サマセット・モーム『人間の絆』・アラベスク模様・草間弥生展

昨年を表わす漢字は『絆』でした。ラジオで未だに、この言葉を耳にする時、私が思い起こすのはフランス生まれのイギリス育ち、そしてロシア革命時には、イギリス情報局秘密情報部で情報工作員でもあったとされるサマセット・モームの『人間の絆』という小説です。10年程前に英語本の多読にハマっていた頃に、この人の小説やエッセーに夢中になりました。私が小説を読むというのは、滅多にないことなので、余程ツボに入ったということになります。

この『人間の絆』は、モームの自伝的な小説で、自らの不幸な生い立ちが題材となっているのですが、主人公フィリップを通して、彼独自の実存的な人生観が描かれ、深く心に染み入る作品です。巻末の翻訳者の中野好夫氏の解説に「柳は緑、花は紅と、われわれはここで付け加えたいところであろうか。それとも幸福の否定において、寂滅(ニルヴァーナ)の幸福に達したといえようか。...」という文章から仏教的な人生観を読み取り、いわゆる大衆小説を超えた深い死生観に、ため息をついたものでした。

しかしモームの小説自体には、仏教的な用語は使われてはいなくて、その代わりに「ペルシャ絨毯の模様」という言葉になっています。原文には確か、patern of arabesqueと書かれていたと記憶しています。その意味するところは、人間の人生模様というようなものは、意図してその個人が創造するというようなそのような狭い規模の問題ではなく、生きとし生きるものが、複雑にアラベスクの模様のように絡み合い、どこをどう切り離そうと、自分が意図してそのようになった部分など見極められるものではない、むしろさまざまな関係性の中で、それがそのように生きる以外なかったのだ、というような諦めの境地を、このアラベスク文様に託して語られているのです。

モームの中では、おそらくペルシャのアラベスク文様は、無意味、無個性、パターン化の象徴なのでしょう。人は創造的に自分らしい生き方をしようと苦悩する、しかしそうしようとすればする程、自分の無力さと、愚かさを思い知るばかりです。そして、なぜそのように生きなければならないのか、と自問しても、それはただそういう運命であったとしか言えないことばかりです。

「人生に意味などは、なにもないのだ。宇宙を突進している一恒星の、そのまた一衛星にすぎないこの地球上に、この遊星の歴史の一部である、或る種諸条件が揃った時、それによって、生物はただ偶然に生まれたのであり、したがって、他の或る種条件が揃えば、それは永久に消えてしまうだろう。人間とても、他のもろもろの生物と同様、無意味な存在にすぎないことは、すこしも変わりなく、創造の頂点として生れたものなどでは決してない。ただ環境への物理的反応として現われたものにすぎぬ。」(モーム『人間の絆』)

しかし、この諦めが決して深刻な二ヒリズでは終わらないのです。そこが、所謂ニーチェ的なニヒリズムと仏教的な虚無感の匂いを嗅ぎ分けられる、モーム小説の大衆小説に徹した力強さ、真骨頂と言えましょう。

「もし生が無意味だというならば、世界はその残忍性を剥奪されたも同様だった。彼がしたこと、し残したこと、いずれもみんな無意味なのだ。失敗も無ければ、成功も無。彼自身は、この地球の表面に、ほんの束の間存在し消える夥しい人間群の中の、最も小さい生き物にしかすぎないのだ。しかも混沌から、その虚無の秘密を探りとった彼は、その故にまた全能者でもあるのだ。彼は躍り上がって歌い出したくなった。....ひっきょう人生は、一つの模様意匠にすぎないと、そう考えてよいのだ。特にあることをしなければならないという意味もなければ、必要もない。ただすべては、彼自身の喜びのためにすることなのだ。行動といい、感情といい、人生の錯雑した、さまざまの事実の中から、人は精巧、整斉、複雑、華麗、それぞれの好みの意匠を織りなしてゆけばよいのだ。」(モーム『人間の絆』)

このような諦めからの逆転的な発想が、この小説の『人間の絆』という題名の「絆」に込められています。昨今の日本で使われている「絆」とは、かなり異なる内容なのです。「絆」という言葉に某かの違和感を感じている方は、是非この文字の理解のためにも、お勧めの1冊です。

さて、私はちょうど10年前の2002年に『BIO-ARABESQUE』(227.5x145cm)という作品を制作しました。偶像崇拝をしないイスラーム文化の美術表現と抽象表現とはどこか地下の経路で繋がるものを感じていたこともあり、ペルシャンブルーを基調とした絵具層をスクラッチし、模様と絵画の境界を探るようにして制作したのでした。この作品はその後、2002年に女子美アートミュージアムの企画グループ展『絵になる瞬間』展に出品し、そのまま女子美術大学の所蔵になったのでした。

抽象と模様とは、絵画の上で際どい問題を露呈させます。私はよく「模様のような絵ですね」と、よい意味で親しみをこめて感想を寄せて下さる人が多く、その言葉に戸惑いながらも、しかし冷静にそれについて考え続けて来ました。常に模様と風景と抽象の狭間で葛藤し、答をハッキリさせずに立ち止まり、ある時は思い切って失敗をしてみます。その立ち止まりと失敗こそに、新しい世界が見えて来る瞬間があるからです。「模様」と言われるときの、何らかの後ろめたさとは一体何なのか、人々が風景を見て喜び、安心しようとする。その心のよりどころを分ちようとする反面で、冷たく引き離し芸術に立ち向かう姿勢は、厳しく、孤独で、身が引き離されそうになることもあるのです。しかし勇気を持って前を向き、再び姿勢を正すのです。

画家として生きて行くことは、時に辛苦を味わい、矛盾に苦悩し、人生に迷い翻弄されます。ここ数年、とりわけ震災後、私は「もう画家であることを止めよう」と何度思ったことでしょう。しかしその問いは常に、いわゆる人としての「正しさ」の判断が、いかに愚かで手ぬるいものかを味わされるだけでした。人のためにとか、正しさを見せる、というようなことなど、所詮私の力の及ぶ事ではなかったのです。私は、筆を持ちカッターナイフで絵具を削るという方法でしか、満足に自分を活かす方法がないのだと、やっと気づくことができました。

昨日は、往復高速バスで大阪の国立国際美術館の『草間弥生 永遠の永遠の永遠』を見て来ました。私としてはむしろ同時開催のコレクション展に、心励まされ帰って来たと言えるかもしれません。コレクション展は、国立国際美術館が所蔵している女性作家の作品を中心に構成されていました。海外では、キキ、ブリジット・ライリーやウングワレー、国内では辰野登恵子、松本陽子、町田久美、内藤礼、高柳恵里、風間サチコ等。このようにまとめて良質な小品を見たのは初めてだったかもしれません。本当に楽しむ事が出来ました。でも、草間弥生のもっとずっと初期の作品を見たかったのですが、それがニューヨーク時代のネット作品止まりだったのは、かなり残念でした。草間弥生の長野時代の作品には、胸にぐっと来るものがあるのです。それが何なのか、ずっと知りたいと思っています。松本に行けば何かわかるのでしょうか?

女性がその一生を芸術に捧げることができるようになるのには、太古の昔から連綿と続く沢山の女性の少しずつの勇気と努力の積み重ねの果てにあるのです。けっして一人の女性作家の力のみでは、成し得なかったことです。それらの大いなる力に深く感謝し、その感謝を作品に還元して行かなければならないと決意したのでした。

ここでお知らせです。

4月7日(土)~6月3日(日)
横須賀美術館所蔵品展「横須賀・三浦半島の作家たち」にて下記作品が展示予定です。
『sea and stone 硯海』2006年作 227x91cm4枚組

kaneko2006展示風景

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