと言う。
(略)
テクネーという語は一種の知を名指している。それは作ることや製造することを意味するのではない。この知は、造形物や作品を制作するさいに必要不可欠なものをあらかじめ看取することを意味する。作品は、学問の、哲学の、詩作の、弁論の作品でもありうる。芸術はテクネーであるが、技術 [Technik] ではない。芸術家はテクニテースであるが、技術者でも職人でもない。
......」

では、何なんでしょう?ということで、その続きは、是非『技術への問い』をお読み下さい!というわけです(笑)。ヒントは、アテネの目が輝くこと、いつも知の神フクロウを伴っていることなのです。

「ふくろうの目は、燃えるように ー 輝いているだけではない。それは夜を貫いて洞察 [blicken] し、それでなければ見ることのできないものを見えるようにする。」

このあと、アテネーの沈思する眼差しがやがて、ギリシャ人の言う「ピュシス(自然)」とラテン語のナトゥラ [natura] とのニュアンスの違いに触れて、さらに芸術の深い洞察へと切り込んで行く文章になっています。

このような文章に触れる時、ギリシャ神話の世界に裏打ちされている芸術の神聖さというものを実感しますし、また神話の神々とはそもそも、物語の中の登場人物のような形をとりながらも、実は哲学的な思索の手がかりとしての寓意、アレゴリーなのだということに気付かされます。

このように芸術を哲学することで、ギリシャの神々から言い知れぬ力を授かり、制作に向かう。。。というような至福の世界がこのハイデガーの芸術論に満ち満ちております。

ハイデガーの芸術をまずは入門編として知りたい方は、渡邊二郎著『芸術の哲学』がお勧めでしょう。
アリストテレスからニーチェ、そしてハイデガー、ガダマーという「存在論的美学」の系譜を知ることができます。ハイデガーの難解な芸術論を解きほぐして、「物」「道具」「作品」という関係をよりわかりやすく整理されています。

話しは『芸術作品の根源』に戻りますが、そこでのハイデガーによるゴッホの「農夫の靴」を見る眼差しは、後のデュシャンのレディーメイドの「泉」や、ウォーホールのキャンベルスープのシルクスクリーン版画の作品を見る際にも、重要な手がかりとなる、色褪せることの無い、むしろ現代美術の理解に無くてはならない視点と言えましょう。

また気が向いたら、引き続き、ハイデガーの素晴らしい芸術論の世界をご紹介できればと思っています。

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